24 さてこれらのことを彼が弁明している間に、フェストゥスが大きな声で述べる。「あなたは狂気になっている、パウロよ。多くの文字があなたを狂気の中へと向かわせている。」 25 さてパウロは「私は狂気になっていない」と述べる。「フェストゥス閣下、むしろ真理と正気の言葉を私は告げている。 26 というのも王――その彼に向かっても私は堂々と話しているのだが――は、これらのことに関して理解しているからだ。というのも彼にはこれらのことのうち隠されたものはないと私は納得しているからだ。というのもこれらのことは片隅においてなされてしまったわけではないからだ。 27 あなたは信じている――アグリッパ王よ――預言者たちを。私はあなたが信じているということを知ってしまった。」
ユダヤ人の王アグリッパ二世とベルニケは、熱心にパウロの弁明を聴いていたようです。彼・彼女にとって、パウロの「伝道説教」は佳境に入っていました。ところがここで横槍が入ります。ローマ総督フェストゥスは、パウロの言葉を大声で遮りました。24・25節の「述べる」は現在時制。過去を物語る表現にアクセントを与え、その場の情景を生き生きと浮き上がらせています。ローマ総督フェストゥスは、パウロが上訴を取り下げることを願っていたので、パウロの言動を途中で方向修正しようとします。「あなたは狂気になっている、パウロよ。多くの文字があなたを狂気の中へと向かわせている」(24節)。
この言葉をパウロが認めれば、キリスト教はローマ帝国にとって安全な活動となります。フェストゥスは、「死者が復活したと信じることは狂気のなせる業である」とパウロに言わせたかったのでしょう。そうであれば狂気の集団であるユダヤ教ナザレ派は、正気によって成立している社会をゆるがせるものではありません。しかしパウロは、フェストゥスの大声にすぐさま反対します。「私は狂気になっていない…、むしろ真理と正気の言葉を私は告げている」(25節)。パウロの声は大声ではありません。声の大きさが真理性を保証するものではないからです。
26節に3回繰り返される「というのも」は、パウロが「狂気になっていない」理由を示しています。第一にアグリッパ王とベルニケがパウロの言葉をよく理解しているということです。パウロの言葉に真理性がありパウロが正気であることは聴衆の反応を見ればわかります。第二にイエス・キリストの十字架と復活は聖書で公に預言され公の場でなされた出来事であるということです。アグリッパ王もベルニケも同時代人として当然知っていることを述べているのだから、パウロもまた同時代の標準的ユダヤ人です。彼は正気です。
ここでパウロはアグリッパ王の方に向き、直接彼にだけ語りかけます。「あなたは信じている――アグリッパ王よ――預言者たちを。私はあなたが信じているということを知ってしまった」(27節)。もともとのギリシャ語原文には疑問記号はありませんから、私訳のように「あなたは預言者たちを信じている」と肯定文と考えることができます。肯定文の方がパウロの主張に近いでしょう。というのも、「知ってしまった」は完了時制だからです。パウロはアグリッパの熱心な聴き方を見て、「この人には信がある」と話しながら知り、その効果はこの発言の時にまで継続しています。
「預言者たち」とは旧約聖書の中の第二部です。第一部は「律法(創世記から申命記までの五書)」、それに続く第二部はヨシュア記から列王記(「前の預言者たち」)とイザヤ書からマラキ書まで(「後の預言者たち」)を合わせたものです。「前の預言者たち」には、死人が復活する記事が書かれています。そして「後の預言者たち」に、イエス・キリストの到来を予告する内容(メシア預言)が書かれています。
「ギリシャ・ローマ文化で育ったあなたでも、ユダヤ人の一員として律法も預言者たちをも信じている。私の弁明を熱心に聴くその態度から、私はあなたの信を知ったのだ。アグリッパ王よ、あなたは預言者たちを信じているに違いない。それゆえに、イエスがキリストであることを信じる準備ができている。」パウロはローマ総督フェストゥスを無視してヘロデ大王の曾孫アグリッパ王に詰め寄ります。大声ではなくても迫力を感じる話しぶりです。
28 さてアグリッパはパウロに向かって言った。「わずかなことにおいてあなたは私を、クリスチャンを作るようにと説得している。」 29 さてパウロは、「わずかなことにおいてでも多くのことにおいてでも、あなただけではなく、むしろ私のこれらの事々を今日聞いている全ての人たちが私のようになることを、私は神に祈っている。これらの諸々の鎖は別だが。」
28節のアグリッパ王の言葉は、理解することが難しいのですが、私訳のように訳せます。一つは「わずかなこと」が何を指すのかが難しいということです。わずかな時間なのか、わずかな言葉なのかがはっきりと示されていません。どちらも大差ないので、曖昧に訳しました。もう一つはもっと深刻な困難です。「クリスチャンを作るように」と書いてあり、「クリスチャンになるように」とは書いていないということです。古代の写本家たちが「なるように」と修正していることから、ルカの著した原文が「クリスチャンを作るように」であることは確実です。この時点でクリスチャンではないアグリッパ王が、他の人を伝道してクリスチャンを作ることは想定しがたい事態です。ルカはパウロからアグリッパ王の応答の言葉を、そのように聞き取り、それをそのまま誠実に叙述したのでしょう。
パウロの伝言間違えでもなく、ルカの書き間違えでもないとすれば、一体何が想定されるのでしょうか。アグリッパ王があわてて言い間違えたのか、それとも、アグリッパ王は「福音宣教者パウロが自分をも福音宣教者にしようとしている」と察知したのでしょうか。後者の想定でも文脈にかなわないわけではありません。というのも、パウロ自身にとってクリスチャンになること(バプテスマ)と、クリスチャンを作ること(福音宣教者としての召命)は同時だったからです(12-18節)。「全ての人たちが私のようになることを、私は神に祈っている」(29節)とのパウロの言葉は、クリスチャンになってほしいという願いだけではなく、全ての人が福音宣教者になってほしいという願いと考えられなくもないでしょう。
「これらの諸々の鎖は別だが」という皮肉も、バプテスマの結果というよりは福音宣教の結果としての捕縛・拘留に対して言っているのでしょうから、今申し上げたことを補強しています。この時代はクリスチャンになることだけで投獄されるような事例はほとんどなかったのですから。パウロはアグリッパ王に大いに期待して物凄い熱量で伝道し、「あなたはすでに信仰を持っているのだから」と福音宣教の召命を持つように招きました。アグリッパ王は、その勢いに押されているのです。「わずかな言葉やわずかな時間であろうが、神からの召しについては何らかの応答が即時に必要である」と、パウロはアグリッパ王に対しても、その場に居る全員に対しても「堂々と話している」(26節)わけです。
パウロは雄弁家ではありません。文章家ではありますが、対面で話をすると頼りなげだったとも言われます。この弁明の場面でも特別に演説が冴えわたったということではないでしょう。とつとつと話していたのかもしれません。しかしはっきりとしていることは、穏やかではあっても堂々とした態度で毅然としていたことです。権力者たちを前にしても恐れ入らない態度が、パウロの長所です。オンライン会議では中々伝わらない独特の迫力だったことでしょう。
30 その王とその総督も、ベルニケと彼らと同席していた者たちも立ち上がった。 31 そして(彼らは)退いた後、彼らは互いに向かって話し続けた。以下のことを言いながら「この人間は死あるいは諸々の鎖に価することを実践していない。」 32 さてアグリッパはフェストゥスに述べ続けた。「もしも彼が皇帝に上訴しなかったならば、この人間は釈放されることが可能であり続けただろうに。」
ユダヤ人の王アグリッパ二世、ローマ皇帝の代官フェストゥス総督、アグリッパの妹ベルニケ、ローマ軍の千人隊長たち、そしてカイサリアの町の有力者たちは、態度決定を迫られました。クリスチャンになり福音宣教者になるのか、それとも招きを拒むのか。裁判によってパウロを裁く権限を持つ者たちが、実は福音宣教者パウロによって裁かれています。権力者たちは、パウロの招きを拒み、全員一斉に立ち上がります。それは自分たちの責任でパウロを無罪放免にしないという意思決定です。実はその場に居た全員がパウロは釈放されるべきと知っていました。彼ら彼女たちは「この人間」(31・32節)とパウロを呼び、パウロのことを人としてあっぱれだと認めています。
30節には二組のグループがあります。「その王とその総督」と「ベルニケと彼らと同席していた者たち」です。「この人間は死あるいは諸々の鎖に価することを実践していない」(31節)という言葉は、第二のグループ全員の認識でしょう。互いに向かって話し続けていたからです(未完了過去時制)。第一のグループはどのような会話をしていたのでしょうか。32節にあるように、アグリッパ二世はフェストゥス総督に対して、「もしも彼が皇帝に上訴しなかったならば、この人間は釈放されることが可能であり続けただろうに」と言い募ります(未完了過去時制)。ここにはローマ流の法律に親しんだ人にとっての後味の悪さが表現されています。「人間というものは自分の利益のために行動するものだ」ということを前提に法律はできています。なぜあえて拘留されたままの状態(不利益)を維持するために自らのローマ市民権(利益)を用いるのかが分かりません。フェストゥスは黙って聞き続け悶々とします。
おそらくパウロはローマ皇帝に直接会って、皇帝に向かってクリスチャンになりクリスチャンを作ることを勧めようとしていたのだと推測します。それこそ自分のクリスチャンとしての使命だと思い詰め(23章11節)、自分の釈放と皇帝の回心が同時になされるべきだと。後のキリスト教国教化の弊害を見ると、パウロのこの姿勢は批判されるべきです。バプテストとしては政教分離原則の方がより良い道です。パウロの優れた点は、自分のしたいことを堂々と貫いたことです。世間的な有利不利、誰かにどう見られるかを気にしないで、権力者にもおもねらないで、「私は皇帝に上訴する」(25章11節)という意思を貫徹したことです。幸せというものは他人に決められるものではありません。自分で決め自分で選ぶものです。それがクリスチャンの美徳です。
今日の小さな生き方の提案は、自分軸をしっかりと保って生きるということです。他人軸に左右されやすい世相です。他人の「あなたらしくて、いいね」によって「私らしさ」が確認されるとは何とも皮肉です。パウロは癖の強い人間でしばしば人間関係を悪化させていました。好きなように生き抜いた人です。彼は多分「いいね」の数や、フォロワー数に無関心だと思います。他人軸を気にしていないからです。エリート律法学者をやめた時、キリストに救われた時、パウロはこの自由を得たのだと思います。これこそ絶大な価値です。