はじめに
待降節の第三週となりました。第三の蝋燭のあだ名は「喜び」です。東から来た博士たちが喜びをもって贈り物を捧げ、喜びをもってイエスを礼拝したこと(Christ-Misa)は、クリスマス(Christmas)という事柄の本質を告げています。喜んでイエスをキリストとして礼拝することが、アドヴェントにおいて求められていることなのでしょう。
ユダヤ人の王ヘロデはこの意味で博士たちと対極の存在です。イエスの誕生を喜べる人と喜べない人が、マタイ福音書2章に描かれています。
1 さてユダのベツレヘムにおいてその王ヘロデの日々においてそのイエスが生まれたので、何と、諸々の曙光(の方)から博士たちがエルサレムの中へとたどり着いた。 2 曰く、生まれた、そのユダヤ人たちの王はどこにいるのか。というのもわたしたちはその彼の星をその曙光において見たからだ。そしてわたしたちは彼に跪拝するために来た。
博士たち
「博士たち」(1節。ギリシャ語マゴイ)は、様々な分野の学者という意味ですから占星術のみに限定する必要はありません。ユダヤから見て曙の光が差す地域は東側ですから、「諸々の曙光」(1節)は「東」と解されています。複数形であることが方角をも意味するそうです。
博士たちが何人いたのかは不明です。贈り物の数によって十二人とする伝統もあれば、三人とする伝統もあります。どこから来たのかという点もアラビアからとか、メソポタミアからという言い伝えもあります。さらにセム・ハム・ヤフェト(全人種)の代表とみなすという考えに基づいて、西アジア系・欧州系・アフリカ系の三人となったりもしました。英語で博士たちのことをKings(王たち)と呼び習わします。それはイザヤ書60章3節と詩編72編10-11節の影響です。幼稚園の聖誕劇でさえもいまだに博士たちは王冠のようなものをかぶっています。また博士たちが見た星については、しばしば民数記22章17節においてアラム人(東方)預言者バラムが見た星と同一視されました。
こうして三人の博士たちの姿かたちが西欧ではある程度固まりました。聖書自体には書かれていないけれども、これら代々のキリスト者たちが施した解釈、信仰的想像は豊かなものであり、現代のわたしたちにとっても示唆深いものがあります。「生まれた、ユダヤ人たちの王はどこにいるか」(2節)と非ユダヤ人知識人たちが、現任のユダヤ人の王ヘロデに尋ねています。彼らはユダヤ人でもないのにユダヤ人たちの王に跪いて拝むために来たというのです。この方が全世界の王であるからです。キリストにあって、もはやギリシャ人もユダヤ人もない。誰でも礼拝できる救い主、誰をも包含する神の子イエスが人の子となったのです。
3 さてその王ヘロデが聞いた後、彼と全ての彼と共なるエルサレムはうろたえた。 4 そして全ての祭司長たちと民の律法学者たちを(彼が)集めた後、彼は彼らから聴き取り続けた。そのキリストはどこに生まれているのか。
ヘロデ大王
イエスの誕生は紀元前7年から4年の間と推測されています。他でもないヘロデ王が前4年に死んでいるからです。博士たちがヘロデ王に会ったのは彼の最晩年です。66歳から69歳の間です。新約聖書には多くのヘロデが登場します。本日のヘロデは大王とも呼ばれる「元祖ヘロデ」です。その他のヘロデは全て彼の子孫なのですから。週報4面に記載した通り、ヘロデは父親の代からの宿願だったユダヤ人の王国ハスモン王朝を倒します。そうして自分の王国を建て、ローマ帝国から「ユダヤ人の王」と公認され、パレスチナ地域の自治を許されたのです(前37年)。
ヘロデはローマで習った土木技術を使って、エルサレム市街にアントニア塔という建物を建てました。この塔は使徒パウロがローマ兵に匿われた場所です。カイサリアという町を一大港湾都市に再開発しました。属州シリアの首都となる大都市であり、パウロが二年間裁判のために幽閉されていた場所、使徒フィリポと彼の娘たちが主導した教会のある町です。また自分の死後まで建築が続くエルサレム神殿大増改築も開始したのはヘロデです。イエスはこの神殿増築をあからさまに批判し、その神殿冒涜罪が死刑の主な原因となったのでした。死刑囚イエスの棄て札に「ユダヤ人の王」と書かれていたことは、本日の箇所と呼応しています。この他ローマ戦争の最終拠点となったマサダの要塞も彼が大幅に修補増築した建造物です。ローマ帝国の庇護のもと、パレスチナ地域は内治内政に力を傾けることができました。それだからヘロデは大規模な公共事業を行い、雇用を広げ税収を上げることができたのでしょう。ガリラヤ地方が産業豊かになったのもヘロデの手腕によるものと推測できます。こうしてヘロデは、イエス・パウロの時代の前提となる基礎をつくった人物です。
ヘロデの領土はダビデ王の領土と匹敵する広さでした。軍略と政略と謀略の限りを尽くして、権力の座を上り詰めた男性。それだからこそ猜疑心が人一倍強く、ハスモン家の血を引く妻や義母、自分の息子たちさえも暗殺した人物です。ヘロデの父親はイドマヤ人、母親はナバテア人でした。ユダヤ人たちは一般に民族主義が強い人々です。選民意識から来ます。それだからヘロデは、その業績にもかかわらずユダヤ人たちからあまり尊敬されていなかったようです。ユダヤ人にとってヘロデは「ユダヤ人の王と非ユダヤ人のローマ帝国から公認された非ユダヤ人男性」なのです。
ヘロデにとって権力こそ命です。自分の息子でさえユダヤ人の王にさせたくなかったのは二度と権力を他に渡したくなかったからです。自分以外の「ユダヤ人たちの王」の誕生は、彼をうろたえさせます(3節)。彼の側近たちもうろたえます。また誰か王子が殺されるかもしれないし、その時に巻き添えをくらうかもしれないからです。
博士たちはヘロデ大王の残虐性や権力維持のためならば肉親も殺していたという事実を知っていたのでしょうか。そうかもしれません。そうであれば、博士たちの言葉は非ユダヤ人・博士たちから、非ユダヤ人・ヘロデに向けた呼びかけなのかもしれません。「真のユダヤ人の王は、全世界の王の器である。わたしたち非ユダヤ人も礼拝することができる救い主である。イドマヤ人であれ、ナバテア人であれ、アラム人であれ、アラビア人であれ、ペルシャ人であれ関係ない。あなたも一緒に行って贈り物を捧げて、キリストを礼拝しよう。ユダヤ人の王という地位にしがみつくな。いらない鎧を振り捨てて、素のままで礼拝することに喜びがある」
しかしヘロデはこの招きを拒否します。いつものようにユダヤ人の王候補者を暗殺するように企みます。その意図をもって、ヘロデは「全ての祭司長たちと民の律法学者たちを集めた後、彼は彼らから聴き取り続けた。そのキリストはどこに生まれているのか」(4節)。場所を特定して殺すために、ヘロデは祭司長たち(サドカイ派)と律法学者たち(ファリサイ派)を集めます。ヘロデはイエスを「ユダヤ人の王」ではなく「キリスト(救い主)」と呼び変えています。博士たちの伝道的な呼びかけを理解はしています。自覚的にヘロデは喜びの招きを拒否し自ら喜びの無い道を選んでいるのです。
5 さて彼らは彼に言った。そのユダのベツレヘムにおいて。というのもそのようにその預言者を通して書かれていたからだ。 6 そしてあなたは、ベツレヘムよ、ユダの地よ、あなたはユダの統治者たちの中で最小のものではない。というのもあなたから統治者が出てくるであろうからだ。その結果彼がわたしの民イスラエルを牧するであろう。
預言者ミカのメシア預言
祭司長たちと律法学者たちはミカ書5章1節とサムエル記下5章2節を組み合わせて応えます。「キリストが生まれたのはベツレヘム。ダビデ王の生まれた町である。そしてキリストは羊飼いが羊を飼うように統治する。」ユダヤ教の分類では、サムエル記は「前の預言者たち」、ミカ書は「後の預言者たち」に属します。どちらも「預言者たち」なのです。それだから、二つの預言を繋ぎ合わせて、現代に当てはまることとして読むことができます。当時そのような解釈手法が流行していたとも言われます。
ところが彼らは、さらに自由でした。「あなたはユダの統治者たちの中で最小のものではない」という言葉は、現存するヘブル語聖書にもギリシャ語訳聖書にもありません。「ベツレヘムよ、あなたはユダの氏族のなかでいと小さい者」なのです。この祭司長たち律法学者たちは、「氏族」を「統治者」に読み替え(これは駄洒落的な読み替え)、「小さい」を「小さくない」に読み替えています。ここに彼らの民族主義、ダビデ崇拝を読み取ります。大きな建造物は無くてもベツレヘムは偉大な町、そこから民族のメシア、統治者たちの中の統治者が出現するという読みです。
ヘロデ王はヘブル語が苦手だったと思います。旧約聖書にも親しくなかったことでしょう。それに乗じて、彼らは、ひょっとするとギリシャ語を用いて「あなたはダビデのようなユダヤ人の王ではない」と日頃思っている批判をぶつけたのだと推測します。ここにも小さな方として生まれたキリストを喜べない人々がいます。この人々がイエスを十字架にかけて殺したのです。
むしろ預言者ミカが語る平和の主を素直に喜ぶべきでしょう。ベツレヘムがとても小さいから、そこにキリストは生まれたとミカは預言しています。その通りです。人間のいる場所ではない馬小屋の飼い葉桶に寝かされたイエスは、最も小さな方でした。そして社会で小さくされている人々と一緒に歩まれたのです。罪人の仲間、娼婦・徴税人の友と蔑まれ、ハンセン病の人に触り、悪霊祓いをし、小さな人々の側につきました。それは同時に大きな人々・幅を利かせている人々・大手を振って歩いている人々・権力を濫用する人々と対峙することでもありました。それが真の「ユダヤ人の王」世界のキリストです。
今日の小さな生き方の提案
クリスマスは分水嶺です。神が人となったこと、神の子が人の子として誕生したことをわたしたちは喜べるでしょうか、喜べないでしょうか。豊かな方が貧しい人々と同じく貧しく生き抜き、十字架の死に至るまでみすぼらしかったことを喜べるか、それとも喜べないか。とかくわたしたちは自分を大きく見せたがります。ヘロデ、祭司長、律法学者たちのようではなく、博士たちのようにあえて小さくなることができるでしょうか。小さな自分を認め、神の前に喜んで虚栄をはぎ取って、十字架に欲を磔にし、隣人を大きくし自分を小さくしていく生き方。この類の小ささを喜ぶ者となりたいものです。