再出発 民数記10章11-21節 2023年4月16日礼拝説教

 キリスト教徒が正典とする聖書は二部作の本です。前半を旧約聖書(四分の三)、後半を新約聖書(四分の一)といいます。旧約聖書にはイエス・キリスト登場以前のイスラエル(ユダヤ人)の歴史が書かれています。新約聖書にはイエス・キリスト登場以後の教会の歴史が書かれています。教会の礼拝では、旧約と新約を半分ずつ取り上げることが良いと常々思っています。というのも、旧約聖書がユダヤ教の正典でもあるからです。またイスラム教も旧約聖書の一部を独自に解釈して用いているからです。葛藤と対立が絶えない世界にあって、違いではなく共通することを強調したいと願います。共有財としての旧約聖書のメッセージを読むことが世界の平和や、日常の平和に役立つと思います。そのように聖書は読み解かれるべきでしょう。

 「民数記」は旧約聖書の四番目の書です。「創世記」でエジプトに移住したイスラエルが、「出エジプト記」でエジプトを脱出しシナイ山という場所で「律法」を神から授かります。ユダヤ教の創始者モーセという預言者が「神の言葉」を伝授され、それをイスラエルに伝授します。この仕組みはイスラム教の創始者である預言者ムハンマド、正典コーランと同じです。

律法の授与は出エジプト記19章から始まり、「レビ記」を丸ごと含み、民数記10章10節まで、イスラエルはシナイ山にいることとなります。その間、約1年。律法を授かったイスラエルの民は荒野を旅する所作を学び、約束の地(パレスチナ)へと再出発します。

民数記(英訳Numbers)の原題は「荒野にて」です。原題の方がこの書の内容を表現しています。約40年間の荒野の旅がそこに記されているからです。厳しい環境の中でどのようにイスラエルという民が旅をしながら約束の地を目指したのかということは、教会という民がこの世界をどのように旅すべきなのかということと重なります。民数記は新約聖書の「使徒言行録」(教会史)と重ね合わせて読むことができます。さらに、個々人が世間という厳しい環境の中でどのように生き抜くことができるのかについても教えています。人生の荒野をどのようにして生き目標に向かって歩き抜くことができるのでしょうか。

11 そして第二の年における第二の月における、その月における二十(日)になった。その証書の宿り場からの雲が上げられた。 12 そしてイスラエルの子らは彼らの引き抜きごとにシナイの荒野から引き抜いた。そしてその雲はパランの荒野の中に宿った。 13 そして彼らはモーセの手によるヤハウェの口に沿って初めて引き抜いた。 

 第二年」「第二の月」「二十(日)」とあります(11節)。出エジプトを果たした時を第一年の第一の月として数えた暦です。「証書の宿り場」(11節)とは、神がその上に宿ると信じられていた箱(「ヤハウェの証書/契約の箱」33節等)が安置されていた簡易施設のことです。基本的に荒野の旅は野営キャンプです。持ち運び可能な柱や幕によって、「宿り場」が組み立てられたり解体されたりするのです。「幕屋」(新共同訳)とも訳せますが、「宿った」(12節)という動詞から派生した名詞なので、その関連が見えるように「宿り場」としました(山我哲雄訳参照)。ここで大切なことは旧新約聖書を通じて、神が民の真ん中におられ民と共に移動するという信仰です。聖書の神は場所に縛られません。だから神は信徒と常に共に居られます。

 泉教会という建物の中に神が居て、そこへとお参りすれば神に出会えるということではありません。そのような神は平日私たちと共に居られない神となってしまいます。神は私たちの交わりの間を宿り場としておられ、それと同時に個々人の中を宿り場としておられます。だから常に私たちと共におられます。クリスマスのメッセージである、イエスのあだ名「インマヌエル(我らと共なる神)」は旧新約聖書を貫いています。

」(11節)は神がそこにおられるということを象徴するものです。神を直接見ると死ぬという考えがあったので、神の臨在は「雲」「火」で婉曲に表現されます。「宿り場」に神がおられるということは雲によって知られます。そして、その雲が立ち上り移動を始める時に、イスラエルの民も「宿り場」を解体して、雲の柱が止まるまで一緒に移動をするのです(9章15節以下)。「雲が上げられた」(11節)と受身形で書かれているのは、雲そのものが神ではないということ、ただ道具として雲が用いられているということを示しています。見えるものは神ではないので拝む必要はありません。しかし、見えるきっかけが重要なときもあります。

何か新しいことを始める時に自分自身で決める部分もありますが、ここでいう「雲」のような外側のきっかけもあるのではないでしょうか。神が何かを引き起こし、神がそのしるしを見せるというような出来事です。博士たちが、移動する不思議な星を頼りにベツレヘムに来たように、出発のきっかけとなる事柄、事の成り行きを導かれたくなるような事柄が、個々人にあるはずです。それをここでは「雲」として言い表しています。

神の「宿り場」や人間の「宿営」(14節以下)は現代のキャンプ用テントと同じように杭(ペグ)を打つことで固定されていました。キャンプ地から次のキャンプ地まで移動の初めに、杭を引き抜かなくてはいけません。そこで、「旅立つ」「出発する」を「引き抜く」という動詞で表現します。この世における教会の歩みや個人の人生という旅を考える際に示唆深い表現です。

一つの示唆は短く刻むということの大切さです。連続した労働が禁じられているように、人は長く同じことを続けることができません。健康を害します。短期の目標設定が生き延びるコツです。教会の暦は七日ごとです。月曜日に杭を引き抜いて出発し、土曜日に杭をさして宿営し、日曜日には休むという刻み方です。個人が朝引き抜いて、夕方杭をさすのと同じです。荒野を旅して生き抜くためには、少しずつ刻んで進むことが重要です。

もう一つの示唆は一度さした杭にこだわらないことの大切さです。杭をさすことは定住することではありません。どんなに後ろ髪引かれても、引き抜いて再出発することが大切です。杭は引き抜くためにあるのであって、前に進ませないためにあるのではありません。前例主義と思考停止は、荒野の旅においてはかえって危険です。いつまでもオアシスにも辿りつけず、さらには最終目的地にも辿り着けないからです。

14 そしてユダの子らの宿営の(三部族)連合が最初に彼らの衆ごとに引き抜いた。そして彼の衆の上にアミナダブの子ナフション。 15 そしてイサカルの子らの部族の衆の上にツアルの子ネタンエル。 16 そしてゼブルンの子らの部族の衆の上にヘロンの子エリアブ。 17 そしてその宿り場は降ろさせられた。そしてその宿り場(を)運ぶゲルションの子らとメルリの子らは引き抜いた。 18 そしてルベンの宿営の(三部族)連合が彼らの衆ごとに引き抜いた。そして彼の衆の上にシェデウルの子エリツル。 19 そしてシメオンの子らの部族の衆の上にツリシャダイの子シェルミエル。 20 そしてガドの子らの部族の衆の上にデウエルの子エリサフ。 21 その聖なるもの(を)運ぶケハト人たちが引き抜いた。そして彼らはその宿り場を彼らの来るまでに立てた。

 イスラエルには十二部族があります。始祖イスラエルという人に十二人の息子がいたからです。息子のうちのレビは別格の祭司の部族(レビ人)の名祖となり、相続地を与えられません。十二部族から外れます。ヨセフという息子は彼の二人の息子(マナセとエフライム)が部族の名祖となり二倍の相続地を得ます。レビ・ヨセフが欠け、マナセ・エフライムが加わり合計十二部族です。

荒野での宿営では、神の「宿り場」を中心にすえて、それを囲むようにして三部族ごとに東西南北に分かれていました(2-4章)。ユダ部族(「ユダの子ら」)を代表とする三部族連合(ユダイサカルゼブルンの三部族)は東、18-20節のルベン部族を代表とする三部族連合(ルベンシメオンガドの三部族)は南です。

」(ツァバ。14節以下多数)は「軍」が第一の意味です。旧約聖書にしばしば登場する「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバオート)という神の名前の翻訳は、ツァバを「軍(複数形)」と採っています。しかしツァバには「神の周りの者」「天体」などの意味もあります。当然ながらイスラエルの民や部族は、成人男性のみの軍隊で構成されていたわけではありません。ここでは神の宿り場の周りに居る「衆」と、柔らかく広く訳します。平和を希求する現代という時代に引き付けた翻訳・解釈が必要です。同じような考え方で、14・18節のデゲルという名詞を「(三部族)連合」としました。「幟旗」「軍旗」とも翻訳できますが軍隊用語を避けました。

イスラエルの民の特徴は自警団的な軍隊を備えていたということにあるのではなく、むしろ神の「宿り場」(17節)が中心にあって、それを大切に持ち運んだというところにあります。十二部族とは別に礼拝祭儀を専門とするレビ人という人たちがいます。宿り場やその中にある祭儀用具を触ることができるのはレビ人祭司だけです。その一部の「ゲルションの子らとメルリの子ら」が、まず宿り場の基礎や骨組みとなる部分を解体します(17節)。この二つのグループは、祭儀用具が到着する前に宿り場を組み立て直さなくてはなりません(21節)。そのために第一の三部族連合(代表ユダ部族)と共に最初に移動するのです。

祭儀用具を運ぶ者たちは「ケハト人たち」です(21節)。レビ人祭司の一部であるケハト人たちは第二の三部族連合(代表ルベン部族)と共に移動し、ゲルションの子らとメルリの子らが立てた宿り場の中に「その聖なるもの」(21節)と呼ばれる祭儀用具を設置します。イスラエルは神礼拝を中心にし、礼拝を最も大切なこととしながら移動する神の民・信仰共同体・「祭司の王国」(出エジプト記19章6節)です。細かい段取りは、いかにイスラエルが礼拝ということを大切にしていたかを示しています。

誰かと戦うために集まるのではなく、神を賛美し神に祈り神の言葉を読み聞くため、神を礼拝するために集まることが大切です。右手に聖書・左手に剣ではなく、右手に聖書・左手に讃美歌ということです。

今日の小さな生き方の提案は、一週間ごとに雲の柱を見上げ、杭を引き抜いて出発し、杭をさして神の宿り場を囲んで神を礼拝しようということです。そのようにして短く刻んで、一週間ずつ生き残り、一日の苦労、労働の苦労、生活の苦労を切り抜けていきましょう。いわゆるスモールステップです。40年後に到達する「約束の地」・最終目的地点を望み見ながら、毎日・毎時・毎分・毎秒を大切に生き、小さな目標到達を喜び、毎週日曜日の礼拝で喜びを爆発させることです。そして毎週再出発を繰り返すのです。雲の柱に導かれ共に歩く群れの中で人は育ちます。神と共なる人生に全ての人は招かれています。