民数記19章は不思議な内容です。「赤い雌牛」とはいったいどのような意味があるのでしょうか。この章にだけ登場するので、意味合いや位置づけがよく分かりません。ヒントは20章1節のミリヤムの死です。この文脈は、「赤い雌牛」と、ツァラアトに罹った女性指導者ミリヤム(12章)とを重ね合わせているように思えます。両者ともに女性です。今回登場する「杉の木とヒソプと真っ赤な糸」(6節)はツァラアト患者の「清めの儀式」に使われる道具です(レビ記14章6節)。そしてミリヤムはツァラアトに罹った際に、赤い雌牛と同じく「宿営に属する外」(3節。12章15節と同じ表現)に連れ出されています。
赤い雌牛とは何かを問うことは、ミリヤムとは誰かを問うことです。ミリヤムには両義性・二面性(相反する二面を同時に持っているという性質)があります。女性差別を被り「貶められて当然」と思われている人物という面と、出エジプトの指導者であり「尊重されて当然」と思われている人物という面です。この二面性に注目しながら、赤い雌牛に関係する儀式について掘り下げていきましょう。
1 そしてヤハウェはモーセに向かって、またアロンに向かって、語った。曰く、 2 これはヤハウェが命じた律法の掟。曰く、貴男はイスラエルの息子たちに向かって語れ。そうすれば彼らは貴男に向かって赤い完全な雌牛(を)取るだろう。彼女の中にぶちがない、彼女の上に軛が上ったことがない(赤い完全な雌牛を)。
ヤハウェの神はミリヤムの弟たちであるアロンとモーセの二人に命じます(1節)。18章には無かった二人共に対する命令です(18章1・8・20・25節参照)。「これはヤハウェが命じた律法の掟」(2節)。「律法の掟」という表現は非常に珍しく、この儀式の重要性を示しています。18章は祭司とレビ人に関する規定でしたが、19章は「イスラエルの息子たち」娘たち全員に関わる規定だからでしょう。宗教者ではない世俗の一般人のために、特別なものが用意されるという文脈です。それが赤い雌牛の灰による清めの水の製造です。
「彼女の中にぶちがない、彼女の上に軛が上ったことがない、赤い完全な雌牛」(2節)がどのような牛であるのかは、議論が分かれます。まず「ぶち」ではなく「欠け」なのだという考えもあります。しかし、赤はおそらく血を象徴しているので、「ぶち」の方が良いと思います。「欠け」は言うまでもなく障がい者差別を前提にしています。「彼女の上に軛が上ったことがない」ということは、労働をしたことがない牛であることを示します。それは雌牛が若いことを示しています。しかし雄牛の場合と異なり雌牛が初子であるかどうかは問題になっていません。家父長制においては男性の生まれ順だけが問題なのです。「完全な」という言葉は、サマリヤ人の五書では「興奮した」という言葉になっています。文字が一文字異なるのです。興奮して赤い雌牛なのかもしれない、また雌牛が完全であってはいけないなど、女性差別に連なる聖書本文があることも示唆に富みます。
3 そして貴男らは彼女を祭司エルアザルに向かって与えるのだ。そして彼は彼女をその宿営に属する外に向かって導き出すのだ。そして彼は彼女を彼の面前で殺すのだ。 4 そして祭司エルアザルは彼女の血から彼の指で取るのだ。そして彼は会見の天幕の面の真正面に向かって彼女の血から七回振りかけるのだ。 5 そして彼はその雌牛を彼の目のために燃やすのだ。彼女の皮膚を、また彼女の肉を、また彼女の血を、彼女の腸の上でそれは燃える。 6 そしてその祭司は杉の木とヒソプと真っ赤な糸(を)取るのだ。そしてその雌牛の燃焼の真ん中に向かって彼は投げるのだ。
「祭司エルアザル」(3節)はアロンの息子、次期大祭司です。「貴男らは」とあるので、アロンとモーセは赤い雌牛(「彼女」)をエルアザルに与えて、自分たちは何もしません。否定的に言えば、雌牛が女性という「格下」の生き物なので、年齢的に「格下」のエルアザルに処分させたということでしょう。大祭司アロンは、宿営の外に行かずに聖所を守るべきだからです。そちらの方が「格上」の業務であるという理解が鼻につきます。あえて肯定的な事柄をひねり出すならば、このただ一度しか記録されていない、重要な赤い雌牛の儀式は次世代のものであるということなのでしょう。
「彼は彼女を彼の面前で殺す」(3節)とあるように、この仕事はエルアザル一人が行うべき業務とされています。そしてエルアザルは、遠くにある会見の幕屋の方向に向かって、殺された雌牛の血を七回指で振りかけます。ほんの少量の血だけを用いて、ほとんどすべてを焼き尽くし灰とすることにこの儀式の特徴があります。血も腸内の汚物も含めて、すべてを燃やすのです。地面に落ちた血の滴りが、イスラエルのために犠牲となった彼女の無念を象徴しています。その血が大地から叫んでいます。血は彼女の記念です。
「その祭司は杉の木とヒソプと真っ赤な糸(を)取るのだ。そしてその雌牛の燃焼の真ん中に向かって彼は投げるのだ」(6節)。ツァラアト患者に対する「清めの儀式」においては、杉の木・ヒソプ・真っ赤な糸は燃やされません。祭司はこの三つの道具で動物の血を患者に七回振りかけます(レビ記14章)。赤い雌牛による「清め」というものが、一風変わっていることが分かります。個々の要素(血による清め、三道具、七回振りかけ)は似ていますし、罪を清めるという趣旨は同じなのですが、徹底的に赤い雌牛は燃やし尽くされなくてはならないのです。こう考えると「赤」は血の象徴というだけではなく、火で焼き尽くすことの象徴でもあるかもしれません。
さらに「赤」はエドム人(=イスラエルの双子の兄エサウの子孫)の名前の由来でもあります。エドム人への民族差別や憎悪の感情が、赤い雌牛を徹底的に燃やすという行為や、清めの道具すら燃やすという行為と関係があるかもしれません。その一方で「寄留者のため」(10節)の掟という面もあり、ここも二面性があります。
7 そしてその祭司は彼の服(を)洗うのだ。そして彼は彼の体(を)水で洗うのだ。そしてその後彼はその宿営に向かって来る。そしてその祭司は夕まで汚れるのだ。 8 そして彼女を燃やす者は彼の服(を)水で洗う。そして彼は彼の体(を)水で洗うのだ。そして彼はその夕まで汚れるのだ。 9 そして聖い男性はその雌牛の灰を集めるのだ。そして彼はその宿営に属する外から聖い場所に蓄える。そして彼女はイスラエルの息子たちの会衆を守ることとなるのだ。彼女はその罪の清めの水となるのだ。 10 そしてその雌牛の灰を集める者は彼の服を洗うのだ。そして彼はその夕まで汚れるのだ。そして彼女はイスラエルの息子たちのために、また彼らの真ん中に寄留している寄留者のために、永遠の掟になるのだ。
「そして・・・のだ」と機械的に訳しています。接続詞は「しかし」でも「ただし」でも読み手の解釈次第です。また動詞はすべて完了形で書かれています。強い断定を示す口調です。この段落全体にこの強い口調は貫かれています。女性憎悪misogynyを連想させます。
血は生命を象徴し罪の清めに用いられますが、同時に汚れてもいます。いわゆる「長血の女性」の物語と関わります。血も二面性を持っています。祭司は赤い雌牛の血に触れているので汚れます。そこで洗わなくては宿営に戻れません(7節)。
突然、「彼女を燃やす者」(8節)が登場します。さらに「その雌牛の灰を集める者」(10節)も登場します。祭司と雌牛を燃やす者は、今までの文脈では同一人物エルアザルです。本日の箇所はエルアザルに対する初めての赤い雌牛儀式についての命令と、後代の祭司たち(7節「その祭司」)に対する同じ儀式についての命令とが混ざっています。
最初の赤い雌牛はエルアザル一人で殺し燃やしたのでしょう。赤い雌牛の灰がなくなったとき、新たな若い赤い雌牛が共同体のために殺され、その時には祭司と燃やす者が別人ということもありえたのだと思います。祭司と燃やす者は、体と服とを洗う必要がありました。灰を集める者は服を洗うだけで良かったということは、直接殺害をしていないからなのでしょう。いずれにせよ、犠牲として重要かつ聖い雌牛も、死体としては汚れているという二面性を持っていました。11節以降は「死人に触れた者」に関する清めの規定です。だから赤い雌牛は、19章における「最初の死者」です。「夕まで汚れる」が繰り返されています(7・8・10節)。日没が一日の境目だったからです。
赤い雌牛を焼き尽くす最大の理由は、灰にして水に混ぜて「罪の清めの水」(9節)を作りたいからというものです。その水が罪を清める儀式に用いられるのです。「灰」「塵」も二面性を持っています。小さく儚いもののたとえです。塵芥のような細かさによって水と混ぜることができます。徹底的に砕かれた小さなものにしかできない大きな業があります。「彼女は」(9節)を「赤い雌牛」とし、10節は「(全体の規定を指して)このことは」と解釈します。赤い雌牛は灰となることによって「罪の清めの水」と不可分一体のもの、正にそのものとなったのです。
「罪の清めの水」は、庶民の日常生活に結び付く道具だったと思います。灰を集めて水に混ぜて保管する行為は、祭司ではなく一般の「聖い男性」(9節)に委ねられています。雌牛が雄牛よりも劣ったものとして貶められていたからこそ、世俗の人たちが制作に関与でき、世俗の人たちの日常的な「汚れ行為」を簡単に清める道具として、雌牛の灰が用いられていたと推測します。雄牛の血よりも、一段階劣る清め儀式の道具が雌牛の灰です。おそらく新約聖書ヘブライ人への手紙9章13節も、今申し上げた女性差別を前提にしています。とは言え、赤い雌牛の灰が、イエス・キリストに譬えられているということは、本日の箇所に対する大きな評価です。宿営の外で祭司に殺された赤い雌牛は、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で祭司たちに殺された十字架の主イエス・キリストを遠くから指さす存在なのです。
沖縄に住む女性に対する米兵による性暴力が報じられる度に、赤い雌牛を思い出します。全体のために必要な犠牲という考え方を、イエス・キリストの十字架で最後にしなくてはいけません。キリストは雌牛の灰を不要のものとしてくださったはずです。彼女たちの血が大地から叫び、不正義を撃っています。彼女たちを正しく記念しなくてはいけません。
今日の小さな生き方の提案は、自分自身が「赤い雌牛」にならないこと、また新たな「赤い雌牛」を生み出さないことです。自分自身のように隣人を愛しましょう。それは組織の益よりも個人の幸せが優るということを肝に銘じて生きることでもあります。「安息日(制度/法律/組織)は人のためにあり、人が安息日(制度/法律/組織)のためにあるのではない」。家庭、学校、職場、そして教会においても、個人の幸福追求を大切にしていきましょう。