夜明け前のパン裂き 使徒行録27章27-38節 2024年7月28日礼拝説教

ローマのセバステー部隊にカイサリアから護送された囚人パウロ、彼に伴うルカとアリスタルコを乗せた貨物船(アレクサンドリア発)は、秋から冬にかけての航海で難破しました。カイサリアやアレクサンドリア、そしてエフェソなどの地名はわたしたちに馴染みがありませんが、当時の地中海沿岸の都市の中で屈指の人口を誇る大都会です。エルサレム中心に考えるのではなく自らの視野を広げることや(何に対しても)、パウロ系列の教会が大都市を布教の対象としていることを知ることが必要です。

さて本日の箇所の後半は(33-38節)、最後の晩餐の記事(ルカ22章14-23節)や成人男性だけで五千人が満腹した記事と(同9章10-17節)、用語面で重なっています。さらに復活のイエスが魚を食べた記事とも重なっていると思います(同24章41-43節)。この難破船に乗り合わせた使徒言行録およびルカ福音書の著者ルカの意図を汲んで、本日の箇所を読み解いてまいりたいと思います。そしてわたしたちが行っている主の晩餐についての示唆を得たいと願います。

27 さて十四日目の夜が生じた時に、アドリアの中に私たちは運ばれながらその夜の真ん中に対してその漕ぎ手たちはどこかの土地が彼らに近づいていることを次々と感知した。 28 そして錘を投げた後、二十オルギア〔37m〕を彼らは見出した。さて少し離れた後、また再び錘を投げた後、彼らは十五オルギア〔27.75m〕を見出した。 29 それから、わたしたちがどこかの岩の場所によって落ちるかもしれないと恐れながら、船尾から四つの錨を投げ入れた後、彼らは日が生じることを祈り続けた。 30 さてその船から漕ぎ手たちは逃げることを求めながら、そして船首からの錨(という)口実でその小舟をその海の中へとゆるめて、正に逃げ出そうとした時に、 31 パウロはその百人隊長と兵士たちに言った。「もしこれらの者たちがその船の中に残らないならばあなたたちは救われない。」 32 そこでその兵士たちはその小舟の綱を切り落とした。そしてそれ〔小舟〕を落とすことを彼らは許した。 

 十四日目」(27・33節)は、13節の船出から数えて十四日目ということです。同じく「三日目」(19節)の時点で、多くの人が食事をとることができなかったのでした(21節)。それからさらに十日以上たっています。食べられないから眠ることができなかったのでしょうか。真夜中にもかかわらず船乗りたち複数人が次々と陸地が近いことを感知しました(27節)。「感知した」は、「後ろで考える」という意味合いの動詞、これは職業的な勘です。未完了過去時制は、複数人が次々と勘づいた結果動作が継続したことを示しています。素早く彼らは水深を測るために錘のついたひもを海の中に投げ入れます。徐々に浅くなっていることが分かります(28節)。彼らの勘が当たったのです。浅くなったことは、陸が近いことと、大きな船にとって座礁の危険があることをも意味します。船乗りたちは船尾から四つの錨を下ろして、船がこれ以上波や風に運ばれないようにしました(29節)。ここまでは全員のための行動でした。

 ところが船乗りたちはここから自己中心な行動に出ます。船首の方に行き、そこに引き上げていた「小舟」(16・17節)を、自分たちの上陸のために用いようとしたのです(30節)。この行動は、船乗りとしての職業倫理に反するものです。船乗りたる者、船に乗っている人の最後に避難するべきです。夜陰に乗じて、しかもぬけぬけと嘘を言い(「口実」)、自分たちの職業的専門技術を用いて、自分たちだけは助かろうという考えをとるべきではありません。確かに極限まで追い詰められていました。しかしそれは全ての人がそうだったのですから船乗りたちだけが弁解できるものでもありません。

 船乗りたちの卑劣な行動を見つけたのはパウロでした。パウロはユリウス(1節)という名前の「百人隊長と兵士たち」に、「もしこれらの者たちがその船の中に残らないならばあなたたちは救われない」(31節)と忠告します。「専門知識と技術をもつ船乗りたちの逃亡だけはなんとしてでも阻止すべき、さもなければこの船をコントロールできない、うまく上陸して助かることができない、全員で助かろう」と言うのです。百人隊長は職業的に緊急事態に対して機敏に反応します。ユリウスは11節ではパウロよりも船乗りたちの意見を採りました。しかし今回はパウロの意見を採ります。事柄に応じて是々非々で瞬時に判断をします。ユリウスの指示のもと兵士たちは小舟を剣で斬り捨てます(32節)。このことは操縦用の道具でもあり上陸用の道具でもある「便利な道具」を失うことでもありました。大きな痛手でもありますが、不信と分裂を生じる「便利な道具」は無い方が良いという場合もあります。不便ではあっても一つの大きな船に乗り合わせ、全員で助かる方がより良い選択です。

33 さて日が正に生じようとし続けるまでに、パウロは全員に食べ物を共に取ることを勧め続けた。曰く、「今日は十四日目の日、食事なしで待ちながら、あなたたちは何も取らないで続けている。 34 それだからわたしはあなたたちが食べ物を共に取ることを勧める。というのもこれがあなたたちの救いに向かうことであるからだ。というのもあなたたちのうちその頭から毛が滅びる者はないからだ。」 35 さてこれらの事々を言った後、そしてパンを取った後、彼は全員の前で神に感謝した。そして裂いた後、彼は食べることを始めた。 36 さてすべての者たちも元気づくことが生じた後、おのおの食べ物を取った。 37 さてわたしたちは、その船の中にいるすべての生命およそ七十六であり続けた。 38 さて食べ物に満腹した後、彼らはその船を軽くし続けた。その海の中へとその小麦を投げ捨てながら。

 分裂騒動があり気まずい雰囲気が一つの船を支配していました。もうすぐ日が昇るというころ、船の中がもっとも寒い時間です。いろいろな意味で凍てついていた時に、パウロが全員に話しかけます。21節の演説の時にはパウロは立ち上がって語っていました。33節では立ち上がったと書いていないので、パウロは座ったままで静かに語りかけたのだと思います。それは共に食事をとることの勧めです。二回繰り返される「共に取る」(33・34節)が鍵語です。ルカは「共に」という意味合いを込めた動詞を用いています。ただの食事ではなく全員で一緒に取ることに意味がある食事です。

 なぜ今ここで船に乗っている全員が共に食事をとらなくてはならないのでしょうか。乗り合わせているさまざまな人たちは不思議に思います。難破船から逃げ出そうとして阻止された船乗りたち、囚人護送の任務を全うできるか不安なローマの兵士たち、穀物以外の積荷を海に捨ててしまった者たち、イタリアへ移動しようとしている乗客たち、そしてキリスト者である囚人とその友人たち。背景も、利害も、思想信条も異なる者たちが、偶発的にこの難破船に乗り合わせています。共通していることは全員が死にかけていることです。また、全員が身体生命を損なうことなく無事に生きるべきであるということです。

 「それだからわたしはあなたたちが食べ物を共に取ることを勧める。というのもこれがあなたたちの救いに向かうことであるからだ」(34節)。パウロは教会が毎週礼拝の中でパン裂きを行っていること、共に食べる食事が全員を活かす力を持っていることを知っています。教会はパンを裂くために集まる交わりです(20章7節)。理屈では説明がつかない不思議な元気づけが、主の晩餐にはあります。みんなで食べると闇の中に光がともる気がして、明日も生きてみようという気持ちになるのです。明けない夜はない。十字架のイエスを記念する時に、復活の希望が感じられます。夜明け前は最も寒いけれども、逆にそこから気温は必ず上昇します。

 おそらく外の暴風はおさまり次の朝は太陽が昇ることがわかっていたのでしょう。33節にあるように、パウロは夜が明ける前にこの食事を共にとろうと熱心に人々を説得し続けています。夜明け前であることに意味があるのです。その時「救いに向かうこと」(34節)が、より明らかになります。もっとも救いようのないどん底が、跳ね返ってV字回復を遂げる時の開始時点となるからです。

さてこれらの事々を言った後、そしてパンを取った後、彼は全員の前で神に感謝した。そして裂いた後、彼は食べることを始めた」(35節)。主の晩餐の所作で、パウロはパンを取り、神に感謝の祈りを捧げ、パンを裂き、自分が先に食べます。乗り合わせた人々はパウロの説得にもかかわらず、共に食べ物を取る意義に納得も承服もしていなかったのでしょう。わだかまりも解けていないのですから。その人々の前でパウロがむしゃむしゃと食べ始めます。何ともユーモラスです。誰も一緒に食べようとしないので、ユダヤ教ナザレ派の儀式の所作を使いながら(この信仰のゆえに囚人となっているのですが)、一人だけ普通にパンを食べ始め、「みなさんもどうぞ。もったいないですよ、ここまで捨てないでおいたのですから。もう明日には捨てますよ。みんなで上陸するのですから」と、難破船の中で一人の囚人が勧めています。

さてすべての者たちも元気づくことが生じた後、おのおの食べ物を取った」(36節)。記述の順番通りなぞれば、このパウロの食べっぷりと話しっぷりを見て全ての者たちは元気づいて、それからそれぞれが食べ物を取りました。教会でなされる晩餐とも、野原で行われた給食とも、少しずつ異なります。一人の人が食べ、それにつられて一人ずつおのおのの決断において食べることに加わっていったのです。しかし結果において三つの食卓は同じです。すべての者は「満腹した」(38節)のです。難破船での食事は、復活のイエスが信じない弟子たちに自分の復活を信じさせようとして魚をむしゃむしゃ一人で食べたことに似ています(ルカ24章41-43節)。イエスというユーモラスな人物は、しょげている人を元気づけるために、おどけた食べ方やあっと驚く話をして、そこに居合わせた人を元気づけ、各々の決断を尊重しながらすべての人を食卓に招いていたのです。「あなたはわたしに従いなさい」と。

この場にいた人数は「二百七十六人」か「およそ七十六人」(37節)かで説が分かれます。ルカの口癖を重視すれば「およそ七十六人」が有力ですし、この食事の場面にも合致するでしょう。全員はパウロの話を聞き取れる距離におり、食べっぷりを同時に見ることができる距離にいたのだと思います。

今日の小さな生き方の提案は、船の中の食事を、わたしたちの「主の晩餐式」と重ね合わせることです。この礼拝の一時間は、ある意味で船に乗り合わせたようなものです。一人一人の思いはばらばらで構いません。パンと葡萄酒を取るも取らないも自由です。他の人が喜んで取っているのを見て、自分も元気づいて、つられて飲み食いしても良いでしょうし、むしろそのような精神が望まれます。ある人は人生のどん底にいるかもしれません。その人が、「教会というところは集団でおままごとをしていておかしみがある」と思い、主の晩餐で復活するならば、これに優る救いがあるでしょうか。共に食べ物を取ることに力があります。居合わせた全員で行うことに意義があります。