エリヤが来る マラキ3章19-24節 2023年3月26日礼拝説教

本日の聖句は旧約聖書と新約聖書のつなぎ目に当たります。キリスト教配列の「正典」はマラキ書の直後にマタイ福音書が置かれているからです。また、書かれた年代も新約聖書に非常に近い部分が含まれています。預言者エリヤについて書かれている22-24節は、前190年ごろに書かれたシラ書48章1-11節(特に10節)と内容が重なります。シラ書は「外典」(新共同訳聖書では「旧約聖書続編」と名づけています)の一つです。置かれている場所だけではなく、著作年代も旧約と新約の中間です。エリヤに対する尊敬は、前2世紀ごろから高まり、ユダヤ教の中では今に至るまで続いています。本日の聖句に基づいて毎年の過越祭では「エリヤの杯」が置かれ、エリヤの到来と世の終わりが待望されています。

またマラキ書末尾の内容は、ユダヤ教信仰だけではなくキリスト教信仰にとっても重要です。ここで言われている「エリヤ」(23節)を、キリスト教会はバプテスマのヨハネと同一視したからです。そしてヨハネまでを「旧約聖書の時代」と区分したからです(マタイ11章13-14節)。本日の招きの聖句ルカ福音書1章13-17節も、ヨハネがエリヤであるという信仰的立場を明らかにしています。

その日」(19節)・「私が作為しつつあるその日」(21節)・「ヤハウェ(主)の日」(23節)は、全て同じ時点のことを指します。世の終わりです。世の終わりの前に来るエリヤが、列王記に登場し天に昇ったエリヤその人ではなくヨハネであるという解釈は、世の終わりの意味を変えます。「その日」「主の日」とは、イエス・キリストの十字架・復活の時です。十字架・復活は「世の終わりの始まり」であると、キリスト教会は信じています。

19 というのも、見よ、その日が来たからだ。(それは)炉のように燃え続けている。そして全て高慢な者たちと全て悪を為している者は藁となった。そして来つつあるその日は彼らを焼いた。ヤハウェ・ツェバオートは言った。その彼は彼らのために根と枝を残さないのだが。 20 そして私の名前を畏れている貴男らのために正義の太陽〔女性名詞〕昇った。そして彼女の翼の中で(彼は)癒し続けている。そして貴男らは出て行った。そして貴男らは牛舎の若牛のように跳びはねた。 21 そして貴男らは悪人たちを踏み潰した。実に彼らは貴男らの足の裏の下の灰となった。私が作為しつつあるその日に。ヤハウェ・ツェバオートは言った。 

 何度も紹介している通り、ヘブライ語には「預言の完了」という表現があります。機械的に過去の動作(「~した」)のように訳している動詞は、全て完了という視座で書かれています。預言者マラキは、このような表現で未来に起こる出来事を確信して断言しています。それは神の使者としての強い自意識から来るものです。「マラキ」(1章1節)と「私の使者」(3章1節)は、原文では全く同じ綴りです。「ヤハウェ・ツェバオートは言った」(19・21節)と繰り返すマラキは、自分自身の言葉ではなく、神の言葉を伝言する姿勢を貫いています。

 旧約聖書最後の預言者であるマラキは、預言というものが何であるかをよく教えています。預言は預言者の強い主観を言葉にしたものです。「この出来事はすでに起こり完了したのだ」とまで思い詰めた、将来に対する確信です。この主観は、もう一つの強烈な主観に根ざしています。それは召命感です。「神に召された」という主観、自分が神によって伝言者・使者として用いられているという確信です。それによって預言者は、今同時代の者たちと経験している現実とは別の現実を同時代の者たちに表します。

 マラキは預言者特有の「一オクターブ高い声」で、彼が現に見ている絶望の世界を反転させていきます。現実には高慢な者や悪を行っている者が栄えています(15節)。そして、謙虚に神を礼拝し、神を信じて少しでも善を行おうとする者でさえも、傲岸不遜な生き方に魅力を感じています。世間では正義というものがゆるがせになり、倫理というものが後ろに退き、諦めや白けのような虚無が雰囲気を支配し、信じることの価値が貶められています。自分を信じること、隣人を信じること、神を信じることに何の得も無いという空気です。「この空気を読め」と世界は冷たく言い放ちます。光も熱も無い、地は形なくむなしい状況です。

 マラキの預言は、この冷たい現実を反転させる熱いメッセージです。彼の眼には、冷酷な世界は「炉のように燃え続ける」(19節)灼熱の世界に見えます。大きく根を張り太い幹に多くの枝を張って沢山の実を実らせている「高慢な者たちと全て悪を為している者」は藁となって跡形もなく焼き尽くされています(19節)。そのような人々は「」となりました(21節)。現実世界でおごり高ぶっている者たちは、預言者の目には塵芥に過ぎません。

悪人たちという巨木の陰で日光を浴びることもできず、身を震わせ肩身を小さくさせられていた「私の名前を畏れている貴男ら」、つまり礼拝者たちのために、すでに「正義の太陽が昇った」のです(20節)。古代西アジアで発掘された図像から、「」と呼ばれるものは太陽から出る放射状の光を指すものと推測できます。つまり翼の陰という暗い場所に匿って癒すのではなく、神は信者たちを明るいところ・広いところに置き換えて、日光浴をさせて癒すのです。狭い牛舎に閉じ込められて、力を奪われていた者たちや少数者たちが歴史の晴れ舞台に躍り出ます(20節)。

だからヤハウェの日は、光と熱の支配する日です。「私が作為しつつあるその日に」(21節)と神が語られているので、必ずそのような日が来る、いやすでに来ている、神を信じる者にはその希望から冷厳な世界をとらえ直すことができる。マラキは確信しています。混沌の世界に光あれ、人間の世に熱あれ。本来のマラキ書はこの21節で完結していたと考えられています。

モーセは全ての人が預言者になることを望み(民数記11章29節)、パウロは教会の中では異言よりも預言をするようにと勧めています(一コリント14章5節)。つまり旧新約聖書を貫いて、預言者の精神を引き継ぎ預言者のようなものの見方をすることが大切だという指針があります。熱く透明な目で、現実という分厚い氷の壁を穿って、その先の「神の支配」を見抜くことです。自分に対しても、隣人に対しても、世界に対しても諦めないで何も断念しない、しなやかで強靭な主観を持つことです。暗雲垂れ込める中でも正義の太陽を全身に浴びて、その太陽に向かって真っすぐに生きることです。現実を直視しながら別の現実を透視する、誠実な楽観主義者になりたいと思います。

22 貴男らは私の僕モーセの律法を覚えよ。それを私は彼にホレブで全イスラエルに接して命じたのだが。諸々の掟と諸々の裁き(を)。 23 見よ、大いなるまたおそるべきヤハウェの日が来ることの前に、貴男らのために、かの預言者エリヤを私は送りつつある。 24 そして彼は父たちの心を息子たちの上に向けさせた。そして息子たちの心を彼らの父たちの上に(向けさせた)。私が来て、そして私がその地を聖絶(として)打たないように。

 キリスト教信仰は、預言者イエスを預言者以上の主・救い主・キリスト・神の子と信じる信仰です。それはイエスを「モーセの律法(旧約聖書)」(22節)の正しい解釈者と信じることでもあります。「主(キュリオス)」というギリシャ語普通名詞は、ヘブライ語ヤハウェの訳語です。その伝統に立って旧約聖書の神の名前ヤハウェを、日本語訳でも「主」と訳します(例えば23節の新共同訳)。「イエスは主(キュリオス)である」という信仰告白は、「イエスがヤハウェである」という意味も含みます。三位一体論の苗床がここにあります。新約聖書のイエスと、旧約聖書のヤハウェは、両者を「主(キュリオス)」と呼ぶ時に同じ神とされていきます。教会がギリシャ語訳旧約聖書を使い選んだことが、三位一体の信仰を強めていきます。

 このような初代教会の実践から、「ヤハウェの日」は「イエスが殺された日」「イエスがよみがえらされた日」という意味に解されることになりました。日曜日を「主(キュリオス)の日」と呼ぶのは、復活が起こった曜日だからです。また、イエスの十字架処刑の際に、真昼にもかかわらず真っ暗になったことや地震が起こったことなどは、世の終わりである「ヤハウェの日」に起こるとされていた出来事と重なっています(マタイ福音書27章45節以下、ヨエル書2章等)。世の終わりは、十字架・復活で始まり再臨で完成されます。

ヤハウェの日は、人の子イエスが不当な裁判で処刑された日です。ヤハウェの日は、神の子イエスが、ヤハウェ神に棄てられ見殺しにされた日です。ヤハウェの日は、それゆえにイエスが主(キュリオス)であることを証明した日です。世界が神によって裁かれ終わる代わりに、神の子が全世界分の罪を背負って裁かれたからです。また人の子イエスが不条理な苦しみに遭っている全ての人々と連帯し、同じ人生の十字架を共に担う「苦しむ神」であり続けたからです。実に十字架の死に至るまで。そのイエスをヤハウェ神は抱きかかえ起こしよみがえらせ天に引上げ自分の右に座らせ「主(キュリオス)」としました。イエスは主(キュリオス/ヤハウェ)です。

 十字架と復活という「ヤハウェの日」の前に登場したヨハネは「かの預言者エリヤ」(23節)となります。ヨハネは「父たちの心を息子たちの上に向けさせた。そして息子たちの心を彼らの父たちの上に」(24節)向けました。彼の働きは世代間対話にありました。ここで「父たち」「息子たち」は複数形ですが「心」は単数形です。様々な人々の心が一つになっていく過程が示されています。その基盤は悔い改めという方向転換にあります(24節)。「向けさせた」はシューブという動詞の使役形です。シューブの基本の意味は「立ち帰る」「悔い改める」。預言者たちの常套句です。

福音書に登場するバプテスマのヨハネは「悔い改めよ」という宣教と、悔い改めを象徴するバプテスマの実践を行っています。それはまず神に心を向けることでしたが、その先にあることは対立する者同士の対話でした。彼のもとにはサドカイ派もファリサイ派も来ました。対立する両者が神の前で等しく悔い改め、その結果として相互の心を向け合うことができるようになることが目指されていました。しかし残念ながら、イエスという共通の敵を前にサドカイ派とファリサイ派も、ヘロデ党も、熱心党も、さらにはローマ軍も悪意で一致しました。ヨハネは十字架の道を備え、人間の罪の深さを暴きました。

今日の小さな生き方の提案は、モーセやエリヤ、さらにはアモスからマラキにまで至る預言者たちの生き方に倣うことです。もしかするとその生き方は世間一般からずれていたり、社会の少数者となったりすることかもしれません。しかし自らの力を頼り傲慢になって誰かを支配するよりも、また悪意で一致して誰かを犠牲にするよりも良い生き方です。なぜなら常に希望を見通すことができるからです。なぜなら互いに心を向け合うことができるからです。恐れずに自らのイエス殺しの罪を見つめましょう。胡坐をかかずにキリストの復活の生命を受け取りましょう。冷厳な世界に光と熱を見出しましょう。