16 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「貴男は私のためにイスラエルの長老たちより、貴男が知った男性(を)七十集めよ。実に彼らはその民の長老たちでありかつその役人たちだ。そして貴男は彼らを会見の幕屋に向かって取れ。そうすれば彼らはそこで貴男と共に立つ。 17 そして私は降りる。そして私はそこで貴男と共に語る。そして私は貴男の上にある霊から(一部を)とっておく。そして私は彼らの上に置く。そして彼らは貴男と共にその民の重荷を担う。そして貴男、貴男のみが担うことはない。 18 そしてその民に向かって貴男は言う。『貴男らは明日のために自身を清めよ。そうすれば貴男らは肉を食べる。というのも貴男らがヤハウェの耳の中に泣いたからだ。曰く「誰が肉(を)私たちに食べさせるのか。というのも私たちにとってエジプトにおいて良いからだ。」そしてヤハウェは貴男らのために肉を与える。そして貴男らは食べる。 19 一日でもなく貴男らは食べる。また二日でもなく、また五日でもなく、また十日でもなく、また二十日でもなく、 20 (連続した)日々の(一か)月まで、貴男らの鼻からそれが出るまで(貴男らは食べる)。そしてそれは貴男らにとって不快なものになる。なぜなら貴男らは貴男らの真ん中にいるヤハウェを軽蔑したからだ。そして貴男らは彼の面前で泣いた。曰く「なぜこんなことが…。(なぜ)私たちはエジプトから出て行ったのか。」』」
前回までのモーセの発言(11-15節)に対してヤハウェが応えます(16-20節)。ヤハウェの心に刺さったモーセの訴えは、「私一人ではこの民は重くて担いきれない」という部分です(14節)。良く考えると不思議な訴えです。というのもイスラエルは、ミリアム・アロン・モーセの姉弟三人の集団指導体制です(ミカ書6章4節)。モーセのみが孤独を覚えることは不自然です。彼は一人で民を背負ったことはないのです。
12章1節以降を読むと、この姉弟の間に人間関係の軋みが起こっていたことが分かります。原因はモーセが「クシュ人(アフリカ系)」女性と「重婚」したことにあります。モーセは命の恩人でもある妻、ミディアン人女性ツィポラを軽んじました。それは深刻な葛藤に発展していきます。ミリアムとアロンはツィポラの側についたのでしょう。11章の時点でもある程度の軋轢があったのだと思います。頼りにしていたミリアムとアロンにも相談できずに、モーセは孤独感を深めています。自分の「悪」を直視することがモーセにはつらくなっていました。「私は私の悪を見たくない」(15節私訳)。
ヤハウェ神はそのモーセに七十人の協力者を集めるようにと提案をします。それもモーセが良く知っている男性七十人で良いというのです。ツィポラの父エトロ/レウエル/ホバブは似たような場面でかつてモーセに役割分担を勧めました(出エジプト記18章13節以下)。その時には、協力者たちを選ぶ基準がもっと客観的でした。「神を畏れている」「有能」「不正な利得を憎む」「信頼に値する」人物です。今回はモーセの主観のみで選んで構わないと言うのです。「その者たちがモーセの重荷を分担する。モーセの霊(預言する賜物)を七十人に振り分ける。ミリアムやアロンに頼みにくくても、これなら大丈夫だろう。」地方自治体における「女性議員ゼロ議会」のようなBoys Clubですから今日の目からは批判されなければならない神の提案です。そこまでしても神はモーセを偏愛します。そうでなければモーセが潰れてしまうからです。これがモーセを任命した神の責任の取り方です。ヤハウェは地に降り、モーセと共に語り、モーセと親しい七十人の男性に、モーセの霊を配分して置きます。それは預言をする能力でした。預言とは神の言葉を伝言することです。それだからこそ神と民の間で板挟みになりやすくなる役回りです。彼らの中にミディアン人男性はいたかもしれませんが、ミディアン人女性ツィポラはおりません。なお、モーセだけではなくミリアムもアロンも預言者の一人です(出エジプト記7章1節、15章20節)。
さて疑問符の付くヤハウェの言動は、ご自分の生んだ民に向かってもなされています。「そんなに肉が食べたければ、気持ち悪くなるまで食べさせてやる。一か月間毎日同じ肉を食べよ」と言うのです。保護者である神がわが子を虐待しているかのようです。「卵がほしい」と言っている子にサソリを与えるとまでは言わないまでも、「肉がほしい」と言っている子に鼻から出るまで与える態度は、やや大人げありません。ヤハウェは子育てに悩む親のような発言をしています。少しその気持ちを推測してみましょう。
ヤハウェにとって癇に障るわが子の言葉は「エジプトでは良い」「なぜ私たちはエジプトを出たのか」です。奴隷の家であるエジプトを美化することは、奴隷解放の神・贖い主を軽んじる言葉です。神の子らであるイスラエル(多様な民も含む)もまた幼稚なのです。「あなたたちの真ん中にいる私を軽んじるな。よちよち歩きのあなたたちといつも一緒にいて手をつなぎ、抱きかかえ、おんぶしている保護者を軽んじるな」と、ヤハウェも訴えています。自分の感情である怒りを調整管理する技術(Anger Management)にヤハウェは長けていないようですが、それだからこそ共感できる面もあります。つまりヤハウェとイスラエルの関係はお互いに言いたいことが率直に言い合える親子の関係に似ています。
21 そしてモーセは言った。「私がその真ん中にいる民の足は六十万。そして貴男は言った。『私が肉(を)彼らのために与える。そして彼らは(連続した)日々の(一か)月食べる』と。 22 羊と家畜は彼らのために殺されるならば、それは彼らのために臨むのか。それとも、その海の魚の全てを、それが彼らのために集められるならば、それは彼らのために臨む(のか)。」
感情的なヤハウェ神に対して、モーセは部分的に反論しつつ応答しています。反論していない内容、例えばやや疑問な役割分担について、モーセは了承しています。事実この後の物語でモーセの霊の分与は行われます。反論しているところだけを取り上げます。その一つは「実際に民の真ん中にいるのは誰なのか」論争です。神は、自分が民の真ん中にいると主張しています(20節)。しかしモーセは、自分が民の真ん中にいると反論しています(21節)。もちろん神は民の宿営の真ん中におられ、「ヤハウェの箱」の上のケルビムに座っていると信じられています。神がそこにおられることを雲の柱・火の柱は象徴しています。神はイスラエルの真ん中に宿り、先頭で導き、最後尾で守っておられます。しかし、実際には神は目に見えず耳に聞こえず手で触れません。時々しか降りてこない、必要に応じてしか傍らに立たない存在です(17節)。
「実際には私モーセがイスラエルの民の手を取ってよちよち歩きを支え、抱っこし、おんぶをしているのではないですか。」時々子どもと遊んで妙になつかれる夫に対して、いつも子育てを集中して担わされている妻が思う感情に似ています。せっかく寝かしつけた子どもを真夜中に帰ってきた夫が起こしてしまうような時にも、似たような感情が妻に渦巻くのではないでしょうか。ワンオペ育児家事実務を担っているのは私ですよと。ヤハウェとモーセの関係も、率直に言い合える夫婦のようです。しかも一般的な男らしさ女らしさが混在し流動化し、生んだ神ヤハウェ(母親役。12節)が、実際に育てているモーセ(父親役。12節)に、「子育ての手が足りない、気を遣い、手を使え」とここで批判されています。
もう一つのモーセの反論は、「どのようにして大勢の民に一か月間切れ目なく肉が配られるのか、その具体的な手段を教えよ」というものです(21-22節)。この問いは、二匹の魚と五つのパンが総勢一万人以上の群衆を満腹させた奇跡と響き合っています(マルコ福音書6章30-44節他平行記事)。「わたしがみんなに食べ物を供給しなくてはいけないのですか。すべきだとしても、どのようにしてできますか。」華々しい計画という、派手な花火は打ち上げるけれども、地味な計画執行実務は部下に丸投げという上司に対する恨み節に似ています。イスラエル全体が所有している家畜を食用の肉に一か月連続ですることは量的に不可能です。需要供給の均衡がとれません。長期的には「彼らのために」ならないのです。肉を魚肉という意味に広げても、どこから調達することができるでしょうか。この「魚」という単語は調理済みの魚という意味合いです。荒野に魚製品を集める人手も資金も見出すことはできません。神の無責任な約束は、結局のところ実務者モーセにしわ寄せをきたす空手形ではないでしょうか。裏付けと段取りを示せとモーセは神に迫ります。
23 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「ヤハウェの手は短いか。今、貴男は見る。私の言葉が貴男に起こるか、それとも否か。」
ヤハウェとモーセの対話において、次第に両者の言葉数が減っていきます。モーセ(11-15節)⇒ヤハウェ(16-20節)⇒モーセ(21-22節)⇒ヤハウェ(23節)。これは両者の合意がなされているからです。対話による合意形成とは、交わす言葉を徐々に少なくしていく努力です。意思が合わさる時相手方に言いたいことが減るからです。
やや強引なヤハウェの最後の言葉は、モーセの問いに明確に答えるものではありません。「毎日配給する肉の調達方法については、まあ、見てごらんよ」という答えだからです。神の答えは一種はぐらかす曖昧なものですが、しかしモーセにとっては福音となります。「自分自身の悪/不幸/災い/不快を見るな、むしろ神の言葉の実現を見よ」「自分の手が足りないというところに注目するな、むしろ神の手は足りているというところに注目せよ」という積極的な言葉であるからです。Wait and see! 特段の信仰は要りません。ただ待って、神の言葉が自分の身に起こるのかどうかを見るだけです。そしてモーセは黙ります。ヨブが神の面前で最終的に黙ったように。
今日の小さな生き方の提案は、対話相手としての神を信頼することです。どんな率直な言葉も、攻撃的な失礼な言葉も、神に対しては語ることができます。それが祈りです。なぜ、あなたは私を見捨てたのか。なぜ私だけ辛い思いをしなくてはいけないのか。あなたのせいだ。
最終的な神の答えは、「まあ、見てごらんなさいよ」というものです。神の言葉が実際に自分の身に起こるのか、それとも何も起こらないのか。神が歴史に介入するのか、私の日常生活に作用するのか。靴屋のマルチンのようなズレはあるかもしれません。自分の思い描いた神には出会えないかもしれません。しかし、少々ズレたあの出来事こそが自分の魂の求めに対する真の答えだったと振り返って分かることがあります。まず、前を見て神の言葉の実現を待ちましょう。その後で振り返って後ろを見て神の言葉のある種の実現を確認しましょう。先に後ろを見て、後悔をしたり自責の念に駆られたり、つまり「自分の悪」を見るのではありません。前にある「神の善」を見る。あなたに偏愛し依怙贔屓する神の言葉の実現を、まあ、見てみましょう。