本日の箇所は三つの塊の法文です。神ヤハウェがモーセに自分の意思を語り(啓示)、それが民イスラエルに伝達されるという仕方で、「律法(トーラー)」が与えられます。トーラーは創世記から申命記全体(最古の正典)を意味することもあれば、本日の箇所のように祭儀規程を意味することもあります。29節にある、新共同訳聖書の「指示」(トーラー)は、本日の箇所の鍵語です。ユダヤ教やキリスト教における「神の言葉(正典)」という考え方について思いを馳せることが全体として必要です。トーラーは、25節「定め」(新共同訳)を含むものなのですが、公正な裁きに基づく「法令」(ミシュパート)なのです。神の言葉は、公正とは何かをわたしたちに教えています。
17 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 18 貴男はイスラエルの息子たちに向かって語れ。そして貴男は彼らに向かって言え、私が貴男らをそこへと連れて行きつつある地に貴男らが来る時に、 19 貴男らがその地のパンから食べる時が起こる場合に、ヤハウェのために献上物(を)献上する。 20 焼き菓子の貴男らが挽いたものの初物(を)、打穀場の献上物と同様に、献上物(として)貴男らは献上する。そのように貴男らはそれを献上する。 21 貴男らが挽いたものの初物よりヤハウェのために献上物を貴男らは与える、貴男らの諸世代にわたって。
第一の塊は、神への献上物についての条文です。「献上物」(テルマ)のもともとの意味合いは「謝礼」「差し上げるもの」です。神が相手方ならば「献上物」「奉納品」のような訳になります。この時点でイスラエルの民は荒野に居て放浪の旅を続けているので、定住地と畑を持っていません。無償で神から土地を与えられたのだから、自分で耕したとしても収穫物を神からいただいたのだと考える。だから、最初の収穫物は神のものとして、神への謝礼としてお返しするようにという趣旨の条文です。
キリスト教会にこの教えをあてはめるとすればどうなるのでしょうか。公正という観点から神の言葉を読む必要があります。聖書の神はわたしたちにチャレンジを与える、生きて働く神です。キリスト者には、初めてとりくむ事柄が多くなります。もしもそのチャレンジで得た何かがあれば、無から有を生み出す神に、その何か(の一部)を返礼すべきでしょう。事であれ、物であれ。初めての月給を保護者に渡す人がいることを考えても、自然な感情(公平感を損なわない理屈)が条文となっていると思います。
22 そしてもし貴男らが過失を犯すならば、そして(もし)貴男らがヤハウェがモーセに語ったこれらの全ての命令をなさない(ならば)、 23 ヤハウェが命令した日から後貴男らの諸世代にわたって、ヤハウェがモーセの手で貴男らに向かって命じたすべてを(なさないならば)、 24 もしも会衆の眼より過失のためにそれがなされるということが起こるならば、全会衆は一頭の群れの息子の若牛(を)焼き尽くす捧げ物に・ヤハウェのための宥めの香りになす。またそれの穀物の捧げ物とそれの注ぐ捧げ物を法令〔ミシュパート〕の通りに、また一頭の山羊の若山羊(を)償いの捧げ物に(なす)。 25 そして祭司はイスラエルの息子たちの全会衆について贖う。そしてそれは彼らのために赦される。なぜならそれが過失だからだ。そして彼ら、彼らこそがヤハウェのための彼らの供物・火の捧げ物を携える。またヤハウェの面前で彼らの過失について彼らの償いの捧げ物(を携える)。 26 そしてイスラエルの息子たちの全会衆のために、また彼らの真ん中に寄留し続けている寄留者のために、それは赦される。実に、その民の全てに属する過失における(場合)。
第二の塊はイスラエルの民全体にかかわる過失についての条文です(「全会衆」24・25節、「民の全て」26節)。礼拝共同体全体が誤って罪を犯す場合や、少数の者であっても共同体全体に関わる罪を知らずに犯してしまう場合に、礼拝祭儀として何をしなくてはいけないのかを定めています。罪とは、「これらの全ての命令をなさない」(22節)ことです。全ての命令の冒頭に有名な十戒があります(出エジプト記20章)。十戒をまとめれば「神を愛すること・隣人を愛すること」という命令です。十戒という「憲法」のもとに、種々の「民法」や「刑法」や祭儀規程といった法律が出エジプト記21章からレビ記全体を含んで民数記10章10節まで集中して記載されています。この膨大な法文が「これらの全ての命令」です。
22節の言い方は一つの命令でも行わない場合が含まれています。全部を完璧になさないとダメ、つまりゼロか百かという厳しさです。わざとではない「過失」でこの厳しさです。ということは結局この決まりに従えば、定期的に「若牛」一頭、「穀物の捧げ物」(麦等)、「注ぐ捧げ物」(ぶどう酒)、「若山羊一頭」を「祭司」(25節)が捧げるということになります。
ここには示唆深い人間理解があります。人間というものは必ず過失を犯すものであるということです。守ろうと思ってもできない場合や、守らなくてはいけないことに気づかない場合があります。罪には故意に犯す「悪さ」と、わざとではないけれども結果として拙いことをしてしまう「弱さ」があります。人間は弱い存在です。
人間は弱い存在なので、社会を必要とします。社会は弱い者同士で集まって補い合い支え合い協力し合う人間の集団です。社会はだから常に誰かが過失の罪を犯すことを想定していなくてはいけません。
教会・礼拝共同体という社会は、全体として教会に連なる人がお互いに過失を犯しうる弱い存在であることを深く知り、誰かが犯すかもしれない過失の罪のために祈ることが求められています。たとえば義人ヨブが、「もしかしたら罪を犯したかもしれない」家族全員のために、事実未確認のままに犠牲祭儀を行っている習慣が、参考になります(ヨブ記1章5節)。ヨブは最終的にはこのような祈りを自分自身の知られざる過失の罪のためにも捧げたのではないかと推測します。
教会の交わりとは、ひそかに祈る交わりだと思います。また、互いの弱さを認め合う交わりだと思います。教会は一人の人の弱さが全体にかかわる事柄なのだということを知る交わりです。「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです」(一コリント12章22節)。
27 そしてもしも一人の人物〔ネフェシュ〕が過失において罪を犯したならば、彼は彼女の歳が一歳の雌山羊(を)償いの捧げ物のために近づける。 28 そして祭司は、彼が過失において罪を犯した時に過失を犯した人物〔ネフェシュ〕についてヤハウェの面前で贖う。彼について贖うために、そしてそれは彼のために赦される。 29 イスラエルの息子たちの中で生粋の者や、貴男らの真ん中に寄留し続けている寄留者のために、一つの律法〔トーラー〕が貴男らのものとなる。過失においてなすために。 30 そして高く挙げた手でなす人物〔ネフェシュ〕、生粋の者出身でも寄留者出身でも、正にヤハウェを冒涜する者を、その人物〔ネフェシュ〕は彼女の民の真ん中より断たれる。 31 なぜならヤハウェの言葉(を)彼は軽んじたからだ。そして彼の命令を彼は破った。その人物〔ネフェシュ〕は必ず断たれる。彼女の罰が彼女において。
第二の塊と第三の塊には共通する考え方があります。人間の罪というものは、他の生命の死によって償うことができるという考え方です。人間の犯す罪は動物の犠牲によって「赦される」(26・28節)という観念が通底し、この考え方は新約聖書にまで至ります。「贖罪」(24節)とも言います。その際に、「一」という単語が鍵語となって貫いています(24・27節)。一頭の若牛、一頭の若山羊、一人の人物の「一」です。
キリスト教会は動物の犠牲を否定しました。夥しい数の動物を人間の過失/故意の罪のために犠牲にするのではなく、イエス・キリストの死を最後・最大・唯一の犠牲と考えて、一人の救い主が全世界の全世代分の罪を贖ったと信じます。十字架前夜の義人イエスのゲツセマネの祈りと、十字架上のイエスの祈り(彼らを赦してください)と殺害、これによって時空を超えて現代日本に住むわたしたちの罪は赦されたのです。これを贖罪信仰と言います。思い悩みがある中でも根本的なところで安心して生きるわたしたちは、だから他の生命の犠牲を求めません。ちなみに「人物」と訳したネフェシュには生命という意味もあります。
さて第三の塊は、共同体全体ではなく個人の過失についての規定です。大きな全体の贖いには「雄」が用いられ、小さな個人の贖いには「雌」(27節)が用いられているという女性差別は注意点です。また決して赦されない重罪を犯す者が「彼女」となっていることも女性差別の一環でしょう(30・31節)。公正さに欠けています。古代の文書である聖書にはこの類の注意も必要です。
その上で第三の塊もまたわたしたちに良いことを教えています。新共同訳が「個人」と訳しているように、ここには良い意味の「個人主義」が認められます。すべての人は「一人のネフェシュ」なのです。すべての人の子に神の息が吹き込まれて人は「生けるネフェシュ」(創世記2章7節)となっているのです。人の子は神の似姿であり神の子です。あらゆる個人がそれぞれの幸福を追求する権利を生まれながら平等にもっています。生命は不可侵のものです。
もう一つの良いことは、過失と故意は異なるという基準を示していることです。これ見よがしの形で「高く挙げた手でなす」ヤハウェへの冒涜は、決してヤハウェによって赦されません(30節)。神は侮られる方ではないからです。悪事を行いながら犠牲祭儀を行いさらに悪事を行うという欺瞞と詭弁は、公正という観点から批判されるべきです。神の赦しは無条件です。誰もが救われます。しかし、その愛を知りながら、その愛を利用してわざと悪をなすことだけは赦されません。「聖霊への冒涜だけは赦されない」(マタイ12章31節)とイエスが言っている通りです。その罪に対する「罰」(31節)は、「民の真ん中より断たれる」(30節)こと、つまりカインのように共同体から追放されることでしょう。
教会は、教会の信仰や宗教行為を侮る人や、イエス・キリストの生きざまや死にざまを冒涜する人までを抱え込み仲間とする必要はありません。もちろん教会は任意団体ですから、そのような人は任意で教会に加わりはしないでしょう。いずれにせよ信仰共同体の外にいる人がいるという事態にも、公正と言える場合があるということです。
今日の小さな生き方の提案は、過失というものに大らかになろうという勧めです。自分の過失におおらかになることがキリストによって救われるということです。過失という弱さは、完全にキリストによって未来分まで贖われています。その救いが当然に他人にも及ぶことを肝に銘じて寛容になることです。教会の中では当然のことながら、教会の外の社会全体、世界全体にも過失を覆う贖いの祈りが必要です。「赦されたから赦す」を実践していきましょう。