我々と共なる神が マタイによる福音書1章18-25節 2024年12月8日(待降節第二週)礼拝説教

はじめに

 待降節の第二週となりました。一本目の蠟燭のあだ名は「希望」、二本目のあだ名は「平和」です。韓国で起こった大統領による非常戒厳令の宣言と、わずか六時間後の国会による解除決議に、闇の世界における一筋の希望を感じます。平和を創り出す実践を教えてもらったようにも思います。真夜中にもかかわらず瞬発力をもって多くの市民が国会にデモを行ったことに、民主化の歴史を踏まえた市民性教育(主権者教育)の成熟度を見ます。権利にあぐらをかく者を法は保護しないのだし、人権は不断の努力で勝ち取られるべきなのだし、およそ権力は分立すべきものです。おそらく韓国社会は大統領の戒厳令宣布権限をなくす方向で検討を始めるのではないでしょうか。平和の主を待ち望む希望を新たにさせられました。そして法の支配とは何かを考えさせられました。本日も法・制度・人権・憲法・自由・平等に関係する箇所です。

 

18 さてそのイエス・キリストの生成は次のようであり続けた。彼の母マリアはヨセフのために婚約した後、彼らが共に来ることの前に、聖霊によって子宮の中に持っていることが見出された。 19 さて彼女の夫ヨセフは義人であり続けているので、また彼女を曝すことを望み続けていないので、彼女を去らせることを密かに企図した。 20 さてこれらのことを彼が熟考した後、何と、主の天使が夢によって彼に見られた。曰く、ヨセフ、ダビデの息子、あなたはマリアを・あなたの妻を受容することを恐れることのないように。というのも彼女におけるその身ごもりは聖霊によるものだからだ。 21 さて彼女は息子を生むだろう。そしてあなたは彼の名前をイエスと呼ぶだろう。というのも、彼こそ彼の民を彼らの諸々の罪から救うだろうからだ。 22 さてこのことが全て生じたのは、主によってその預言者を通して言われたことが満たされるためだった。曰く、 23 何と、その処女が子宮の中に持つだろう。そして彼女は息子を生むだろう。そして彼らは彼の名前をインマヌエルと呼ぶだろう。それは、我々と共にその神が(いる)と、翻訳されているのだが。 24 さてヨセフはその睡眠から起きた後、その主の天使が彼に命じた通りに、彼はした。そして彼は彼の妻を受容した。 25 そして彼は彼女を知らないままだった。彼女が息子を生むまでは。そして彼/彼女は彼の名前をイエスと呼んだ。

 

義人ヨセフ

 マタイ福音書のクリスマス物語においては、母マリアよりも父ヨセフが活躍します(1-2章)。イエスの父ヨセフについては職業が大工であること以外知られていません。そこで年の離れた夫婦だったとか、ヨセフは早死にしたとかと言われます。そうかもしれません。情報の少ない中、彼が「義人」(19節)であり続けていたということは大きな情報です。義人は、律法を誠実に遵守している人という意味の言葉です。今どきのカタカナ語で言えばコンプライアンスを重んじている人といったところでしょうか。当時の法律、特に創世記から申命記までのモーセ律法が、彼の人格を形成しています。

 ヨセフはナザレの町にあった会堂に毎週安息日ごとに通います。彼の職業ならば毎週通うことができます。そこで一年をかけて礼拝でモーセ五書を朗読します。彼も十三歳の時から朗読ローテーションに入って積極的に奉仕をしていたことでしょう。ヨセフは創世記のヨセフ物語にも興味を持ったでしょうし、またすべての法律部分も暗記していたことでしょう。

 律法は妻となる人物が処女であるかどうかに関心があります。夫となる男性については同様の関心がないので、これは女性差別の一例です。当時のユダヤ人男性としてヨセフはマリアを信頼できない女性と思ったでしょうし、さらに蔑視したと思います。

申命記22章13-21節がヨセフを縛る法律。ただ今日の目で見ると分かりにくい場面についての条文です。「夫が妻の処女性が無いことを理由に妻と離縁しようとした場合」というものです。申命記によれば、妻となる女性の処女性を立証する責任は、その女性の父親にあります。ヨセフにとって問題となるのは20節以降です。女性が明白に処女ではないならば、女性は父の家から引きずり出され、町の住民から石打の刑で処刑されるべきというのです。マリアの妊娠は処女ではないことの決定的な証拠とみなされるでしょう。ヨセフが、マリアの処女性が無いことを理由に婚約破棄(離縁と同じ)するならば、マリアは処刑されることとなります。

 ヨセフはマリアのことを蔑視し、おそらくマリアを妊娠させた男性を嫌忌していたと推測できますが、マリアの死やマリアを妊娠させた男性の死を願っていませんでした。申命記22章23‐27節に基づいて、ヨセフはマリアを妊娠させた男性を探すこともできました。もし町中の強姦ならばマリアとその男性を石打ちの刑に、もし野原での強姦ならばその男性だけを殺すことができます。ヨセフは「あなたは殺してはならない」の方を重視します。ヨセフが義人であるということは、正義と信実な愛とを両立させているところにあります。愛のゆえに十戒の第六戒を重んじたのです。法には軽重があるのです。

 ひょっとするとヨセフはその男性がローマ兵であることも考え合わせていたかもしれません。その場合、ユダヤの法律では裁けないから詮索しても無意味であり命の危険すらあります。沖縄の現状と重なります。治外法権とは法律が無意味になる状態です。法の不存在は正義の不存在でもあります。

 ヨセフが「マリアの処女性の有無」を持ち出す離婚にしなければ、ことはそんなに荒立ちません。ヨセフが、妊娠させた男性を探求しなければ、ことはそこまで荒立ちません。ローマ駐屯軍を刺激することもないでしょう。「彼女を曝す」(19節)ことをしなければ、誰も死なないで済むのです。信実の愛を持つ義人ヨセフは、申命記24章1節に基づいて、密かに「離縁状(婚約破棄の書状)」を書いてマリアの家に届けようと考えました。婚約は結婚と同等と考えられていたのです。これは「熟考」(20節)の末の決断でした。良い人です。しかし、マリアの意思については無頓着です。結婚は両性の合意のみに基づくものでなかったからです。

 

インマヌエルという名前

 結局のところヨセフは「妻を受容することを恐れ」(20・24節)たのでしょう。婚約が結婚と同じ意味ならばヨセフはマリアを話し合うべきでした。「受容する」(パラランバノー)は「信じて従う」という意味まである強い言葉です。たとえば福音を受け取るというような用例です。マリアが生みたい、結婚したいと言った時に、ヨセフは従う勇気が無い、そもそも女性の言葉に従うという思考が無かったと思います。法律が、特に法律を遵守する人の頭を規定します。天使の言葉は、義人ヨセフの頑固な頭を良い意味で粉砕します。

 聖霊による妊娠はヨセフに思いもつかない考えでした。マリアが生む意思を持っていることも考えに及びませんでした。自分ではなくマリアが生む権利を持っているのでした。そういえばユダ部族の先祖タマルも、ルツも、生む意思を持ち生む権利を使った女性たちです。ヨセフは自分が命名者になることを当然と思い込んでいましたが、名前を決める自由がないということは知りませんでした。言われてみれば、アダムではなくエバが名づけたり、レアやラケルが名づけたりする事例は、モーセ律法に物語られています。天使はヨセフの頭に凝り固まっているものを打ち砕き、創世記から申命記までの読み直しを迫っています。夢で神意が語られることを、ヨセフはヨセフ物語から受け取っています。天使はそのヨセフを信頼して挑戦しています。

 そして天使はイザヤ書7章14節の「処女」(パルテノス)がマリアであるという驚くべき言葉を告げます。自分の妻/婚約者が、「インマヌエル」の母親であるというのです。ギリシャ語訳聖書がパルテノスという単語を使って訳しているということは、ヘブル語聖書の「若い女性」(アルマー)を処女と解釈するギリシャ語圏ユダヤ人たちが居たということでしょう。ガリラヤはギリシャ語の行き交う国際交易の地方です。ヨセフには処女がインマヌエルを生むという預言の成就は、腑に落ちる内容でした。ただ、まさか自分の身に起こるとは思わなかったでしょうけれども。ともかくここに至って、ヨセフは「その身ごもりは聖霊による」(20節)という不思議を理解したことでしょう。

 ところでヘブル語では、インマヌエルの命名は母親がしています。「彼女は・・・呼ぶ」とあるのです。本日の箇所は「彼らは・・・呼ぶ」と曖昧にしています。人々が呼んだのか(新共同訳)、それともマリアとヨセフが呼んだのか不明です。実はナザレのイエスは、インマヌエルというあだ名で呼ばれたことがありません。この誕生の時だけです。こう考えると人々ではなく、マリアとヨセフだけがインマヌエルと呼んだのでしょう。そして、そのあだ名を呼ぶたびに、神が我々二人と共に居るということを、マリアとヨセフは実感したのだと思います。ヨセフに欠けていたことは「私たち」という考え方でした。

 結婚は男性のため、家のためにあるのではありません。妻は、夫の親や、夫や、夫の子どもたちのためにいるのではありません。結婚は両性の合意のみによって成り立ちます。神と共なる、神の前の平等な「私たち」という概念が、律法を読み直す鍵です。相互に「向き合う助け主」(創世記2章18節)として仕え合うことが必要なのです。ヨセフは一人で熟考しましたが本当に必要なことはマリアとの熟議でした。その熟議の只中に聖霊の神はおられます。

 ヨセフは目覚めます。古い自分に死に新しい自分に復活して起きます。そして既に対等な配偶者であった妻を受容し、その言葉を聞き、受け取り、お互いの結婚の意思を確認し、同居します。義人は信によって生きます。ヨセフはイザヤ書7章14節が自分に成就したと信じて、創世記の1章から律法を読み直し、アダムとエバの物語を捉え直し、より上位の考えを選びます。最も上位にある掟は、全ての人間は平等に神の像であるという人権宣言です(創世記1章26-27節)。この掟のもとに同性婚も非婚も自由です。

 

今日の小さな生き方の提案

一人で悩むことはある意味で大切ですが、しかし、その決断は時に偏屈なものになります。聖書は「頑固」「頑なさ」を奨励しません。真の義人は、愛のゆえに翻ることができる柔軟さを持っているはずです。ヨセフのように、イエスのように。神が「平等な我々」と共にいるという真理、相互の受容と熟議の大切さ、どの法を最高法規とするかの判断、人生は頑固な独りよがりだけでは生き抜けません。必要なのは信です。自由な神を信じるしなやかさです。わたしたちと共なる神は自由な風に喩えられる聖霊です。常に頑固頭を打ち砕かれる覚悟をもって歩みましょう。待降節に毎日生まれ変わりましょう。