罪を贖う儀式 民数記17 章1-15節 2024年4月28日礼拝説教

本日はキリスト教の贖罪信仰の前提となっている旧約聖書の物語です。ナザレ人イエスの十字架での処刑を全世界分の罪の贖いと信じるという贖罪信仰。この考え方はユダヤ教徒にとっては理解しやすいものです。なぜならば旧約聖書に、すべての人が抱えている罪とは何か、罪を贖うとはどういうことか、罪の贖いを行う人は誰かということが書かれているからです。大祭司アロンが主役である本日の聖書個所を、キリスト教信仰の前提をなすものとして読み直していきましょう。

1 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 2 「貴男はその祭司アロンの息子エルアザルに向かって言え。すなわち彼がその燃えたところの間から諸香炉を担うようにと。そして貴男はその火を遠くへと散らせ。なぜなら彼らが聖くなったからだ。 3 彼らの全存在において、これらの罪を犯した者たちの諸香炉を(担うように)。そして彼らはそれらを諸々の金属板の打ち延ばし(に)、祭壇のための上張り(に)する。なぜなら彼らはそれらをヤハウェの面前に近づけたからだ。そして彼らが聖くなったからだ。そしてそれらはイスラエルの息子たちのための象徴となる。」 4 そしてその祭司エルアザルは燃えた人々が近づけた青銅の諸香炉を取った。そして彼らはそれらを祭壇のための上張り(に)打ち延ばした。 5 イスラエルの息子たちの記念(のために)。アロンの子孫ではない外部の男性がヤハウェの面前に香を焚くために近づかないために。彼がコラのようにまた彼の会衆のようになってはならない。ヤハウェが彼のためにモーセの手でもって語ったように。 

 16章35節で、ヤハウェの神がコラの会衆250人を火で燃やして殺したとあります。彼らはアロンと決戦に臨んでいました。それぞれの香炉に香を載せて香を焚き、どちらの礼拝がヤハウェの神にふさわしいかを競ったのでした。天に上る香りを天の神が嗅ぐことが礼拝であるという観念があったからです。ヤハウェはアロンを勝たせ、コラの会衆を焼き滅ぼしました。ここには聖書の神が燃え盛る火のように憤る方、人間と隔絶した聖なる方であることが示されています。宗教的な意味で罪深い人間は誤った仕方で聖なる神に近づくときに死ななくてはいけない(2・3節「彼らが聖くなった」)。神を直接見る者、正しい仲介者なしに礼拝する者は必ず死ぬと考えられていました。コラの会衆は、自分たちも仲介者(大祭司)になりうると勘違いをしたということです。モーセだけが神を直接見て伝言することができ(1・5節)、アロンと「アロンの子孫」(5節)だけが仲介者として礼拝をつかさどることができました。

 コラが持つ、従兄弟アロンに対する嫉妬が罪であると申し上げました。この嫉妬というものは誰もが持つものです。およそ人間である限り、「全存在において」(3節)わたしたちもコラの罪を持っています。神によって造られた「神の似姿」であることを忘れて自信を失い隣人を羨むという醜い心情です。罪とは創造主を忘れ軽んじ隣人を貶めること、神と隣人を愛さないことです。

ヤハウェの神はモーセを通して、アロンの後継者である三男「エルアザル」に命じます。コラの会衆が持っていた250の青銅でできた香炉を、拾い集め、それを担って、もう一度打ち直して、別の物にするようにという命令です。罪の象徴を神礼拝に用いる祭壇の上張りの金属板に変えよというのです。ここに聖書特有の指針があります。次世代の者たちは、前の世代の者たちの罪を拾い集めて担うべきです。罪を「記念」し、悔い改めて同じ罪を二度と行わない決意をする行為は最も聖なる場面でしなくてはいけません。毎回の礼拝において、その祭壇に張られた金属板を見るたびに、イスラエルはコラの出来事を記念します。教会が十字架を象徴として掲げ、毎週の主の晩餐で私たちがイエス・キリストを殺害した罪と罪が贖われたことを記念するのと同じです。

 日本国憲法前文に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」と謳われていることと響き合います。欧米列強を羨む罪から解放されるべき記念として、「打ち直された」憲法はあります。

6 イスラエルの息子たちの会衆の全ては翌日以降モーセに接して、またアロンに接して(互いに)つぶやいた。曰く、「貴男らはヤハウェの民を死なせた。」 7 そして次のことが起こった。その会衆がモーセに接してまたアロンに接して(互いに)集まった時に、彼らは会見の天幕に向かった。そして見よ、その雲が彼を覆った。そしてヤハウェの栄光が見られた。 8 そしてモーセとアロンとが会見の天幕の面に向かって来た。 9 そしてヤハウェがモーセに向かって語った。曰く、10 「貴男らはこの会衆の真ん中から(互いに)上がれ。そうすれば私は彼らを一瞬で食べる。そうすれば彼らは彼らの顔の上に落ちる。」 

 ヤハウェ神の怒りは止まりません。民がそれを煽る行為をするので、火に油が注がれます。民はヤハウェに向かって不平を述べたのではなく、モーセとアロンに「貴男らはヤハウェの民を死なせた」(6節)と言っただけです。誰も神を非難していません。またモーセとアロンも民の批判に対して、何の愚痴をも神に吐露しているわけでもありません。つまり神は、自分が信頼している者たちが不当に扱われていることに、激怒しているのです。実際250人の「ヤハウェの民を死なせた」のはモーセとアロンではなくヤハウェです。隣人の冤罪のためにヤハウェは憤ります。隣人が不当に扱われることに対して正当に憤ることを正義といいます。正義は社会を成り立たせるために必要不可欠の概念です。ただしかし正義を実現する手法は、神がその民を「彼らを一瞬で食べる」(10節)という暴力であるべきなのでしょうか。ゲツセマネで神が十二軍団の天の軍勢を率いて大祭司たちの操る暴徒を剣で制圧すれば、イエスの冤罪は晴れるでしょう。しかしそれで人間の根源的な罪の問題は解決するのでしょうか。神は憤りを押し殺し、神の子を見殺しにし、見捨てました。

11 そしてモーセはアロンに向かって言った。「貴男はその香炉を取れ。そして貴男はその上にその祭壇に接しているところからの火を与えよ。そして貴男は香を置け。そして貴男は急いでその会衆に向かって歩け。そして貴男は彼らに接して贖え。なぜならヤハウェの面前からその激怒が出たからだ。その災いが始まった。」 12 そしてアロンは、モーセが語った通りに、取った。そして彼はその会衆の真ん中に向かって走った。そして見よ、その災いがその民の中で始まった。そして彼は香を与えた。そして彼はその民を贖った。 13 そして彼は死んでいる者たちと生きている者たちとの間に立った。そしてその疫病は止められた。 14 そしてその疫病で死んでいる者たちは一万四千と七百となった。コラの出来事に関して死んでいる者たちを除いて。 15 アロンはモーセに向かって会見の天幕の入り口に向かって戻った。そしてその疫病は止められた。

モーセは、驚くべきことに、ヤハウェ神の命令に公然と背きます。神は二人に向かって「民の真ん中から、その罪の深みから、二人で協力して這い上がれ」と避難を促していました(10節)。その命令に反してモーセはアロンに向かって、「急いでその会衆に向かって歩け」(11節)と言います。その民を「贖う」ためです(11・12節)。愛は義に優ります。そして義なる神は、モーセの愛する自由を咎めません。

正当な大祭司が持つ「香炉」と「」(11・12節)は、神を宥めるための道具です。良い香りが神の「激怒」(11節)を宥めて和ませるからです。怒る神の暴走を、大祭司だけが和らげることができます。それによって民を贖うのです。ヘブライ語には「贖う」という意味の動詞はいくつかあります。この個所は、宗教的な意味合いが強い「カファル」という言葉が用いられています。祭司が行う儀式のための用語です。「覆う」「なだめる」という意味合いですから、正義の神の怒りによって殺されるべき人間の罪をかばって、罪を覆い隠して、神をなだめるという意味です。この意味の贖いの儀式を行うことが祭司の日常的仕事なのでした。愛はかばうことです。

民を殺そうとする正義の神の命令に反して、モーセは兄アロンに大祭司の仕事として民を、しかもモーセとアロンとを貶めている民を、かばうように指示しました。モーセは自分には贖うことができないことを知っています。大祭司ではないからです。しかしモーセはそれができる隣人・兄アロンを知っています。そこでモーセはアロンを向かわせます。贖うためには本来は犠牲獣が必要です(レビ記4章以下)。しかしそれを用意する時間も全員分の犠牲獣の数もありません。アロンは自分の香炉だけを持って、身一つで「その会衆の真ん中に向かって走った」(12節)のです。走ること・真ん中に向かうことは、モーセの指示以上の行動です。ここにアロンの愛がうかがえます。

駆け寄ったアロンの目の前に凄惨な光景が広がっています。すでに始まっていた「災い」(11・12節)によって人々がばたばたと死んでいっているのです。古代において病気や災難は神の呪いの結果と考えられていました。また災いは伝染すると考えられていました。人々は患者の隔離を始めていたかもしれません。その最中に、アロンは「死んでいる者たちと生きている者たちとの間に立った」(13節)。彼は香をかざし、祈ります。「私の神よ、彼ら彼女たちを赦してください。何をしているのかわからないで私とモーセを貶めただけなのですから。」死者と生者の間に立ったということは、神の怒りに触れて次に死ぬ者は自分でも構わないという覚悟であり、自分を死ぬ者の最後としてほしいという要請です。

その疫病は止められた」(13・15節)と二度も繰り返し報告されています。強調です。そして受身形を明確に訳出すべきでしょう。神が始めた「その疫病は」大祭司アロンによって「止められた」のです。アロンはモーセに同意して、正義の神の意思に背いてイスラエルをかばい救い出しました。このアロンに対しても神のお咎めはありません。逆にアロンの行為は、受身形が示すように、高く評価されていると考えるべきです。

このように考えると正義の神の根底には、愛があるように思えます。神の正義に逆らう信徒たちの自発的愛の行いを、神が咎めないからです。高圧的に激怒する神は、逆説的ではありますが、高圧的ではない仕方で自ら進んで隣人を愛することを、信徒に勧めているのではないでしょうか。それこそ律法という神の意思を破りながら全うしていくイエスの生き方であり、十字架において全世界の罪を覆って罪びとを贖ったキリストの死にざまなのだと思います。

今日の小さな生き方の提案はイエス・キリストの贖いを信じ、アロンに倣うことです。嫉妬や支配欲の罪は十字架の主によって庇われ祈られ覆われています。その愛は正義に優ります。だから私たちは前の世代の罪を自分事として担い悔い改めます。今の世代の罪に対して憤り正義を追求しながら、隣人の罪を庇い祈り覆います。万人祭司と言います。プロテスタントにとってアロンだけが大祭司ではありません。すべての信徒が自ら隣人となること、死者と生者の間に立って祈ること、贖うことを求められています。災いを止めましょう。