アグリッパの前で 使徒行録26章1-11節 2024年5月5日礼拝説教

1 さてアグリッパはパウロに向かって述べ続けた。「あなたにはあなた自身のために言うことが許されている。」そこでパウロはその手を伸ばして、弁明し続けた。 2 「私がユダヤ人たちによって告発されているすべてについて、アグリッパ王よ、私はあなたに接して本日自分の弁護を正にしようとしていることに私自身幸いであると思う。 3 特にユダヤ人の間における諸習慣および諸論争の全てを認識している方であるあなたに(接して)。そのため私は私(の話)を寛容に聞くことを願う。 

 ヘロデ・アグリッパ二世と妹ベルニケの前で、またローマ総督フェストゥスの前で、さらには千人隊長たちやカイサリアの町の有力者たちの前で、パウロの弁明が始まりました(25章23節)。アグリッパは総督フェストゥスに頼まれていました。それは「ローマ市民パウロはすでにローマ皇帝に上訴しているけれども、この上訴を取り下げさせてほしい」という依頼です。政治的には重要でない裁判のために皇帝の手を煩わせることは、属州総督としての点数が下がるからです。アグリッパがパウロに尋問することで、パウロが考えを変えて上訴を思いとどまることができればよいとフェストゥスは考えていました。

 フェストゥスに恩を売ることの利益と同時に、アグリッパとベルニケは単純にパウロに興味があったようです。ナザレ派の教えがどのようなものであるのか、特にそれを自分の第一言語であるギリシャ語で聞いてみたかったのでしょう。ギリシャ語圏のキリスト教会の指導者の一人パウロから直接聞く機会は中々ないのですから、丁度よい暇つぶしにもなります。

 「あなたにはあなた自身のために言うことが許されている」(1節)とパウロに自己弁護を促します。裁判におけるローマ市民の特権です。パウロもまたローマ流に返します。「私はあなたに接して本日自分の弁護を正にしようとしていることに私自身幸いであると思う」(2節)とアグリッパに社交辞令を述べ、「特にユダヤ人の間における諸習慣および諸論争の全てを認識している方であるあなた」(3節)と不必要なまでに褒め上げています。残念なことにパウロの眼中にはベルニケはおりません。彼女が女性であり「」ではないからです。ジェンダーギャップ指数万年低位にあるこの国に住むわたしたちは、自省をもって彼女を記念すべきです。憲法14条平等原則があるのですから。

4 実際それだから、私の民族において生じている当初以来またエルサレムにおける若い頃からの私の生活を、ユダヤ人たち全ては知ったままである。 5 はじめから私を知悉しているので、彼らが私たちの宗教の最も厳密な分派ファリサイ派に従って私が生きたということを証言したいならば(彼らはできる)。 6 そして今や、神から私たちの父祖たちへの約束の希望に関して裁かれながら私は立ったままでいる。 7 そして彼に私たちの十二部族は懸命に夜も昼も仕えながら到達することを望んでいるのだが。そしてその希望に関して私はユダヤ人たちによって訴えられているのだが、王よ。 8 もしその神が死者たちを起こすのならば、なぜあなたたちによって不信だと断じられるのか。 

 本日の箇所には「実際それだから」が4節と9節の二回登場しています。パウロの口癖として印象付けられています。内容的にも良い区切りとなっているので、パウロ自身の口ぶりに従って内容を整理し把握していきましょう。

 4-8節でパウロは「原告のユダヤ人たちは、被告パウロのことを若い時からよく知っている」という主旨を述べています。「知ったままである」(4節)は完了時制。過去の効果が現在にまで継続している様子を表しています。姉夫婦のところに居候しながら、ガマリエルというファリサイ派の大律法学者かつ最高法院議員のもとで律法を学んでいたパウロを、少年時代からサドカイ派の祭司たちも知っていました。60歳前後のパウロと同世代の者たちが、サドカイ派やファリサイ派の指導者層になっていたのだと思います。

 パウロはファリサイ派を「私たちの宗教の最も厳密な分派ファリサイ派」(5節)と評価しています。「最も厳密な分派」という表現は曖昧です。旧約聖書の解釈について最も厳密なグループなのか、それとも分派として厳密に画然と分かれているのかはよく分かりません。ファリサイとは、「分けられた者」という意味なので、後者も捨てがたいのです。両方の意味を込めて、ファリサイ派にエリート意識が強かったと推測します。

 昔からよく知っている顔見知りの者たちの主張、すなわち原告たちの訴えの内容が奇妙であるとパウロは続けます。「私たちの父祖たちへの約束の希望に関して裁かれながら私は立ったままでいる」(6節)。同じユダヤ人が持っている同じ約束の「希望に関して…訴えられ」(7節)、こうして裁判が続けられ被告席に「立ったままでいる(完了時制)」違和感をパウロは述べています。パウロはベニヤミン部族出身ですが、十二部族全体が神に仕えながら「」(7節)と呼ばれている神ご自身に到達することを目標にしています。

 パウロはナザレ派のもつキリスト信仰という希望を持ち続けることが、神に到達する道であると信じています。神が先祖ユダヤ人たちに約束した「救いの道」です。それは復活信仰です。「もしその神が死者たちを起こすのならば、なぜあなたたちによって不信だと断じられるのか」(8節)。復活者イエスを主(キュリオス)とすることはヤハウェ神を礼拝することと同じです。

 十字架で殺されたナザレ人イエスが、三日目に神によって復活させられ、今も生きておられる、だからわたしたち信徒も永遠の生命を持ちまた復活させられる、これがキリスト信仰の中心です。そして死者の復活をファリサイ派は信じています。旧約聖書のうち五書には記載されていないけれども、その他の預言者たちには記載されているからです。ファリサイ派と争うことはありません。イエスが復活者・神の子であると信じることだけがハードルです。

サドカイ派はどうでしょう。サドカイ派は五書のみを正典とします。直接の復活記事が無いとは言え、復活とみなしうる出来事は五書の中にもたくさんあります。アベルの死後セツが与えられたこと、ノアの洪水物語、バベルの塔の物語、サラがイサクを生んだこと/リベカがエサウとヤコブを生んだこと/ラケルがヨセフとベニヤミンを生んだこと、殺されそうなイサクやイシュマエルが救われたこと、無期懲役囚ヨセフがエジプトの宰相になったこと、奴隷のイスラエルが出エジプトを果たし自由の民になったこと、赤ん坊モーセがナイル川から引き上げられたことなどなど、神は多くの「死者たちを起こす」救い主です。これらをイエスの復活の類似例ととらえられればサドカイ派にとっても信仰内容は遠くありません。そして贖罪に関してはサドカイ派の方が理解しやすい面もあるのです。彼らが犠牲祭儀を司っていたからです。

 パウロはカイサリアの有力者たちの中にいたであろう陪席のユダヤ人たちに向かって語ります。「なぜあなたたちによって不信だと断じられるのか」。ユダヤ教の正統的なる信仰の中でも、何も「不信」・不敬虔・神冒涜と判断されるような内容を、ナザレ派は持っていない、ほぼ同じであるとパウロは言います。にもかかわらずなぜ私は被告席に裁かれながら立ったままでいるのか。

9 実際それだから私、私こそが私自身のためにナザレ人イエスの名前に向かって多くの反対を行うことをすべきと思った。 10 そしてそれをも私はエルサレムにおいてした。そして多くの聖なる者たちをも私、私こそが牢獄の中に拘束した、大祭司たちからの権力を持ちながら。それから彼らが上げられる時に私は賛成票を投じた。 11 そして全ての会堂で、しばしば彼らを懲しめながら、私は冒涜することを強要し続けた。それから極度に彼らに怒り続けながら私は外の諸都市の中へと至るまで迫害し続けた。」

パウロは自分自身の話に戻します。自分も原告たちユダヤ教正統派たちの気持ちが分からなくもないというのです。「私、私こそが私自身のためにナザレ人イエスの名前に向かって多くの反対を行うことをすべきと思った」(9節)とパウロは白状しています。

ここは弁明・口頭弁論という名前を借りた説教です。聴衆の心を揺さぶり、自身の証を交えながら、伝道説教をパウロは裁判の席で行っています。ある時は聞き手を名指しにして注意を喚起し(「王よ」2・7節、「あなたたちによって」8節)、ある時は聞き手の良心を鋭く咎め、ある時は聞き手に共感を示しながら、パウロは自分がいかにキリスト者になって幸いな人生を送っているのかを語り始めます。それはつまり、いかにも悲惨な人生だったところを、イエスによって救われて、幸いな人生に方向転換させられたという話です。本日の箇所は、パウロの実体験からくる、悲惨な人生の一例です。

パウロは公権力をもって、力を濫用して、力づくで他人の思想信条の自由を弾圧しています。これが悲惨な生き方の一例です。相手の内心に踏み込み、相手の思想を変えようとし、変わろうとしない相手を怒りに任せて殺してしまうのです。これらの思考と行為と感情が罪というものの一例です。

聖なる者たち」(10節)は、「ナザレ人イエスの名前」(9節)を呼んで礼拝するキリスト信徒のことを指す言葉です。「聖徒」とも訳されえます。パウロは、教会指導者ステファノの処刑に「賛成票を投じ」ました(10節、8章1節)。男性であろうが女性であろうがキリスト信徒の自宅に踏み込んで「牢獄の中に拘束し」ました(10節、8章3節)。「大祭司たちからの権力を持ちながら」(10節)、パウロは「外の諸都市の中へと至るまで迫害し続けた」(11節)のでした(9章1-2節)。22章3ー5節にも同趣旨の回顧があります。本日の箇所にしかない部分は、パウロが「全ての会堂で、しばしば彼らを懲しめながら…冒涜することを強要し続けた」というユダヤ教会堂でのナザレ派に対する拷問の部分と、その時パウロが「極度に彼らに怒り続けながら」行っていたという当時の感情の部分です。貴重な振り返りです。

パウロがキリスト信徒に求めていたことは、「異端」のナザレ派が「正統」のファリサイ派やサドカイ派に回帰することのようです。自分が絶対に正しいと思い込むことに罪があります。自己絶対化こそが隣人の心身の自由を制限しても良いと思い込む根拠です。そのような自己絶対化と極度の怒りが結びつくときに暴力が正当化されます。これが悲惨な生き方です。エリート権威主義青年パウロは、自己絶対化・力の濫用・極度の怒りという罪から解放されたのです。高みを目指すバベルの塔建設プロジェクトが崩れる経験、自分が一つの言葉で低いところに隣人を貶め一括支配していたことに気づく経験です。

本日の小さな生き方の提案はイエス・キリストによって罪の悲惨な生き方から救っていただくということです。極度に怒り続け自己絶対化し続けることを止め、自分にもどんな人にも自由と尊厳があることを認めるのです(霊の法則)。そのために落ち着いて「法」(聖書)を読むことをお勧めいたします。読む行為は怒りをいったん止めることに役立ちます。律法(条文)や福音(イエスの言動)は法の一種です。法は自己絶対化という無法を批判する道具です。法は力の濫用を戒めています。法は論理的思考を導き、自分や隣人を水平・透明に判断するように促します。聖書を読み救い主に出会いましょう。