死者に触れる者 民数記19章11-22 節 2024年8月4日礼拝説教

はじめに

本日の箇所も現代に住むわたしたちにとって理解が難しい内容です。古代パレスチナの人々にとっては、死者に触るという行為が宗教的な意味でタブーでした。人間の血や体液が宗教的な意味で汚れていたり、特定の病気や特定の動物が信仰の世界では汚れていたりという旧約聖書の律法の規定は、はたして意味があるのでしょうか。

一つ意味があるとすれば、多様な価値観や思想信条、文化風習を認めることは大切だということです。日本国憲法の価値でもあります。この意味で言えば、たとえばヒンズー教徒の人が牛を聖なる動物とすることや、イスラム教徒やユダヤ教徒が豚を汚れた動物として食べないということに敬意を払う必要はあります。菜食主義についても、当てはまるでしょう。

その一方で、わたしたちは新約聖書に記されているイエスの言葉と行動を基準にする必要があります。キリスト者にとって全聖句の解釈の物差しはイエス・キリストにあります。ナザレのイエスは死者に触るということをどのように捉えていたのでしょうか。そして使徒言行録に記されているイエスの弟子たちは、どのように捉えていたのでしょうか。

11 人間〔アダム〕の存在のすべてに応じて死者に触る者(は)、すなわち彼は七日間汚れるのだ。 12 彼こそがそれ〔水/灰〕で三日目と七日目に自分を浄める。彼は清くなる。そしてもし彼が三日目と七日目に自分を浄めないならば、彼は清くならない。 13 死ぬ人間の存在〔ネフェシュ〕における死者に触る者のすべて(は)、また彼は自分を浄めない(ならば)、ヤハウェの天幕を彼は汚すのだ。その存在はイスラエルから断たれるのだ。清めの水が彼の上に打ちかけられなかったので彼は汚なくなる。なお彼の中に彼の汚れが(ある)。 

イエスの言葉と行動

本日の聖句には人間を表す単語が三種類使われています。「人間」(アダム。11節他)、「存在/生命/魂」(ネフェシュ。13節他)、「男性/夫/各人」(イーシュ。18節他)です。これらはすべて「最初の人間たち(アダム一家)の物語」(創世記2-4章)に登場する単語です。人間は必ず死ぬ存在であるということを、創世記における一連の物語は教えています。「死者」(11節他)と訳しましたが、「死につつある者」とも訳しえます。生まれた時から人は死へと向かっています。

イエスの疑問は、すべての人に当然に起こる死と宗教的な聖い/汚いの区別が関係あるのか、さっきまで生きていた人に触れることは汚くなくても、その人が死んだとたん死者に触れることがなぜ汚いことになるのかというものです。そして、そもそも宗教的に、あるいは神の目に聖いことと汚いこととの線引きがありうるのか、人間が勝手に行う「きれい/きたない」の線引きこそが有害ではないのかということです。イエスの問いかけは鋭利です。

聖い食べ物と汚い食べ物の区別はありません。特定の食べ物が人を汚すのではなく、むしろ人は自らの言葉によって品位を落とし自らを汚すのです(マルコ福音書7章15節)。交わってはいけない汚い職業の人も存在しません。イエスは徴税人や娼婦の友であり、職業や病気によって人を汚れていると決めつける祭司職を批判しています(同2章13-17節)。特定の病気に罹っている人が汚いという考えもありません(同1章40-45節、5章25-34節)。聖い民族と汚い民族の区別もありません(ヨハネ福音書4章)。

この延長で考えて当然の結論ですが、イエスにとって死者もまた汚い存在ではありません。死者に触ることで宗教的な意味で汚くなることもありません。良いサマリア人の譬え話は、サマリア人が汚れていないということを教えています。もう一つ、ユダヤ人の祭司は死者に触ることを恐れた、それによって汚れた存在になることを恐れたという点もあります。イエスはその態度も批判しています。律法を理由に隣人愛を行わないのは本末転倒だからです。

血液漏出の病気に苦しむ人に触られたことを咎めないイエス、ハンセン病に苦しむ人に触って癒したイエスは、カファルナウムの町の十二歳の死者に触ります。彼女の手を取って、「少女よ、起きなさい」と言われ、復活させます。ナインの町のやもめの一人息子の棺桶に触り、「若者よ、起きなさい」と言われ、復活させます。ベタニヤ村の墓場に行き、「ラザロよ、出て来なさい」と言われ、復活させます。彼は死者に触れ死者を活かします。

14 これがかの律法。人間(は)、もし彼が天幕の中で死んだなら、その天幕に向かって来るすべて(は)、またその天幕の中に(いる)すべては、七日間汚れる。 15 そしてその上に密閉の蓋がない、開けられている器、それは汚い。 16 そしてかの野原の面に接して剣で斬殺された者に、あるいは死者に、あるいは人間の骨に、あるいは墓に触る者のすべて(は)、彼は七日間汚れる。 17 そしてかの汚れのためにかの罪の浄めの燃焼の灰から彼らは取るのだ。そして彼はそれ〔灰〕の上に生ける水(を)器に向かって与えるのだ。 18 そして彼はヒソプを取るのだ。そして彼はかの水の中に浸すのだ。聖い男性/各人(は)、すなわち彼は、かの天幕の上に、また諸々の器の上に、またそこに居た存在のすべての上に、またかの骨にあるいは斬殺された者にあるいはかの死者にあるいはかの墓に触った者の上に、振りかけるのだ。 19 そしてかの聖い者はかの汚れた者の上に三日目と七日目に振りかけるのだ。そして七日目に彼は彼を浄めるのだ。そして彼は彼の服を洗うのだ。そして彼はかの水で灌ぐ。そして彼はかの夕方に聖くなるのだ。

イエスから弟子たちへ

多産でありかつ子どもの死者数が多かった古代において(それだから平均年齢が非常に低い)、死は人々にとって身近なものでした。それは病院での死ではなく「天幕」(14節他)での死、自宅での死です。ヤイロの娘・十二歳の子どもが死ぬということは、残念ながらよくあることだったのです。

イエスは十二歳の女性が死んだ部屋に、三人の弟子(ペトロ・ヤコブ・ヨハネ)を連れて入りました。この部屋に入ることそのものが、自らを七日間宗教的に汚す行為です(14節)。さらに仲間をも七日間汚したのです。また22節にあるように「汚れた者がそれに触るすべては汚れる」のですから、この四人の汚れは、イエスの弟子集団全体に伝染します。

ここにイエスの弟子たちに対する教育があります。「早く行きたいなら一人で行け、遠くまで行きたいならみんなで行け」というアフリカの諺があります。イエスは、死者に触れること、死者の部屋に入ることは人を汚さない、きよい/けがれの別は無いということを、自分だけではなく弟子たちに実体験を通して少しずつ教えています。弟子たちは驚きをもって学んでいきます。

最高法院の議員でアリマタヤ出身のヨセフという男性弟子がいました。イエスが十字架で殺された直後に、イエスの遺体を触って抱えて十字架から降ろし、亜麻布を巻いて墓に入れます(マルコ15章43節)。律法学者でもあるニコデモもこの重労働を手伝ったようです(ヨハネ19章39節)。死刑囚の遺体を引き取るというだけで勇気が要る行為です。それだけではなく死体に触れることは自分が宗教的に「七日間汚れる」(16節)ということでもありました。二人を衝き動かしたのはイエスの言動、教育の結果でしょう。

三日目の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人の女性弟子がイエスの墓の中に入ります。これも「七日間汚れる」(16節)行為です。しかしそのようなことは彼女たちにはどうでもよいことで、むしろ「墓石をどのように移動すべきか」だけが彼女たちの関心事でした。律法を破っても隣人愛を行う方が良いというように、生き方の物差しが変わったからです。

この五人は、「三日目と七日目」に祭司たちに浄めてもらったのでしょうか。ありえないでしょう。「聖い者」と自認する祭司たちにイエスが殺されたから、そのような自己矛盾を弟子たちはできないのです(19節)。

20 そして汚れている男性/各人(は)、すなわち彼は自分を浄めない。そしてその存在はかの集会の真ん中から断たれるのだ。なぜならヤハウェの聖所を彼が汚したからである。清めの水が彼の上に打ちかけられなかった。彼は汚い。 21 彼女〔律法〕は彼らにとって永遠の掟になる。そして清めの水を振りかける者は彼の服を洗う。そして清めの水を触る者はかの夕方まで汚れる。 22 そしてかの汚れた者がそれに触るすべては汚れる。そして触る者の存在はかの夕方まで汚れる。

弟子たちから教会・わたしたちへ

ペンテコステで誕生した教会、教会指導者・使徒ヤコブは首を剣で斬り落とされて殺されました(使徒言行録12章1節)。教会員たちは汚れた存在になることを厭わず(16・18節)彼の遺体を引き取ったと思います。使徒ペトロは、ヤッファの教会指導者タビタの死んだ後、その部屋に入り、すでに部屋にいたやもめたちの前で、タビタをよみがえらせます。使徒パウロは礼拝中に転落死したエウティコを触って抱きかかえてよみがえらせます(使徒言行録20章10節)。イエス、弟子たち、初代教会の信徒たちへ、受け継がれていることがはっきりしています。神/イエスが聖いと言っているものを人間が汚いと言ってはいけないのです(使徒言行録10章)。

これらの行為によって、教会は「集会の真ん中から断たれる」ものとされ、ナザレ派は異端であると判定され、ユダヤ人共同体から排除されます。清めの水が打ちかけられることを拒否したからです(20節)。ただ一度イエスによって清められ(ヘブライ9章13-14節)、あえて汚い者と呼ばれる生き方を選んだからです。「清めの水を触る者はかの夕方まで汚れる」(21節)という記述は、清めの水/雌牛の灰のパラドックスと言われます。清い水に触ったら聖くなりそうなものだからです。示唆深い逆説です。聖なる存在を認めた瞬間、正反対に穢れた存在が出現します。「貴族あれば賎族あり」です。律法はクリスチャンにとって「永遠の掟」(22節)とならなくなりました。イエス・キリストこそが唯一の永遠の掟、生き方の物差しです。

今日の小さな生き方の提案は、わたしたちが「自分の罪を清められ救われた」という時の意味の深掘りです。救いとは、聖い/汚いの別がどうでも良くなるという心持ちです。十字架によって開かれる体験です。罪とは自己嫌悪も含む狭い心です。イエスは「あなたも隣人も清い」と断言されています。この言葉に触れ、イエスを散らかった自分の心の部屋に迎え入れ、わたしたちは大らかに「アーメン(その通り)」と応えるだけで良いのです。すると世界の見方が変わります。誰かと比較していばったり卑下したりする考え方から解放されます。それが罪だったのです。すると「あなたの信があなたを救った」という慰めを聞きます。キリストは教育的に対話の中で清め救ってくださいます。