漂流の終わり 使徒行録27章39-44節 2024年8月11日礼拝説教

前回までの話

 パウロ、ルカ、アリスタルコたちをローマへと護送する船はクレタ島を出発した後嵐に巻き込まれ2週間ほど漂流します。食事ものどが通らないほどにくたびれ失望していた乗客乗員一同は、パウロの促しで共にパンを食べます。おりしも暴風雨はおさまり始め、久しぶりに太陽が昇ろうとしています。今回は漂流が終わり、とある島に全員が上陸するという話です。この話はわたしたちに「救いとは何か」「平和とは何か」ということを教えています。

39 さて日が生じた時に彼らはその地を認識し続けなかった。さて彼らは浜を持っている、とある湾を見極め続けた。そこへと彼らがかの船を外へ押すことができるかどうか彼らが考えている(湾を)。 40 そして諸々の錨をまわりから取って後、彼らはかの海の中へと行かせた。同時に舵の綱を緩めて後、そして微風のために前の帆を上げて後、浜の中へと彼らは接近した。 41 さて二つの海の場所の中へと落ちて後、彼らは船を着岸した。そしてその船首はしっかり止まった後、それは動かなくなった。しかしその船尾は威力によって壊され続けた。 

漂流の終わり

とうとう長い夜が明け、長い嵐が収まり「」が昇りました(39節)。船乗りたちは陸が近いということを勘づいていましたから(27節)、目を凝らして遠くの方を見ます。じっと見続けても、その地がどこであるのか認識は難しかったようです(39節前半)。しかし、どこであるかは分からなくても、浜をもつ湾があるということだけは分かりました(39節後半)。港がなくても浜のある湾に船を動かしていけば、何とか陸地に上がることができるでしょう。そうすれば助かります。

 彼らは錨を四つ船尾から海に投げ込んでいました(29節)。その錨をもう一度引き上げて、その際に錨のまわりにつくものも取って、船を動かそうとします。嵐の中、舵の綱を固く締めて動かないようにしていたようです。舵は船首と船尾にあり、それをつなぐ綱を緩めることで操舵ができたのだそうです。

 風は暴風ではなく「微風」に変わっています。操縦にも役立つ「小舟」は船首にもうありません(32節)。そこで「前の帆を上げて」、この帆と舵だけで船を浜の中へと導こうとするのです(40節)。多くの「船具」はすでに捨てています(19節)。限られた道具だけで、その時の全力を尽くすだけです。熟練の船乗りたちが、この時点で残っていたのでできることです。パウロの言った通りです(31節)。全員で逃げるということがとても大切です。「自分だけが助かろうとする」ことや、「あの人たちは助ける必要がない」という考え方は、良くないのです。ここに聖書の語る「救い」や「平和」があります。

 「二つの海の場所」(41節)が何を意味するかは諸説ありえます。海峡のような場所で、海と海を分ける地点と思われます。たとえばマレー海峡はインド洋と太平洋という二つの海を分ける地点です。マルタ島(28章1節)にも海峡のような場所があるどうです。海峡のような場所に船は「着岸」しますが、港ではないので岸までは距離があります。船首は海底にはまり込み、壊れずにうまく固定され「しっかり止ま」りました。操舵がうまくいったのです。その一方で、船尾の方は波の「威力によって壊され続け」ます。船の中に浸水が始まります。これもパウロの言った通りです(10節)。しかし沖合にいるわけではないので、船が壊れても「何とかなる」というところまで全員はいます。

 ただしかし心配事があります。操舵にも使い、上陸にも使うことができる「小舟」をすでに失っていることです(30節)。ここで泳げる者と泳げない者とが区別されます。泳げない者を小舟に乗せて上陸させることは不可能だから、この区別が熾烈なものとなるのです。どうすれば全員が救われるということが起こるのでしょうか。この段落で繰り返されている「考え」(企図)という言葉が鍵です。どのような考えが、すべての人を救い平和を実現するのでしょうか。

42 さてかの兵士たちの考えが生じた。すなわち誰かが泳いで逃げることがないように囚人たちを彼らが殺してしまおうと(いう考えが)。 43 さてかの百人隊長はパウロを救うことを考えながら、彼らをその考えから妨げた。それから彼は命じた。泳ぐことができる者たちはその地に出て行くために最初に飛び込むことを(命じた)。 44 そして実際、残っている者たちは板材の上に、その船からの物々の上に(頼ることを命じた)。そしてそのようにしてすべての者たちがその地の上に救われるということが生じた。

望ましい考え

この浜を持つ湾に接近して、港があろうがなかろうが、知っている土地だろうがそうでなかろうが、着岸させるという「考え」(39節)は、救いの最後のチャンスとして正しい判断です。熟練の船乗りたちだけがこの難しい操舵を実現させました。さて次に望ましい考えは何だったのでしょうか。

兵士たちの心の中に望ましくない考えが生じました。自らが護送している「囚人たちを彼らが殺してしまおう」というのです(42節)。具体的にはパウロ、ルカ、アリスタルコのことです。もしかするとそれ以外の囚人もいたかもしれませんが、その点は不明です。理由は、「もしも囚人たちが泳げるのならば先に逃げてしまうに違いない、そうすれば自分たちも処刑されてしまう、それを未然に防ぐためには囚人を抹殺した方が良い」というものでしょう。この兵士たちの考えは、フィリピの町の監獄で看守が自ら命を絶とうとしたことを思い起こさせます(16章27節)。逃げた囚人の処罰(捕まったら死刑)と同じ処罰が、逃がしてしまった看守や兵士に課されるというのが当時のローマの法律にあったそうです。

パウロも、フィリピ出身の(!)ルカも、テサロニケ出身のアリスタルコも、この場面で自分たちだけが逃げることを考えていません。そうではなく全員で救われることを考え・企図し、そのために知恵と力を尽くしています。

このパウロたちの真意を百人隊長ユリウスは理解していました。彼は一連のパウロの発言をすべて心に留めて思い巡らせていたのです。10節でのパウロの警告を自分が斥けたこと、21-26節のパウロの説教によって励まされたこと、33節-34節のパウロの勧めによって共に食事を取り、そして希望の朝を迎えたことを、ユリウスは心に留めていました。そして、パウロやルカやアリスタルコたちの中に生きて働いているイエス・キリストを感じていたのです。「この人たちはただ者ではない。この人たちは少なくとも自分たちだけ助かるために逃げる人たちではない。むしろ全員の救いのためを考えている人たちだ。」

ユリウスはパウロたちを救おうとします。そして自分の権限を用いて兵士たちを説得します。誘惑に遭わせず悪から救い出そうとします。兵士たちをその考えから妨げる、そのような分断をもたらす考えをもたないように邪魔をしたのです。囚人か囚人ではないかを考えるのではなく、全員が救われるにはどうすべきかを考えるべきです。その点で、泳げる者か泳げない者かが問題であり、泳げない者がどのようにして救われるかを考えるべきなのです。また、仮にパウロたちが泳げる囚人であったとしても、彼らは決して逃げないと信じる信頼が大切なのです。

即座の判断

 ユリウスはパウロたちに倣い全員が救われる道を考えます。泳げる者は自力で陸地まで泳ぐように命じました(43節)。そして泳げない者は「板材の上に、その船からの物々の上に」頼って陸地を目指すように命令しました(44節)。「船からの物々」は「船に属する人々(=船乗り)」とも解することができます(新共同訳参照)。どちらでも同じだと思います。というのも、先に飛び込んだ泳げる者たちには、板につかまって浮かんでいる人々を救助するという使命があるからです。ユリウスが、段取りをつけて、単純で分かりやすい指示をしたことで、人々は(特に兵士たちは)目が覚めます。救いというものは明確な指示と段取りによっても促されます。組織のリーダーは、そのような役割を負わせられているものです。「そのようにしてすべての者たちがその地の上に救われるということが生じた」(44節)。

救いとは

 この漂流した難破船からの救いを体験した著者ルカは、彼の福音書において同じ「救う」(ディアソーゾー)という単語をルカ福音書7章3節で意図的に用いています。ローマの百人隊長が自分の部下の病気を癒し「救ってほしい」と願う場面です。ルカは、イエス・キリストの救いと、難破船からの救いを重ね合わせています。ローマの百人隊長という共通の登場人物を用いることによって、この二つの物語を同じ視点で読むように促しています。

 ルカ7章ではローマの百人隊長をユダヤ人の長老たちが擁護しています。そして百人隊長自身もイエスに対して謙虚であり、「先生は来るに及ばず、恐縮なので、ただお言葉だけかけてくれればそれで充分」と言うのです。この人々は全員品位を保っており、そして全てを信じ全てを望んでいます。そこでイエスは、「イスラエルの中にもこのような信仰を見たことがない」と最大限に評価します。非イスラエル人のルカが信じるキリストによる救いは、これらの品位を保つ人々が織り成す集団の意思によって、苦難に巻き込まれている全員を救い出そうとする集団の行動によってもたらされます。

 先に逃げようとしたことを阻止された船乗りは兵士たちを恨んでいたかもしれません。兵士たちに殺されそうになった囚人たちも気まずいはずです。しかし、泳げないで板切れに頼る兵士を泳げる船乗りが助けたりする中で、全員で全員の生命を守る意識が創られます。助からないで良い生命はないという品位が与えられます。平和は品位のある交わりです。

今日の小さな生き方の提案

 力はあっても品のない人もいれば国/組織もあります。わたしたちの間ではそのようであってはいけないでしょう。救いが品位を保つ人々の祈りと行動によってもたらされるからです。一人の人のバプテスマを考えてもそうです。「今だけ・自分だけ」が当たり前の世界です。漂流船の中では特に危険な考えです。限られた人の支配のためではなく、すべての人の救いのために力を用いる「考え」が必要です。その「考え」が常識である交わりが必要です。教会が平和を実現し、世界にこの仕え合う交わりを広げていきましょう。