神への立ち帰り 使徒行録26章12-23節 2024年5月26日礼拝説教

パレスチナ地域の統治者アグリッパ二世と、妹のベルニケと、新任ローマ総督フェストゥスと、カイサリアの有力者たちと、ローマ軍の千人隊長たちとの前で、パウロの裁判・弁明が行われています。前回からの続きです。キリスト信徒を迫害していたパウロが、どのようにしてキリストの福音を宣べ伝える者となったのか、いわゆる「回心記事」がパウロの口から語られます。使徒言行録においては、三回目です(9章、22章参照)。前二回と比較しながら、本日の箇所の固有のメッセージを読み解いてまいりましょう。

12 その事々において、(私が)祭司長たちからの権限と委任と共にダマスコの中へと歩いている時に、 13 日の真ん中、その道の上で私は見た――王よ――天からの太陽以上の輝きの光を。私も私と一緒に歩き続けている者たちをも照らしている(光を)。 14 私たちも全ての者もその地へと倒れた後、私は私に向かってヘブライの言語で言い続けている声を聞いた。「サウル、サウル、なぜあなたは私を追うのか。尖り棒に向かって蹴ることはあなたにとって不可能(だ)。」 

 9章ではパウロだけが光に照らされ、全ての者はイエスの声を聞くことができました。22章では逆にパウロだけがイエスの声を聞き、全ての者は光だけを見ました。今回、全ての者は光を見たように思えます(13節)。全ての者がイエスの声を聞いたかどうかは不明です。だから26章は22章と似ているのです。どちらもパウロ自身が語っているからでしょう。パウロにとって重要なことは、「自分はイエスの声を聞いた」という主観なのです。

 26章にしかない記述もあります。パウロだけではなく「全ての者もその地へと倒れた」(14節)というところです。ここには誇張があります。その誇張は、「」(13・18・23節)というものの圧倒的力を強調しています。「」は本日の箇所だけで3回も用いられている鍵語です。「」はイエス・キリストによる救いを象徴しています。その光は、全ての者を倒し、全ての者を方向転換させます。自力で立っていると思いあがる者の足を払って倒し謙虚にさせ、自力では立てないと卑下する者の手をとって起き上がらせます。イエスが十字架で倒され、キリストが復活で起こされたことによって与えられる救いです。この福音が「」に象徴されています。

ヘブライの言語で」(14節)も、26章にしかありません。イエスの語りかけなのですから、ある意味で当たり前なので今まで紹介されていなかったのでしょう。改めてここでイエスがヘブライ語/アラム語でパウロに語り掛けたという報告は、「サウル」(14節)というヘブライ語名に注目させるためのものだと思います。発音上厳密にはシャウールというヘブライ語名の意味は、「尋ねられ続けている者」です。この名前の意味への注目は、次の連想として、イエスの質問の内容への注目を誘発します。パウロが回心の時点からずっと今に至るまでイエスに問われ続けている内容です。「なぜあなたは私を追うのか」(14節)。「追う」は否定的に考えれば追い詰め迫害することですが、肯定的に考えれば追求し追い慕い従うことです。

尖り棒に向かって蹴ることはあなたにとって不可能」(14節)も、26章だけの諺です。抗うことができない事柄に出くわした時の心境を示しています。私刑に処されそうになった時、裁判で死刑判決を受けている時にも、なおイエスを追求し追い慕い従う理由は何なのでしょうか。パウロは、被告席に立ちながら抗うことのできない力に降参しているから、イエスを証していると言いたいのでしょう。不服従がありえないという方に出会ってしまったのです(19節も参照)。

15 さて私、私は言った。「あなたは誰か。主よ。」 さて主は言った。「私、私は、あなたが追うイエスだ。 16 むしろあなたは起きよ。そしてあなたはあなたの足を基に立て。というのも、このことのために私はあなたに見られたのだから。(すなわち)あなたが見たことの、また私があなたに見られるだろうことの従者や証人にあなたを手中に入れるために。 17 あなたをその民から又その諸民族から取り出しながら。そしてその人々の中へと私、私はあなたを遣わしつつある。 18 彼らの目を開けるために、闇から光へとまたサタンの権限から神の面に方向転換するために、彼らが諸々の罪の赦しを受けるために、又私への信で清められた者たちの中で籤を(受けるために)。」 

 9章・22章との大きな違いは、アナニアが居ないということです。ダマスコ教会の指導者でありパウロを教会員として受け入れた恩人です。パウロの「目を開け」(18節)た人です(9章18節。「目からうろこ」)。16-18節にはパウロに対するアナニアの働きかけが含まれていると考えるべきです。というのもこの部分にはイエスがアナニアに語った言葉の内容(9章15-16節)や、アナニアがパウロに語った言葉の内容(22章14-16節)が要約して含まれているからです。

 この重要なアナニアという人名の省略は、アナニア個人からダマスコ教会という礼拝共同体への重心のずらしかもしれません。アナニアから受けた牧会だけではなく、名もないダマスコ教会員たちとの交わりと礼拝経験によって、パウロはイエスの召しの意味を十分にくみ取ることができたと思われるのです。迫害者パウロの目からうろこのようなものが落ちるという経験は、「アナニアの赦し」という奇跡による瞬間的なものだけではないということです。そうではなく、ダマスコ教会に加えられたことによって、毎週の礼拝で共に復活の主を仰ぎ見る教会の交わりを通して、継続的に徐々に起こった「闇から光へ」「迫害者から宣教者へ」という経験だったと推測します。

 ダマスコ教会員たちはパウロに向かって意識的にも無意識的にも、またある時は直接的に別の時には間接的に、パウロの回心の出来事の意味を読み解いていったのではないでしょうか。「あなたの見た白昼夢・光の意味はこうだろう。ギリシャ語が堪能なエルサレムの律法学者であるあなたは、ユダヤ人からも諸民族の中からも取り出された。あなたはイエスの手の中に入れられ、キリストに捕まった。そしてあなたは数多い教会指導者たちの中でも特別な籤が当たった人の一人だ。マティアのような使徒だ(1章26節)。あの七人の執事のようだ(6章5節)。ステファノを殺したあなたが、ステファノとフィリポの道を継ぐ。諸民族の使徒としてあなたをイエスは派遣しつつある。あなた自身に起こった救いを、イエス(の名を呼ぶ者たち)に対する殺害を身に帯びながら、ギリシャ語圏の人々に告げ知らせるために、あなたは用いられることになる。これは不可抗的な神の選びだ。闇から光へ移し替えられた経験を福音宣教のために用いたら良い。ダマスコの教会をそのための研鑽のために用いたら良い。説教奉仕も、晩餐奉仕もしなさい。あなたを支えるから。」

 パウロは個人アナニアというよりはむしろダマスコ教会の交わりを、人生の最終盤で思い出します。裁判の弁明で有名なアナニアではなく無名のダマスコ教会員たちからかけられた無数の慰めと励ましを思い出しながら要約します。なぜか。おそらくその理由は、カイサリアの獄中にいるパウロを、カイサリア教会員たちや同志ルカらが支えているからでしょう。

19 そういうわけで――アグリッパ王よ――私は天的幻に不服従ではなかった。 20 むしろ初めにダマスコの中の人々に、そしてエルサレム人たちにも、ユダヤの全ての地域と諸民族に、私は悔い改めるように又神の面に方向転換するように告知し続けた。悔い改めにふさわしい行動をしながら。 21 これらの事々のために、ユダヤ人たちは私をその神殿の中で掴んで、彼らは手をかけようとし続けた。 22 それだから神からの助けを今日まで得ながら、私は立ったままでいる、小さい者にも大きい者にも証言し続けながら。その預言者たちとモーセが正に起ころうとしていると話したこと以外ではないことを言いながら。 23 (すなわち)そのキリストは苦しむかどうかということ、死者たちの復活からの最初の人は光を民にも諸民族にも正に告げようとしているかどうかということ(を言いながら)。

 口頭弁論の名を借りた伝道説教の最後の部分は、今まで申し述べてきた推測を裏付けていると思います。パウロはダマスコ教会員であったことが自分の「使徒職」の基礎にあることを確認しているようです。「悔い改めにふさわしい行動をしながら」「初めにダマスコの中の人々に」「私は悔い改めるように又神の面に方向転換するように告知し続けた」(20節)とあるからです。福音宣教者としてのパウロの原点はダマスコ教会にあります。

福音宣教の内容は、旧約聖書(22節「その預言者たちとモーセ」)の解釈です。十字架で苦しんだイエスがキリストであるかどうか、最初の復活者が礼拝を通じて会衆に福音を告げているかどうか、このことを論じるのが福音宣教です。だから福音宣教は、「神の面に方向転換するように告知」する行為です。自分がイエスを殺した、その「諸々の罪」(18節)を認めて異なる方角に向きを変える、その異なる方角とは、礼拝で直面する復活の主イエスの方角です。「サウル、サウル」(14節)、「マルタ、マルタ」(ルカ10章41節)、「ザアカイ」(同19章5節)、「シモン、シモン」(同22章31節)、そして「マリア」(ヨハネ20章16節)と呼ぶ復活のイエスの方角です。礼拝でわたしたちは、自分の名前を呼ぶ方に気づき、存在が肯定されていることを確認しながら、今までの生き方の課題を示され、闇から光へと方向修正をします。最初の復活者の方向に向き直すことで、わたしたちも毎週復活できます。

福音宣教の対象である説教を聞く者は、子どもたちと大人たちです(22節「小さい者にも大きい者にも」)。旧約聖書を囲んで集まり毎週の礼拝で復活者と面と向かう老若男女の群れ、教会の交わりという「神からの助け」(22節)はダマスコ教会員の中に加えられた時から被告席に立つ今に至るまでずっとパウロを支えています。「私は立ったままでいる」という動詞だけが、22-23節の中で主たる本動詞であり、それ以外の動作は従たる分詞の表現です。「立ったままでいる」は現在完了形なので、過去の行為の効果が現在にまで至っていることを示しています。バプテスマを受け、クリスチャンになったばかりの教会での体験の効果が、ずっと続いているということです。ダマスコの子どもたちにキリストを証言したことは、裁判の席上で権力者たちにキリストを証言することと、パウロにとっては同じです。被告席に立たされてもいつもと同じく、十字架と復活のイエスをキリストであると証言し、悔い改めを宣教し、一人でも多くの人の目からうろこを取り除こうとしていました。

今日の小さな生き方の提案は、パウロの淡々とした態度に倣うことです。劇的な人生を送ったと言われるパウロの人生は、同じことを浮き沈みなく行い続けた信仰生活です。主にギリシャ語圏の人に対して、イエス・キリストの十字架と復活を証言するということを、時が良くても悪くても行っていた人生です。わたしたちも毎主日礼拝でイエスに会いながら、イエスの声を聞き分け、自分の引いた籤を自覚し、イエスに方向づけられた使命を淡々と行いたいと願います。