暴風の中の船 使徒行録27章13-26節 2024年7月14日礼拝説教

 前回はクレタ島の南岸にある「良港」からフェニクスへ短い距離を航海し、フェニクスで越冬をしようという決議がなされたというところまでの話でした(12節)。パウロは「たとえ短い距離の航海でさえも控えた方が良い」という慎重意見でしたが、過半数決議によって船は危険な晩秋の航海をすることとなりました。

13 さて南風が軽く吹いた後、その目的が達成したと考えた後、(錨を)上げた後、彼らはクレタ島のできる限り近くを沿って航行し続けた。 14 さて多くない(時間の)後、北東風と呼ばれている暴風がそれ(クレタ島)から吹き下ろした。 15 さてその船が掴まえられた後、そしてその風に抵抗することができなくなったので、委ねた後、私たちは運ばれ続けた。 16 さてカウダと呼ばれている、とある島の陰を航行しながら、困難(と共に)私たちは小舟を制御することができた。 17 それを引き上げた後、補助具を彼らは船を補強するために用いた。またシルティス(湾)の中へと彼らが外に落ちることを恐れながら、器具をゆるめながら、そのようにして彼らは運ばれ続けた。 

 南風が軽く吹いたのを見て取って、過半数の者たちは「その目的が達成したと考え」(13節)ました。つまり、良港からフェニクスへと航海する条件が整ったと考えたのです。これで安全な港で荒天の冬を越せるという目的達成を前もって喜んだということです。船乗りたちは、クレタ島の南岸のすぐ近くを進んでいきます。クレタ島には2000メートル級の山があったそうです。その山を陰にして、北西からの風をなるべく避けようというのでしょう。

 ところが船出をして間もなく、「北東風と呼ばれている暴風がそれ(クレタ島)から吹き下ろし」ました(14節)。新共同訳「エウラキロン」は、東風と北風の合成語ですから、地図で言えば右斜め上からの風です。2000メートル級の山からの吹きおろしです。さらに、それはつむじ風のような「暴風」でもありました。大まかには北東から吹いているけれども、自在に風向きを変える暴風です。

 暴風は船を掴まえます。人力ではまったく抵抗のできない自然の猛威です。もはや委ねるしかなく、船は暴風に運ばれ続けます(15節)。「小舟」(16節)は上陸用の舟というだけではなく、船を制御するためにも用いられたそうです。その小舟の制御が15節まではまったくできなくなっていて、16節になって初めて制御することを再開したというのです。それは「カウダ」(16節)という島の陰(南岸)を漂っている間のことでした。カウダの位置は、クレタ島から40㎞ないしは100㎞南と言われています。クレタ島沿岸からかなり南に運ばれたことが分かります。小舟を船に引き上げた後、船乗りたちやローマ軍セバステー隊の兵士たちは、船を補強します(17節)。「補強する」の直訳は「下帯を締める」ですから、具体的に何をしたのかは不明ですが、暴風によって傷んだ船を締めて修繕しないと沈没してしまう恐れがあったのでしょう。船乗り用語として確立していた表現をその場で覚えたルカがそのまま自分の文章で使っています。

 さらなる恐れはこのまま北東風によって運ばれ続けて、船が「シルティス(湾)」の中へと行くことです。巻末の聖書地図「9 パウロのローマへの旅」に北アフリカの「リビア」が記載されています。リビアの左側の湾が、「大シルティス湾」です。その西隣に小シルティス湾があり、二つを合わせてシルティスと言います。この広い海域には良い港がありません。遠浅で船には危険な岩礁が多かったと言われます。シルティスまで流されたら危険です。

そこで船乗りたちは「器具をゆるめ」ます(17節)。先ほどは補助具を締めて補強し、今度は器具をゆるめる。これまた何をする行為なのかは不明。補助具も器具も船乗り用語なので特定しにくいのです。船乗り用語を多用しながらルカは臨場感あふれる情景描写をしようとしました。そしてそれが当初の意図を離れて現代の読者に混乱を与えています。その結果、激しい雨風の中、一つの大きな船に乗り合わせた彼らの混乱と格闘ぶりが伝わってきます。彼らは全員の生命と多くの積荷のためにとにかく何でもしようとしています。「そのようにして彼らは運ばれ続けた」(17節)。何となくノアの箱舟の物語を思い出させる場面です(創世記6-9章)。

18 さて激しく私たちを嵐が襲ったので、次の日に投げ荷を彼らは為し続けた。 19 そして三日目に自分たちの手で船の船具を彼らは投げ捨てた。 20 さて太陽も星々も多くの日々に現れなかったので、また嵐が小さからず留まり続けているので、私たちが救われるためのすべての希望は全く奪い去られ続けた。 

 良い港を出航してから一夜明けた次の日、穀物以外の積荷が捨てられます(18節)。ローマで売るための商品です。もったいないけれども人命には代えられません。「三日目」(19節)は足掛け三日目の意味でしょうから、18節「次の日」の次の日です。船乗りたちは、「自分たちの手で船の船具を…投げ捨てた」とあります(19節)。先ほどから出ている補助具や器具も含め、航海に使う船具のすべてが無用の長物として船乗りたちに投げ捨てられます。少しでも船を軽くするためでしょう。しかしそれは船を操縦する能力を自ら捨てることでもありました。ヨナ書1章のタルシシ行きの船の難破物語を思い出させる情景です。

嵐は海の上に留まり続け(未完了過去)、ルカたち一行(20節「私たち」)が救われるための希望は一切奪われ続けました(未完了過去)。真っ暗闇が続き、一人一人の希望が順々に途切れなく消え去っていく様子が、未完了過去という継続動作表現で言い表されています。船には276人が乗り合わせていたのです(37節)。著者ルカもまた希望を奪われた一人として、その人々に連帯し、「私たち」と記しています。神が「光あれ」と呼び掛ける状況とは、このような絶望状況でしょう(創世記1章)。そしてイエスがガリラヤ湖で「安心しなさい。私はある」と言いながら、嵐に悩む弟子たちの漁師船に乗り込んだのも、このような状況でしょう(マルコ6章50節)。

21 大いなる食べられない状態が存在し続けたので、その時パウロは彼らの真ん中に立った後、彼は言った。「おお男性たちよ、クレタから出航しないように、またこの災難と損害に遭わないようにという私に、確かに従順であることが(あなたたちにとって)必然であり続けていたのだ。 22 しかしながら今私はあなたたちが安心することを勧める。というのも一人の生命の損失もあなたたちのうちよりないであろうからだ、船の(損失を)除いて。 23 というのもこの夜、私が属している、また私が礼拝している神の天使が私(の傍ら)に立ったからだ。 24 以下のように言いながら、『あなたは恐れるな、パウロよ。あなたにとって皇帝の傍らに立つことは必然だ。そして何と、神はあなたと共に航海している者たち全てをあなたに恵んだ。』 25 それだから男性たちよ、あなたたちは安心せよ。というのも私は神を信じているからだ。なぜなら私に述べられた様式のように、そのようにそれがあるであろうからだ。 26 さてとある島の中へと落ちることは私たちにとって必然だ。」

嵐の中の船の真ん中でパウロは立ち上がり、説教をします。それは聖書の言葉を解釈する説教ではありません。自分が出会った神や神の使いの言葉を伝言するという説教です。これも最初期の礼拝における説教の一つの型です。当時、新約聖書はありません。旧約聖書はありましたが巻物は会堂に置かれていました。ギリシャ語訳旧約聖書も信徒の自宅にいつもあったとは借りりません。常に教会に何冊も聖書が備え付けられているわけではないのです。最初期の教会の説教は、聖書の文言に頼るものではなく、説教者が出会ったイエス・キリストを証しするという様式、そしてそのキリストと信徒である自分の関係が何であるのかを、説教者は証言したのでしょう。それによって説教者は、会衆に生きる元気を与え、一人一人の生活に安心を与えます(22・25節)。

パウロはイエスを幻や夢の中でよく見る人です(9章5節、23章11節)。難破船の中でも「この夜」(23節)、つまり説教を語る一日前の夜にパウロは神の使いに出会いました。そして天使はパウロに二つのことを約束しました。一つはパウロが皇帝の前に立って裁判が続けられること、もう一つは船に乗っている人がパウロに恵みとして与えられたということです(24節)。つまり全員助かってローマに行けるというのです(22節)。

パウロは乗り合わせた人々よりも一足先に前の晩この「福音」を聞いていたので、多くの人々が船酔いと絶望のために食べることができない状況を見て(21節)、自分の出会った神の使い、自分に伝えられた神の言葉を、乗り合わせた人々の状況に合わせて語りだします。鍵語は「必然」(21・24・26節。ギリシャ語デイ)です。神の意思が必ず地上に起こるという確信です。21節で「かつて自分の警告したことが必然的に今起っている」と言い、24節で「最終的に自分の皇帝に対する上訴が必然的に行われる」と言い、それだから26節で「自分たちはどこかの島に必然的にたどり着く」とパウロは確言しています。今まで言った通りのことが起こったのだから、これからも「私に述べられた様式のように、そのようにそれがあるであろう」(25節)。

一人の生命の損失もあなたたちのうちよりない」(22節)という福音は、かつての警告を上回っています(10節)。10節では生命の損失もありうると、パウロは言っていましたが、神の使いによってその暗い予測が書き換えられています。福音または説教とは、隣人を脅す言葉ではなく、隣人を活かす言葉です。

神の必然は、「私は神に所属している」「私は神を礼拝している」(23節)「私は神を信じている」(25節)というパウロの信仰に基づきます。イエスをキリストと信じる者を、また霊である神を礼拝する者を、神は所有しています。クリスチャンとは神に所有されていることを喜ぶ人々です。この信仰により、自らの支配欲・所有欲・独占欲から解放されます。この信仰により人生の暴風の中でも耐え抜く精神性・希望が与えられます。耐えられないほどの混乱や格闘や疲労の真ん中で、わたしたちは神の必然を聞き取ることができるのです。「私の生命・生活・あり方は決して損なわれない。必然的にわたしは安心して生きることができる。」

今日の小さな生き方の提案は、暴風の中の船の中で動揺し、手に負えない出来事の対応に大わらわとなり、大混乱と絶望に陥っている時に「神の必然」を聞き取ることです。今までと同様に今もこれからも必然的にわたしたちは救われます。なぜならわたしたちが神のものだからです。一週間に一度礼拝をするために教会という一つの船に乗り合わせることは、嵐の中の船を経験することです。日常生活の暴風が消えるのではなく、暴風の只中で福音を共に聴くことができる、これが信徒の恵みです。一人では中々神の必然は腑に落ちません。共に同じ船に乗り合わせる時に、隣人の姿を見てやっと安心するのです。