神の眼差し 創世記16章1-13節 2023年10月8日礼拝 小林亜矢子神学生説教

おはようございます。本日は未熟な者に機会を与えて頂き、心から感謝いたします。

本日与えられたのはハガルという名の女性の物語です。私にとって大切なお話の一つで、読み返すたびに発見があります。皆様とご一緒にこの物語に聴いてみたいと思います。

 神様はアブラムに「あなたの子孫は星の数ほどになる」という約束をされましたが、16章1節には「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。」と、ちょっと不思議な書き方がされています。「アブラムとサライの間には…」ではなく「サライには…」と書いてあります。なぜでしょうか。夫婦の間に子供が授からない場合、昔イスラエルでは(日本と同様に)女性の体に原因があると思われていました。サライはこのことに深く心を痛め、苦しんだたことでしょう。夫アブラムに与えられた約束は、サライにとって喜びよりも重圧だったのではないでしょうか。「神様の約束が果たされないのは私のせいだ」と感じ、自分を責めたかもしれません。考え抜いた末にサライは、代理出産という方法を選びます。   

ハガルというエジプト人の女性はどんな経緯でアブラムの家に来たのでしょうか。このことは聖書に書かれていませんので、想像してみます。アブラムとサライはエジプトに滞在したことがあります。このときにハガルと出会ったのでしょうか。もしかしてハガルの家は貧しくて子供を養いきれなかったのでしょうか。後ほど8節を見るときに再度お話しますが、アブラムとサライは恐らく、ハガルを実の娘のように可愛がっていただろうと、私は想像しています。ハガルの方でも主人夫妻の思いに応えてよく働き、深く信頼されていたのでしょう。そういう関係だからこそ、代理出産のためにハガルが選ばれたのだと思っています。サライとしては「ハガルにならば託せる」と苦しい決断をしたのでしょう。

この時ハガル自身は何を感じていたのでしょうか。エジプト人として言葉も文化も違う土地で、しかも奴隷として暮らしていましたから、かわいがられていても我慢することが多かったはずです。若い女性として将来についての願いや希望を持っていたでしょう。結婚の夢や、心に思う人がいたかもしれませんけれども、彼女の思いは何も語られません。ハガルが誰かに願いを聞いてもらったり、権利を尊重してもらう見込みはありませんでした。

この場面で神様はハガルを妊娠させますが、それでも2人の女性の心の痛みは解消されません。口に出せない思いをそれぞれが抱えていますから、トラブルが起こるのは無理もないことです。4節後半から6節に至ると、サライとハガルはもはや互いを尊敬することができなくなり、たまらなくなったハガルはお腹の子供と一緒に、無我夢中で逃げ出します。

これと似たようなことは現代でもたくさん起こっています。代理出産のことだけでなく「逃げる」ことについても、住み慣れたところから身一つで逃げ出さなければならない人々がたくさんいます。地震や水害、台風などから被災する方、戦争や搾取、迫害などにより故郷に居られない人々。またはDV被害に遭って、子供と一緒に隠れている人もいます。もしかしたら私たち自身もハガルと同じ課題を持っているかもしれません。

ここまでを前置きにして7節からを見てみます。

7節に「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って」とあります。「出会って」と書かれている語は「見つける」という意味です。神様がこの場所でハガルと会ったのは偶然ではありません。ハガルは知らないことですが、この場所で直接彼女に語りかけるために、実は神様が待ち合わせをしていたのです。私たちもハガルのように、神様のご計画に気づかないまま無我夢中で歩いていることがあるのではないでしょうか。

御使いに会った時ハガルは何を感じたでしょうか。逃亡中、妊娠中の奴隷の女性として、知らない人を簡単に信用できないはずです。実はこの場面、「そして…」「そして…」という語がほぼ一文ごとに書かれています(翻訳では省略されています)。物語の中でよく使われるヘブル語の表現なのですが、私はこの場面で時間が経過していることを表しているのではないかと思っています。これも想像なのですが、御使いはハガルにまず水を汲んでやり、「パンを持っているけど一緒に食べませんか?」などと言って、二人で日陰に座る。ハガルは思わず「ご親切にありがとうございます。実は朝から何も食べていなくて…」と答える。御使いは時間をかけて丁寧にハガルの心をほぐしたのではないでしょうか。

8節で御使いは大事な質問をします。「そして聞いた。」「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」これは旅人同士の世間話ではありません。御使いはハガルのことをよく知っているのに、それでも尋ねるのです。

「そして答えた。」「女主人サライのもとから逃げているところです。」と答えるハガルの言葉には、「何とこの私が、逃げているんです」という意味合いが含まれています。日本語に表れにくいこの表現の中に私は、ハガルの思いが表れていると思います。サライとの関係が悪くなっているが本来は互いに深い信頼関係にあること、それなのに逃げてしまったことへの後悔の思い。我に返ったハガルが辺りを見回すと、そこは砂漠の真ん中の泉でした。彼女はこの時に初めて、自分の状況を冷静に振り返ることができるようになったのです。

そんなハガルに御使いは「そして言った。」「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(9節)。妊娠中の女性が砂漠を闇雲に歩いたら、生存は時間の問題です。彼女は自由を求めて逃げたつもりでしたが、実はいちばん安全な場所から逃げ出してしまったわけです。それでも、ただ帰るだけでなく、従順に仕えるとは!そんなことができるのでしょうか?

納得のいかないハガルに向かって御使いは、約束を与えます。ここにも「そして言った。」と書かれていますので、ハガルの心にしみていくまで、ゆっくり話したのだと思います。「数えきれないほどの子孫」というのはアブラムが神様からもらった約束と肩を並べるくらい、大きな約束です。このエジプト人の女奴隷を大切に思って常に気にかけ、今後もずっと世話をしようという神様の決意がみなぎっています。

この約束を聴いてハガルは応答をします。「そして言った。」「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(13節)。「神様って、本当にいるんですね。」と言っているのです。アブラムの神様は私の神様でもあるんだ。関係ないと思っていたけれど、神様の方では私のことを見ていてくれるんだ、という思いがこもっています。神様が彼女を見て、彼女が神様を見ると、両者がしっかりと見つめ合った、そのことに彼女は気付いたのでした。こうして応答をしたハガルはこの後、アブラムの家に戻り、無事に出産をします。彼女の人生にはその後も試練がありますが、この場面で神様を知ったハガルは、時に声をあげて泣きながら、信仰者としてこの先の道を歩いて行きます。そして神様は彼女の声、子供の声に必ず耳を傾ける、そういう後日談が書かれています。ご興味のある方は創世記の続きを、特に21章をお読みください。

私たちもまたハガルと同じように、行く道を知らずに無我夢中で日々を暮らしていないでしょうか。自分の立場や状況を振り返ることもできずに、時間に追われ、仕事で追い込まれる毎日、現実生活ではゆっくり考える暇はありません。テレビをつければ日々のニュースは地震や洪水、飢餓が至る所で起こり、人間は互いに殺し合うのをやめることができません。こんな難しい時代になぜ神学など学んでいるのかと、無力感でいっぱいになり頭を抱えて途方に暮れることがあります。そんな時にハガルの人生は、大昔の信仰の先輩がいたということを思わせてくれるのです。神様が私たちに語りかけようとして待ち構えていることを知って、その語り掛けを聞き、そして勇敢に応答する、そんなハガルの姿にとても励まされます。私たちもこの先輩に倣って勇敢に、試練に向かいたいものです。

今回準備をする中で、マタイによる福音書11章28〜30節が心に響いてきました。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ここを読むと、神様がハガルを見つけた泉のほとりは、私たちにとてのイエス様だということがわかります。私たちはまず、「泉のほとり」であるイエス様のところで安心して休んでいいのです。でも忙しい毎日の中で休む時などあるでしょうか。わたし自身は、1人で祈る場面を「休む時」と考えています。それも十分にできない日もありますが、それでも少し元気が出る日には、イエス様と一つのくびきで歩いていこうと思えてきます。時にうめき、声をあげて泣くことも、私たちにはゆるされています。そうすることで私たちは、イエス様が歩かれる道を共にたどり、イエス様が出会おうとする人に、イエス様と一緒に出会うことになるのです。そんな時には、すぐに言いたいのです「さあどうぞ、一緒にイエス様のもとへ!」と。