5 そしてヤハウェは雲の柱によって降りた。そしてその天幕の入り口(に)立った。そして彼はアロンとミリアム(を)呼んだ。そして彼ら二人は出て行った。 6そして彼は言った。「どうか私の諸々の言葉を聞いてくれ。もしもヤハウェが貴男らの預言者(に)なるのならば、その幻において、彼に対して私は私自身を知らせる。その夢において私は彼に語る。 7 私の僕モーセはそのようではない。私の家の全てにおいて彼は信実であり続けている。 8 口に向かって口、私は彼に語る。そして幻。そして謎によるのではなく。そして彼はヤハウェの姿形(を)見る。そしてなぜ貴男らは私の僕モーセの中で/を交えて語ることを恐れないのか。」 9 そしてヤハウェは鼻を彼らの中で熱くした。そして彼は行った。
ヤハウェの神は、ミリアムのモーセに対する厳しい批判の言葉を聞いていました(2節)。「義妹ツィポラに対する恩知らずめが」と。モーセを依怙贔屓する神は慌てて「突然」介入します(4節)。ヤハウェの言葉のうち特に6節は原文では直訳しても意味不明なので、諸翻訳はさまざまな工夫で意味が通じるようにヤハウェを弁護しています。この発言をどうとらえるべきでしょうか。ヤハウェが混乱して「諸々の言葉」(6節)を思いつくまま言っていると考えます。つまり全体にミリアムやアロンは間違っていない、むしろヤハウェやモーセに問題があるという解釈です。
まずヤハウェは珍しく敬語を使います(「どうか」)。この言葉を通例神は使いません。ここにヤハウェの動転を見て取ります。あるいは自分が間違えているかもしれないと思う「神の謙遜」を見ます。「もしもヤハウェが貴男らの預言者になるのならば」という「もしもトーク」の意味が分かりません。なぜ自分を「ヤハウェ」と名前で呼んでいるか、「彼」が誰なのか、ヤハウェがミリアムとアロンの預言者になるという場面設定も、ちょっと何を言っているのかよく分かりません。ミリアムとアロンはヤハウェの預言者だからです。また預言者は神の使者ですが、ヤハウェ本人がヤハウェの使者になるとは何なのでしょうか。なぜ神自身が預言者になる時に、モーセと「幻」(6・8節)や「夢」を用いて意思を示すのでしょうか。そこで、「私の僕モーセはそのようではない」が、どのようではないのかがよく分かりません。
「私の家」(7節)は通例、「ヤハウェの家」=エルサレム神殿のことを指します。ずいぶん後の用語をヤハウェが使うところにも細かな混乱があります。「口に向かって口」という表現も変です。通例は「顔に向かって顔」です(出エジプト記33章11節他)。言葉を交わす場合、「相手の耳に向かって当方の口」が相互になされるはずです。8節の「そして幻」は完全に浮いている単語で、思ったこと(6節で使った単語)を発してしまった感じです。
ともかくヤハウェが嫌だったことは、ミリアムとアロンが膝詰めでモーセを交えて語り合うことでした(1節)。「モーセは唯一神の姿形を見ることができる権威者。畏敬の念を持て。対等に話し合うな。」こう言い捨てて、ヤハウェは鼻を真っ赤にして、出て行きます。残された者は支離滅裂な言葉を反芻して「一体我々に何が起こったのか」といぶかり、暴力による恐怖に打ち震えます。このような、およそ尊敬できない父親が存在するかもしれません。
10 そしてその雲はその天幕の上から離れた。そして見よ、ミリアムはツァラアトに罹患し続けている、雪のように。そしてアロンはミリアムに対して面と向かった。そして見よ、(彼女は)ツァラアトに罹患し続けている/(女性の)ツァラアト罹患者。 11 そしてアロンはモーセに向かって言った。「ああ、私の主人よ。どうか、私たちが愚かであった罪、そして私たちが罪を犯した罪(を)、私たちの上に置かないでくれ。 12 どうか、彼女が死人のようにならないようにしてくれ。彼の母の子宮(から)彼が出てくる時に、彼の肉の半分が食われている(死人のように)。」 13 そしてモーセはヤハウェに向かって叫んだ。曰く「どうか貴男が癒さないでくれ。どうか彼女のために。」
「ツァラアト」(10節)とは、今日のハンセン病を含む、宗教的穢れの対象とされた皮膚病のことです(レビ記13章)。ヤハウェの怒りと懲罰によってミリアムはツァラアトに罹ったのでしょうか。ヤハウェがミリアムを打ったとは書いていません。11章33節と異なります。そして、「ミリアムはツァラアトに罹患し続けている」とあり、この時点でツァラアトになったとは書いてありません。そして「雪のように」白いという特徴は、罹患時点だけではなく完治した場合の症状でもあります(レビ記13章10・17節)。なお「七日間の隔離規定」も治っている人に対する措置です(同21節)。一体ミリアムはいつからいつまでツァラアトだったのでしょうか。そしていつからいつまで彼女は共同体から締め出されるべき存在だったのでしょうか。推測しましょう。
ミリアムはシナイ山で律法(出エジプト記20章からレビ記26章まで)が与えられる前にツァラアト罹患者だったのだと思います。イスラエル共同体の中でツァラアトが宗教的穢れと規定される前という意味です。だから自然に、患者として看病されながら、預言者・礼拝指導者として敬愛されながら、シナイ山からの旅をも続けていたのでしょう。この穢れ判定の仕事は大祭司アロンの職務とされました(レビ記13章1節)。預言者アロンも旅の途中から大祭司とされました。彼は姉のツァラアトについて「穢れ判定」をしないまま、この時点まで彼女を共同体から締め出さなかったのです。ヤハウェとモーセはこの時アロンが穢れ判定をしないことを咎めたのだと思います。初めて知ったふりをしているアロンは職務の怠慢と姉が罹患の報告をしなかった不作為について大げさに謝ります。しかしツァラアトに関する規定が後から与えられ、祭司職が後から与えられたのだから、そこまでミリアムやアロンに非があるわけではありません。アロンの芝居がかった戯画的な表現には(11-12節)、かえって自分たちはそこまで悪くないという思いも透けます。「罪は私たちの上に置かれるべきなのか。」
アロンの本音を推測します。「律法授与以前にも罹っていた姉のツァラアトの治癒をなぜ神に祈ってくれなかったのか、弟よ。君もツァラアト患者だったではないか。姉と私が七日間の隔離期間を確認してから君をヘブライ人仲間とみなしたか。その前に、君と口に向かって口で挨拶をして礼拝共同体に迎え入れたのではなかったか。ナイル川で半分殺されかけた君を救ったのは姉ではなかったか」(出エジプト記4章6節・27節)。
モーセはヤハウェに向かって叫びます。「どうか貴男が癒さないでくれ。どうか彼女のために。」(13節)。この箇所は後世に発案された母音記号を一つ読み替え、「エル・ナー」(神よ、どうか)ではなく「アル・ナー」(どうか・・・するな)を採ります(BHS校訂者による提案)。それによりこの文脈で繰り返されている表現になります。直前11節のアロンの「どうか・・・置かないでくれ」に呼応して、モーセはヤハウェがミリアムを癒さないようにと願います。つまりミリアムがツァラアト罹患のまま荒野を共に歩むという提案です。シナイ山以前と同じ状態への回復。それこそ、ミリアムとアロンの願いです。癒されている/癒されていない=清い/穢れているという線引きがおかしいのではないかという最近与えられた律法への挑戦です。
14 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「そして彼女の父が彼女の顔の中に故意に唾したのだ。彼女は七日間貶められないだろうか。彼女はその宿営から外へ七日間閉め出される。そして後、彼女は集められる。」 15 そしてミリアムはその宿営から七日間閉め出された。そしてその民はミリアムが集められるまで(杭を)引き抜かなかった。 16 そして後、その民はハツェロトから(杭を)引き抜いた。そしてパランの荒野の中に彼らは宿営した。
ヤハウェの返答はまたしても謎に満ちています。というのも、父が唾した娘を七日間隔離するという律法はないからです。はっきりしていることは、父である神が自覚的に自らの娘の顔に向かって甚だしく侮蔑的に唾を吐いたということです。ヤハウェがミリアムにしたことはそういうことだと、ヤハウェ自身が言っています。この謎を解く鍵は十字架のイエスにあります(後述)。
モーセからの「彼女のために癒すな」との提案をヤハウェは受け入れています。14節以降にもヤハウェがツァラアトを治癒したとの報告はありません。完治したかどうかを問わずに、ヤハウェは完治した元罹患者に対する律法通りの手続きを進めます。それが七日間の共同体からの隔離です(14節)。振り上げた拳をおろす理由をつくるために、ヤハウェは七日間という完治者に対する隔離期間を、罹患中のミリアムに特別に適用します。
ミリアムの正しさを信じ、ミリアムのツァラアトを看病しながら彼女を支えていたイスラエルの民は、七日間杭を引き抜かず次の場所へ旅立とうとしません(15節)。礼拝指導者ミリアムと共に小太鼓をたたき賛美をすることを民は喜んでいたからです。一回の安息日礼拝を、民はミリアム無しで行いました。その寂しさは言葉になりません。神の前に集められた感じがしないのです。隔離期間が経過し、大歓迎のもとミリアムは宿営に迎え入れられます。こうしてイスラエルはツァラアト患者と共に荒野を旅していきます。
一連の神の不可解な行動は大きなつまずきをもたらします。そのつまずきは十字架のイエスという光の下、やっと解けて行きます。イエスが処刑された理由は律法を故意に破ることにありました。その最初はツァラアト患者に触るという行為です(マルコ福音書1章40節-3章6節)。穢れは伝染すると信じられていたのでイエスは、穢れているツァラアト患者・徴税人とみなされていたのです。その結末にイエスは唾を吐きかけられ嘲笑われながら十字架で殺されます。イエスは酷い裁判の間も沈黙を守りました。この場面のミリアムのように。そして「わが神わが神どうして私を棄てたのか」と叫びながら虐殺されました(同15章19節以下)。
十字架は、アッバ(お父ちゃん)が愛する息子に対して「ツァラアト患者め」と唾を吐きかけ息子を嘲笑し棄て隔離したという行為です。ヤハウェとミリアムの関係が、アッバとイエスの関係に重なっています。それによってアッバは、イエスの復活を待ち望む民を起こします。イエスと共に歩もうとする民を集めます。ツァラアト患者と共に歩んだイエスに倣う民を再結成します。それがキリスト教会・新しいイスラエルです。十字架の傷を持ち続けるイエス。癒されていないままのイエス。十字架にかけられ続けたままのイエスは、ミリアム(ギリシャ語ではマリア/マリアム)の息子です。
今日の小さな生き方の提案は、ミリアムと共に歩む民イスラエルに倣うことです。義人ミリアムを排除すること、多様な意見を封殺することは不正義です。ツァラアト患者ミリアムを隔離し、感染症患者を差別することは不正義です。福島からの避難者やコロナ罹患者に対する偏見と差別を記憶にとどめるべきでしょう。教会は義に飢え渇く者たちと共に荒野を歩む民です。そして十字架のイエスを信じて正義を実現し、あらゆる意味で満たされる民です。