静かにしなさい 使徒行録19章31-40節 2023年4月23日礼拝説教

31 さて彼にとって友人であり続けたアシア名望家たちの幾人かも彼に向かって派遣して、彼らは劇場の中へと自分自身を与えないようにと勧告し続けた。 32 実際それだから他の者たちは別の事を叫び続けた。というのもその民会〔エクレシア〕は混乱し続けていたからである。そしてほとんどの者たちは彼らが何のために共に来続けていたのか知らないままだった。 

 パウロがエフェソの町にいた時に大きな騒動がありました。それはパウロにとって生命の危機をもたらすような深刻な出来事でした(二コリント1章8節以下、一コリント15章32節以下)。銀細工職人の総元締めデメトリオという人が、「ユダヤ教ナザレ派布教のせいでアルテミス神殿模型の売り上げが下がっている、アシア地域の神であるアルテミスを貶めながら布教しているパウロのせいだ」として、エフェソの住民を扇動したのです。デメトリオは町にパニックを起こして住民を暴徒化させパウロを殺そうとします。「エフェソ人のアルテミスは偉大だ」と叫ぶ人々は、家の教会からパウロを探して劇場へと連れ出そうとします。そこで虐殺しようという目的です。

「ガイオとアリスタルコ」(29節)がパウロの身代わりになって引きずり出されました。さらにこの二人だけではなくエフェソ教会全体が、劇場に行こうとするパウロを引き留めて、「われもわれも」とパウロの身代わりを買って出たように読めます(30節)。

本日の個所では、パウロの友人とされる「アシア名望家たち」(31節)も、パウロに対して人を派遣して「劇場に行くな」と勧告したとあります。アシア名望家たちとは、属州であるアシア地方(首都エフェソ)に住んでいる、ローマ帝国の政策に協力している土地の名士(土着の貴族や資産家)たちのことです。たとえば「皇帝崇拝の普及」などの政策です。そのような人々がエフェソや各都市にいて属州の中で都市連合を作っていたそうです。友人の名望家たちはパウロの居場所を、デメトリオよりも正確に知っていました。

この名望家たちは、ユダヤ教全般か、あるいはユダヤ教ナザレ派(キリスト教)の、広い意味の支援者だったのだと思います。いわゆる「神を畏れる人」だったのでしょう。エフェソの町ではユダヤ人たちには信教の自由(唯一神を礼拝する自由)が例外的に許されていました。名望家たちはナザレ派であろうとなかろうとユダヤ人たちに寛容です。35節に登場する、エフェソの町の「書記官」には、名望家たちが急遽連絡を回したのでしょう。都市によっては名望家が書記官になることもあったそうなので、同一人物である可能性もあります。パウロに危害が及ぶことも避けたいということと、パウロ自身がいない方が円滑に解決すると名望家たちは判断したのだと思います。

使徒言行録はパウロが劇場に赴いたのかどうかを曖昧にしています。パウロの手紙の書きぶりから推測すると、パウロも劇場に飛び込んだのだと思います。そうでなくてはエフェソの教会員たちと連帯感を保つことはできないでしょう。劇場になだれ込んだほとんどの人々は何のために集まっているのかを知らなかったので(32節)、パウロを殺すために探す人の方が少なくなっていました。「別の事を叫び続けた」人の方が多いのですから、ある意味安全です。

33 さて彼らはその群衆からアレクサンドロを指名した、ユダヤ人たちが彼を押し出したので。さてアレクサンドロはその手を振って、彼は民に弁護することを求め続けた。 34 さて彼がユダヤ人であるということを認識して、全ての者たちから約二時間にわたって叫び続ける一つの声が生じた。「エフェソ人のアルテミスは偉大だ。」 

 劇場の暴徒たちの中にユダヤ人もいました。パウロを殺すために来たのか判然としませんが、一定数のユダヤ人たちも劇場に集まっていました。エフェソの町には多くのユダヤ人が住んでおり、先ほど紹介した権利すら持っていました。現代社会にあっては当たり前の権利ですが「在日特権」などという差別表現をあえてなぞるならば、「ユダヤ人特権」に反感を持っている非ユダヤ系住民も多くいました。この人々は、ユダヤ教正統とユダヤ教ナザレ派の区別を知りません。暴徒たちの非合法「民会〔エクレシア〕」(「教会」とも訳しうる!)は次第に反ユダヤ主義の政治デモに移行しつつありました。そこでユダヤ教正統の人たちは、「アレクサンドロ」というユダヤ人を前に押し出して、弁明させようとします。「自分たちユダヤ人がエフェソの町にとって安全な存在である。ナザレ派とは違う」ということを釈明し、弁護するために、アレクサンドロは熱弁をふるいます。アレクサンドロはある意味この民会を初期の目的に方向付けしようとしたのです。「パウロを探せ」と。

 しかし皮肉なことに、このアレクサンドロの行為が火に油を注ぐこととなります。反ユダヤ主義がさらに燃え上がり、「エフェソ人のアルテミスは偉大だ」(34・28節)というスローガンが二時間以上も連呼されることとなったからです。ガイオとアリスタルコだけではなく、アレクサンドロもまた虐殺されそうになります。アルテミス神を間接的にであれ貶める人々は排除されるべきだ、ユダヤ人たちを殺せと、暴徒たちは叫びます。

 さてガイオはマケドニア人とあるので、フィリピかテサロニケの教会員です(29節)。アリスタルコはテサロニケの教会員であると明記されています(20章4節)。二人ともギリシャ人です。キリスト信仰にあってはユダヤ人もギリシャ人も区別はありません。ところが一緒くたに「ユダヤ人」として殺されようとしています。アレクサンドロはユダヤ人です。ナザレ派のパウロという「異端の」ユダヤ人とは異なる「正統の」ユダヤ人を殺すべきではないと主張していますが、一緒くたに「ユダヤ人」として殺されようとしています。

 どちらも非論理的で非常識で非民主的で非立憲的で、およそばかげた「一緒くた」の虐殺であることは明白です。冷静になりましょう。誰をもその思想信条や民族の別によって殺されるべきではないからです。聖書は扇動されること・暴徒の一員に加わることの愚かさや罪深さを暴いています。

35 さてその書記官が群衆を鎮めて、彼は言う。「男性たちよ、エフェソ人たちよ。エフェソ人たちの町が偉大なアルテミスとゼウスから降ったものの神殿管理人であり続けているということを知らない人間は誰なのか。 36 そこでこれらの事柄は反論の余地もないので、鎮まるということがあなたたちにとって必要である。そして前のめりに行動しないということが(必要である)。

 ここにエフェソの町の「書記官」が登場します(35節)。書記官の任期は一年。以前登場した「杖官」(16章22節)の補佐役になったり、公式の「民会」の議長や書記を担ったりする行政トップです。パウロの友人である「名望家たち」の一人かもしれません。つまりこの人も教会に好意的な非キリスト者/求道者・「神を畏れる人」である可能性があります。

 書記官は良識的な人物です。傾聴に値する言葉で見事にこの場を収めます。彼はまず暴徒化したエフェソ人の尊厳を傷つけないように配慮します。「エフェソの町全体が、つまりあなたたちもわたしも偉大なアルテミスの神殿管理人としてアルテミスに仕えている。そうではないエフェソ人がいるのか。いるはずがない。」書記官は、「エフェソ人のアルテミスは偉大だ」という叫び声をうまく拾い上げて、同じ敬虔さをエフェソ人はみな持っているはずなのだから、それ以外の者がいるかのように騒ぐべきではないと言います。彼はここでユダヤ人という言葉を用いず、反ユダヤ主義に加担しません。

「アルテミス神とエフェソの町との特別な関係を誰も否定できないのだから、わたしたちが大声をあげてあえて主張する必要はない。もちろん弁護してもらう必要はアルテミス神にない。騒げば騒ぐほどかえってアルテミス神の偉大さが小さく見えることになろう。前のめりになるべきではない。黙れ、鎮まれ。」暴徒化した人々は、書記官の穏やかで毅然とした態度に見入り、その情理を尽くした言葉に聞き入ります。劇場は静まり返りました。

37 というのもあなたたちは、神殿荒らしでもなく私たちの神を冒涜する者たちでもない、これらの男性たちを連れて来たからだ。 38 もしも実際それだからデメトリオと彼と共に居る職人たちが誰かに対して言うべきこと〔ロゴス〕を持っているのならば、諸広場〔アゴラ〕の(日)が守られている。そして属州長官たちが居る。彼らは互いに告発せよ。 39 さて、もしもこれ以上何かをあなたたちが求めるのならば、合法的な民会〔エクレシア〕においてそれは解決されるだろう。 40 そしてというのもわたしたちは今日の事柄に関して告発されるおそれがあるからだ。この集団行動に関してわたしたちが言うべきこと〔ロゴス〕を付与しうる理由はどこにも存在しない。」 41 そしてこれらのことを言って、彼はその民会〔エクレシア〕を解散させた。

 書記官は事実を淡々と述べます。ガイオもアリスタルコもアルテミス神殿で泥棒をしたわけでも、アルテミス神を冒涜したわけでもありません(37節)。二人はガイオの自宅に居たからです。書記官はアルテミス神殿模型を売ることで富を得ていたデメトリオが扇動したことを知っています(38節)。この場は劇場であり自治のための「広場〔アゴラ〕」(38節)ではありません。この集まりは「民会〔エクレシア〕」と称していても、招集者も正式ではない非合法な「集団行動」(40節)です。これを公式な民会とみなして行政処分を行うならば、逆に書記官が告発される惧れがあります。行政官には法令を守る義務があるからです。集団行動による自己救済・実力行使ではなく、言論を尽くして法による救済を目指す裁判を正式手続で行うことが民主的です。非暴力的言葉と論理(ロゴス)と、正式手続への信頼こそ民主政治というものだからです。

 書記官は事なかれ主義に基づいてこの場を流したのではありません。ギリシャ文化の良質な部分が、エフェソ住民にとって共通の重要な価値・良識であると信じて、自らの信念に基づいて説得したのです。だからエフェソの住民は鎮まって聞き入り説得され納得して帰宅しました。

著者ルカは、書記官が「民会〔エクレシア〕を解散させた。」と結論付けます。ここにルカの描く理想の教会〔エクレシア〕像、民主社会像が見え隠れしています。教会はこのような良識のある言論を鎮まって聞きあう交わりです。そして教会は、教会の周りにいて教会に共感して温かく見守り、時に協力してくれる隣人の声に聞き入るべきです。

 今日の小さな生き方の提案は、エフェソの町の書記官の態度に倣うことです。野獣化し、怒り狂う暴徒の前でも、彼はひるみませんでした。彼は法的人物です。「ユダヤ人には信教の自由が保障されている」というエフェソの法に基づいて判断をしています。違法なものを合法なものに混ぜ込みません。彼にとって重要なことは事実を法に当てはめることです。だから書記官は誰からも煽られず、冷静に適切な判断を行うことができました。そして熱狂的感情的な人々を諄々と説得することができました。

 バプテスト教会は民主的自治を重んじます。法的人間たちの集まりでなくてはこの自治は成り立ちません。落ち着いて行動しましょう。前のめりにならずに、事実を聖書に当てはめる生活をしましょう。エクレシアを作りましょう。