37 それから軍営の中へと連れて行かれそうになって、パウロはその千人隊長に言う。「もしもあなたに向かって何かを言うことが私に許されているのならば…。」さて彼は言い続けた。「ギリシャ語で(話すことを)あなたは知っているのか。 38 するとあなたは、これらの日々の前に反乱を起こし、また荒野の中へと四千人の刺客の男性を連れ出したエジプト人ではないのか。」 39 さてパウロは言った。「私は実際ユダヤの人間、キリキアのタルソス人である。つまらない町の市民ではない。さて私はあなたに依頼する。あなたは私にその民に向かって話すことを許可せよ。」
ローマ帝国軍の軍営は「アントニアの塔」という場所にありました。そこがユダヤ地方占領軍司令部です。治安当局が出動し、パウロの身柄を暴徒から保護し拘束したことには理由がありました。パウロは、最近反乱を起こした「エジプト人」(38節)ではないかと疑われたのです。そうであれば帝国への反乱罪でローマ軍の手によって公に処刑(十字架刑)されなくてはなりません。
このエジプト人については、新約聖書の同時代に書かれた本に報じられています。紀元後1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスが、彼の著書『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』において概ね次のように記しています。「ローマ総督フェリクスの時代(後52-60年)、エジプト人預言者が30,000人のユダヤ人を騙して荒野からオリーブ山に連れて行き武装蜂起してローマ兵を支配下に置こうとした。しかしフェリクス率いるローマ軍に先制攻撃され敗走した。エルサレム市民もローマ軍に加担した。ローマ軍は400人を殺し200人を捕らえたが首謀者エジプト人は逃げて姿を消した。」
ローマ総督フェリクスはこの後の物語に登場します(23章24節)。扇動されたユダヤ人の人数の違い(4,000人と30,000人)、「荒野の中へと」と「荒野から」の違いはありますが、ここまで一致しているのですから同一事件でしょう。重要な情報は、エルサレム住民もローマ軍と協力してこの反乱を鎮圧したことです。パウロがエルサレム住民にリンチされかかったこと、住民がローマ軍にパウロの死刑を求めたことを見て、千人隊長が「この男性は、あのエジプト人かもしれない」と勘違いした理由はここにあります。
しかし千人隊長はパウロが流暢にギリシャ語を操ることを知って、自分の勘違いに気づきます。その「エジプト人」の方はギリシャ語を話せない人物であることが知られていたからでしょう。また、パウロの言い方(「私は…キリキアのタルソス人である。つまらない町の市民ではない。」39節)にも、そのエジプト人の出身が大都市ではない(それだからギリシャ語が話せない)ことが伺えます。パウロもそのエジプト人の噂をカイサリア教会で聞いていたと思います。カイサリア教会のフィリポたちがパウロ一行のエルサレム行きを反対したのも、その辺りのエルサレムの物騒な状況を知っていたからかもしれません。カイサリアにローマ総督フェリクスは常駐していたのですから、そこから出動したローマ軍の情報を住民は知ることができます。
当時のローマ帝国支配地においては、ギリシャ語を話すことができるかどうかで人間の価値を計る風潮があったのでしょう。日本社会の英語信奉に似ています。「ナザレのイエス」という呼び方には蔑視(ガリラヤ訛りの人間)が含まれますが、「タルソスのパウロ」にはつまらない誇り(ギリシャ文化の薫陶を受けた人間)が見え隠れします。
パウロ自身の権威主義もありますが、千人隊長は上意下達の階級社会の中で出世している男性ですからもっと露骨に権威に負けます。それは22節以降にも顔を出しますが、パウロのギリシャ語の能力と出身地を聞いて、彼はパウロの願いを許可し、エルサレム住民への演説を許可します。自分を殺そうとする者たちに向けてパウロは自己紹介を始めます。
40 さて彼が許可したので、パウロはその階段の上に立って、その民にその片手で合図した。さて大いなる静寂が起こり、彼はヘブライの言語で演説した。曰く、 1 「男性たちよ、兄弟たちよ、そして父たちよ。あなたたちは、今あなたたちに向かう私の弁明を、聞け。」 2 さて彼が彼らにヘブライのことばで演説し続けたことを聞いて、彼らはさらに静けさを保った。そして彼は言う。
パウロのヘブライ語での演説・弁明が始まります。二回「ヘブライの言語で」「ヘブライのことばで」と繰り返されています。ギリシャ語との対比で重要です。パウロはこの場面で言語的に人々を支配しています。基本的にローマ軍人はラテン語かギリシャ語しか理解しません。基本的にエルサレムのユダヤ人はアラム語かヘブライ語(両方を区別せずにここではヘブライ語と言っている)しか理解しません。離散ユダヤ人の子孫であるパウロは、両方とも流暢に使いこなすことができます。
今までの千人隊長との対話では、エルサレム住民は置き去りでした。ギリシャ語でなされていたからです。しかし今度はローマ軍人たちが置き去りにされます。アラム語でなされているからです。ユダヤ人たちはパウロの話に集中して聞こうとして鎮まります。ローマ人たちはパウロの話が全く理解できないので静かになります。
塔の階段の途中、野外と屋内との境界線で、その階段の高さを利用して「講壇」代わりにし、パウロはユダヤ人たちに片手を振って演説の開始を合図します。階段周辺にはローマ兵がいます。何とも不思議な「説教」の場面、一体彼は何を語るのでしょうか。おそらくここで語る内容は、パウロがキプロス島・小アジア半島・ギリシャ半島各地の会堂で、正統的なユダヤ教徒たちに話した内容と同じなのだと思います。
3 「私はユダヤの男性である。キリキアのタルソスにおいて生まれ、しかしガマリエルの足下でこの町において育ち、父たちの律法を詳細に教育され、神の『熱心党』〔ゼーロータイ〕であり続けている。本日のあなたたち全員がそうであるのと同様に。 4 (私は)この道を死まで迫害した。男性たちも女性たちも縛りまた牢獄の中へと引き渡しながら。 5 その大祭司と全長老団もまた私のために証言をする通り、彼らからの手紙をも受け取って、ダマスコにおける兄弟たちに向かって私は歩き続けた。彼らが懲罰されるために、その地の者たちをも縛って、エルサレムの中へと連れようとしつつ。」
パウロは自分の出生と、施された養育や教育を明らかにします。これは大変貴重かつ議論の余地がある情報です。パウロがキリキア地方の首都であり、文化の一大中心地タルソスで生まれたことは間違えがありません。原文が曖昧なのは、パウロが育った「この町」(3節)がエルサレムなのかタルソスなのかについてです。パウロのギリシャ語能力からすると、第一言語を習得する十代前半までは少なくともタルソスに居たのではないかと思います。23章16節に「パウロの姉妹の息子(甥)」が登場します。もしもパウロに年の離れた姉がいて、エルサレムに移住し結婚していたとするならば、少年パウロも姉の家に住まわせてもらい、十代前半からエルサレムで住むことも可能です。両親も安心してエルサレムに送り出すことができたことでしょう。こういうわけで「この町」を新共同訳と同様にエルサレムと解します。これは読者にとって新しい情報です。
「ガマリエル」は5章34節に登場した人物です。第一級の学者であり、最高法院議員。穏健な人格者でナザレ派(キリスト教)にも寛容でした。パウロはこの人物からトーラーを詳しく学んだというのです。「厳しい教育を受け」(新共同訳)というよりは、「(精密・精確・緻密・)詳細に教育され」(3節)という含みです。教育とは人格的な営みです。教師の全人格から十代の学徒たちは影響を受け、各自の「人格の完成」(教育基本法1条)が目指されます。人格者・大学者ガマリエルがトーラーを教えたことが、非ユダヤ人の使徒パウロの土台を形成します。一旦極右に振れましたが、パウロはガマリエルに詳しく習った旧約聖書を自由自在に解釈しながら、「無条件に誰でもキリスト者になりうる」という考えに導かれます。これはユダヤ教最左翼のナザレ派(キリスト教会)の中の最左翼の主張です。
おそらく、パウロがステファノの殺害に賛成した時に(8章1節)、パウロは寛容な師ガマリエルと距離を取ります。ガマリエルから見ると、タルソスから来たパウロ少年も、ギリシャ語を使うステファノも同じような存在です。パウロはギリシャ語訛りを根っからのエルサレム住民に馬鹿にされたかもしれません。師は問題にしないところですが、彼はその屈辱感をバネにして、「生粋のユダヤ人以上のユダヤ人」になるべく一心不乱に精進したのでしょう(フィリピ3章5-6節)。人の平等を説くナザレ派は危険思想です。
そしてパウロは「この道を死まで迫害した」(4節)、つまり指導者ステファノへの処罰だけではなく、ナザレ派全体の撲滅を計り、それを実行したというのです。前回までの話と関連しますが、エルサレム教会がパウロに対して基本的に厳しい姿勢を取り、酷な要求をし続ける背景には、パウロが信徒を投獄し拷問にかけ殺した人物だったという、過去の重い事実があります。パウロに殺された人の家族がエルサレムの教会員として残っています。だから、この場でパウロは迫害者だったことを自己紹介します。エルサレムという場がそうさせます。彼の加害の現場において彼は罪の告白をせざるを得ないのです。
さて説教の一手法としても自己紹介は用いられています。パウロは、聴衆に共感を得てもらおうとしているのです。「自分もファリサイ派の律法学者だった。ナザレ派嫌いの不寛容な男性、一般的ユダヤ人成人男性だったのだ。そのことはサドカイ派の大祭司も知っている。なぜなら彼のお墨付きをもってダマスコのナザレ派も縛り上げてエルサレムに連行しようとしたのだから(9章1-2節)。私もあなたたちと同じ『熱心党』だった」。ただしかし、このような手法は「私は一抜けた」という場合に反感を買います(22節参照)。むしろ、師ガマリエルの教えと、キリスト信仰やナザレのイエスの教えに共通項があると、パウロは語った方が良かったかもしれません。
今日の小さな生き方の提案は、自分の原点を大切にするということです。誰の人生にも原点となる出来事があります。パウロの原点はガマリエルとの出会いだったと推測します。「師は分け隔てなく、またそれぞれの特長を伸ばしつつ、私たち子どもを教育していた」。愛の神・キリストに出会った時にパウロは、ナザレ派にすら寛容なガマリエルを思い出したはずです。私の場合は西南神学部2年生の時に水俣実地研修で水俣病患者の元漁師Hさんという方に、「あんたは何しに来た」と問われたことです。最近の歴史的判決でまた思い出し原点に立ち戻らされました。どこに立って聖書を読み説くのか、常に追い求めているつもりです。どんな人にも立ち戻るべき原点があるはずです。良い意味で人生を変えた出会いを思い出しそこを起点に立ち上がりましょう。