棕櫚の主日Palm Sundayとなりました。本日より受難週Passion Weekに入ります。洗足の木曜日、受難日Good Friday、暗黒の土曜日を経て、来週の日曜日が復活祭Easterとなります。主イエス・キリストの苦難を覚えながら、パウロの苦難の道を読んでいきましょう。ローマ総督府のあるカイサリアという大都市で、フェリクス総督を裁判官にし、ユダヤ人政府の大祭司アナニアを原告、パウロを被告とする裁判が行われ、パウロの弁論までが終わっています。
22 さてフェリクスは、その道についてのことごとをより詳しく知っていたので、(次のように)言って、彼ら(に言葉)を投げ返した。「千人隊長のリシアが下る時に、わたしはあなたたちに関して判決を下すだろう」。 23 その百人隊長に彼を拘留するように、自由をも得させるように、そして彼の仲間たちの誰も彼に仕えることを妨げないように命じて。
「その道」(22節)とは、ユダヤ教ナザレ派、今日のキリスト教のことです。意外なことに、ローマ人であるフェリクスはユダヤ人の信仰のうち分派にあたる教会の教えを「より詳しく知っていた」(22節)のです。24節に登場する、フェリクスの妻によって知っていたのかもしれません。あるいは、カイサリアにある教会の福音宣教の成果なのかもしれません。ともかくフェリクスは福音を知っていたので、パウロが死刑に値すると判断していません。
イエスの裁判におけるピラトであれば死刑判決を下す場面です。しかし、ここはエルサレムではありません。群衆が集まる公開裁判が行われているわけでもなく、扇動者たちがいるわけでもありません。フェリクスは自分の思惑通りに裁判を進めることができました。適当な理由をこしらえて、パウロを軟禁状態に留めておくことが彼の思惑でした。その理由は、私利私欲です(後述)。
フェリクスは原告と被告に言います。「千人隊長のリシアが下る時に、わたしはあなたたちに関して判決を下すだろう」(22節)。確かに千人隊長リシアしか、当時の状況を知る者はいません。しかしこれは大祭司から見れば完全なたらい回しです。大祭司はリシアに、「パウロを訴えたいならば自分ではなくフェリクス総督に訴えよ」(23章30節)と言われて、カイサリアまで来ているのですから。リシアを呼びつける気は毛頭なく、ただ結論を先延ばしするためにフェリクスは口先だけの約束をしています。
フェリクスは、相当の「自由」(23節)を与えながら、囚人パウロを軟禁します。彼の腹黒い思惑は置いておいたとしても、後のキリスト教会にとって、このパウロの長期にわたるカイサリア軟禁は大きな意味を持つことになります。フェリクスが、「彼の仲間たちの誰も彼に仕えることを妨げないように命じて」(23節)いるからです。「仲間たち」は、「彼自身」から派生している言葉です。一体誰なのでしょうか。
第一の可能性。エルサレムに住むパウロの甥もありえます(23章16節)。彼はパウロがカイサリアに護送されるように尽力した人物でもありますから、いち早くパウロの支援を母親(パウロの姉)と共にしていたかもしれません。第二の可能性。エルサレム教会に献金(24章17節)を届けに来た諸教会代表団もありえます(20章4節)。ベレア教会のソパトロ、テサロニケ教会のアリスタルコとセクンド、デルベ教会のガイオとテモテ、エフェソ教会のティキコとトロフィモ、そしてフィリピ教会のルカです(同5節「わたしたち」)。ご存知このルカが使徒言行録の著者です。この人々はすでにエルサレム教会に寄付を渡していますから、小アジア半島やギリシャに帰らなくてはなりません。カイサリアは丁度その帰り道にあたります。特に医者のルカと、パウロの愛弟子テモテは、カイサリアの町に残り長期間パウロの世話をしたのではないかと思います。最後の可能性は、使徒フィリポを中心とするカイサリアの教会員たちです。ルカやテモテが世話をするにしても生活の支えが必要です。どこに宿泊滞在するのでしょうか。ルカはフィリポの自宅でもあるカイサリア教会に滞在させてもらったのだと思います。教会という集まりは、囚人の世話をし裁判の支援をする交わりです。
フィリピ教会の創立者ルカにとって「囚人の世話と裁判支援」は信仰の原点です。フィリピの教会もパウロとシラスの投獄と釈放という出来事を大切に記念し続けている群れだからです(16章)。ルカは、使徒言行録を書く際に自分が同行して実際に見聞きしている部分を手厚く書く傾向があります。いわゆる「わたしたち資料」と呼ばれる部分です。それは当たり前のことです。そしてカイサリアのパウロについての叙述は比較的長いので(23-26章)、ルカがパウロの世話をし続けていたことは推測できます。その後27章1節でルカを含む「わたしたち」はローマへと護送されて行きます。カイサリアでルカがパウロと合流しているのは確実です。
このカイサリアにいる二年間に(27節)、ルカは使徒フィリポから多くの教会の物語を聞き取っていると推測します。教会の創立期について(1-5章)、ステファノについて(6-7章)、またサマリア伝道やエチオピアの宦官についてです(8章)。パウロから聞くことができない教会の最初期の物語を、ルカはフィリポを通じて聞き取り、使徒言行録の最初の部分を書いたと思われます。フィリポがギリシャ語に堪能であり、ルカはギリシャ語しか話せない人だという事情も関係します。
何が幸いとなるかは分からないものです。フェリクス総督の事なかれ主義や強欲が、わたしたちに新約聖書をもたらしたからです。キリスト信仰とは、わたしたちの心にこのような弾力性を与えます。床に落ちるボールは最も低い地点でぐしゃっと潰れて、最も大きな力をため込んで、高く跳ね上がります。何が幸いかは分からない。むしろ貧しい者が幸いであったり、受けるよりも与える方が幸いであったりするのかもしれない。福音に生きる、福音を信じるということは、最悪の出来事の中に最善の芽を信じることです。酷い裁判や、悪辣な裁判官の判断によって、実は最善の道が開かれる場合があるのです。イエスの裁判にも、パウロの裁判にも現に起こっている奇跡です。
24 さて何日かの後フェリクスはユダヤ人であり続けている自身の妻ドルシアと共に到着した時に、パウロを呼びつけた。そして彼は彼からキリスト・イエスへの信について聞いた。 25 さて彼が正義と自制と来たるべき審判について論じたので、(彼は)恐れるようになってフェリクスは応えた。「今はあるとして、あなたは行け。さて機会を見つけた後にわたしはあなたを呼ぶだろう」。 26 同時にまた彼はパウロから彼に金が与えられることを望み続けているので、それだからまたしばしば彼を呼びつけて、彼は彼に対話し続けた。
ローマ総督フェリクスの妻は、聖書以外の歴史書にも登場する人物です。彼女はクリスマス物語のヘロデ大王の曾孫にあたります。使徒言行録12章1節に登場する「ヘロデ(・アグリッパ1世)」の末娘です。25章13節に出てくる「(ヘロデ・)アグリッパ(2世)」の妹でもあります。ユダヤ人でもあり、ヘロデ王家の血を引く人物です。
貴族や富裕の女性たちがイエス・キリストに従うという構図は、ルカが好むものです(ルカ8章3節、使徒17章4・12・34節)。その一方でルカは貧富の格差の問題に敏感です。富める者の不正について厳しく批判をします(ルカ16章9節以下)。富んでいる者は富を正しく用いなくてはいけないのです(ルカ19章)。それはおそらく医者であるルカ自身の生き方を映し出したものです。ルカは紫布商人の元解放奴隷である豪商リディアの自宅で共にフィリピ教会を創設し、私財を用いてパウロの船旅を支援し、寄付金集めにも協力し、体の弱いパウロの主治医ともなって同行しています。富と技術の用い方はこのようであるべきなのです。
だから、フェリクスの妻ドルシラは率直に「キリスト・イエスへの信について聞いた」(24節)模範例として取り上げられています。イドマヤ人ヘロデ大王の曾孫であろうが、ローマ総督フェリクスの妻であろうが、関係ありません。福音はギリシャ人にもユダヤ人にも全ての人に救いをもたらす「良きおとずれ」です。3度目の結婚をフェリクスとしてカイサリアに住むことになったその時から、ドルシラはキリストの福音に触れ興味を持っていたのかもしれません。
その一方で、ドルシラの夫フェリクスは批判されています。「彼はパウロから彼に金が与えられることを望み続けている」(26節)からです。「ローマの市民権を持っているほどなのだからパウロは金持ちに違いない」とフェリクスは考えています。確かに千人隊長リシアも多額の資本をローマ市民権購入の際に支払ったとされています(22章28節)。囚人パウロは現金を持っていません。だからこの金は、厳密にはパウロの支援者たちがフェリクスに支払ったものです。多分、一回の面会に必要な金を要求され続けていたのでしょう。ルカの筆致に憤りが滲み出ています。正にフェリクスのような人には、「正義と自制と来たるべき審判」(25節)が福音となるのですが、彼は悔い改めません。自分の金儲けと、大祭司に恩を着せるという政治的判断(27節)によって、フェリクスは裁判を無用に引き延ばしてパウロを軟禁し続けます。
27 さて二年が満ちて後、フェリクスは後任者ポルキウス・フェストゥスを迎えた。そのユダヤ人たちに彼自身が恩を着せることをも望みながら、フェリクスはパウロを捕縛したままにした。
フェリクスの総督退任は彼の失政にあったと言われています。ユダヤ人たちから相当の反発があったのです。身から出た錆です。フェリクスと「ポルキウス・フェストゥス」の総督交代の年代は、他の歴史資料との突合によって後58年から60年の間と推測されています。そういうわけですから「二年」(27節)は、後56年から60年までの四年中のどこかの2年間です。イエスの十字架と復活、教会の誕生(後30/31年)から約30年が経っています。ユダヤ教正統派の一角ファリサイ派青年サウル/パウロのナザレ派への転向からも四半世紀が過ぎています。二年間の軟禁生活でパウロは、立ち止まって自分の人生を振り返ったに違いありません。目標を目指して走り続けてきた道が、本当に「その道」、キリストに従う道であったかどうか、しみじみと思い返していたのではないでしょうか。
今日の小さな生き方の提案は、立ち止まって人生を振り返ることです。25年前の今頃と言えば、わたしは初任地の松本蟻ケ崎教会牧師を辞めて、板橋に引っ越して米国留学前の5か月を過ごし始めたころです。米国留学3年は、睡眠時間と金の欠乏という意味や、戦時下の教会を知るという意味ではどん底の経験でした。しかし良い学びでもありました。過去から現在につながる不思議な導きを感じます。画期となった出来事がそれぞれにあるはずです。「どん底」はいつでしょうか。「今」と言う人もいるかもしれません。十字架なしに復活なしです。神は最悪の出来事の只中で最善の計画をなされる救い主です。この神に応えて、ルカのように自分の持っているものを用いて仕えましょう。