はじめに
出エジプトを果たしたイスラエルの民は、民数記22章から「モアブの平野群」(1節)にいます。そして民数記の末尾を超えて、申命記の終わりに至るまでモアブの平野にいます(申命記34章8節)。新共同訳聖書のページ数にして88ページに及ぶ長さです。同じ場所に留まるページ数(物語を読む読者にとっての長さ)としては、シナイ山滞在中の律法授与に次ぐ二番目の長さになります(出エジプト記19章から民数記10章までの105ページ)。創世記から申命記は一冊の書物です。そして、ユダヤの民が捕囚の地バビロンで編纂した正典です。本日は、この信仰共同体が何を大切にして生きて来たのかについて頭の隅に置きながら、バラムの物語の冒頭を読んでいきたいと思います。
まずページ数という単純な事実から言えることがあります。それは、この信仰共同体にとって大切な地名が二つあったということです。シナイ山とモアブの平野です。どちらの場所においても、十戒を始めとする律法が授けられています(出エジプト記20章、申命記5章)。決して南ユダ王国の首都エルサレムではないことが重要です。また、バビロンやウル、ハラン、アラムというメソポタミア地方でもありません。そしてエジプト地方でもありません。文明の先進地域ではなく、約束の地の中でもなく、旅の途中・目的地の目前であるということも重要です。神はそこに現れ、神はそこで神の言葉を与えます。
五書の結論は未完です。約束の地に入れません。しかし、五書の結論は前を向いています。エジプトには戻りませんし、メソポタミアにも戻りません。過去と現在に興味はなく、すぐ手前に見えている未来、将来に興味があります。過去を懐古せず現在に安住せず、前方に全身を伸ばすことが大切です。
五書は民の求心力を保つための本です。毎週の安息日礼拝でどのシナゴーグも同じ個所を読むからです。しかし五書は、民が五書を基に「正統性」を振りかざそうとすると拒否します。民が約束の地に入ることは決してできないからです。信仰には固定的ストライクゾーンというものは存在しません。常に視線をずらすこと、ゾーンを広げることが大切です。神の言葉が与えられたのは、エルサレムではなくシナイ山でありモアブの平野だからです。非ユダヤ人たちの土地ガリラヤに視線をずらすこと、「ナザレから何の良き者が出ようか」と言われた場所でわたしたちは神の言葉を与えられます。
1 そしてイスラエルの息子たちは杭を抜いた。そして彼らは、エリコ(の近く)ヨルダンの向こうの方、モアブの平野群の中に宿営した。 2 そしてツィポルの息子バラクは、イスラエルがアモリ人たちにしたこと全てを見た。 3 そしてその民の面前でモアブは非常に恐れた。なぜなら彼が非常に多かったからだ。そしてイスラエルの息子たちの面前でモアブは怯えた。 4 そしてモアブはミディアンの長老たちに向かって言った。今、その会衆は我々を囲む全てをなめ尽くす。その野の草をその雄牛がなめることのように。そしてツィポルの息子バラクはその時モアブの王。 5 そして彼は使者たちをベオルの息子ビルアムに向かって送った。その川に接する、彼の民の息子たちの地ペトルへと、彼を呼ぶために。曰く、何と、民がエジプトより出て来た。何と、その地の泉を彼は覆った。そして彼はわたしの前方で座り続けている。 6 そして今、ぜひ貴男が行け。貴男はわたしのためにこの民を呪え。なぜなら彼はわたしより強いからだ。おそらくわたしは彼を撃つことができる。そしてわたしは彼をその地より追い出す。なぜなら貴男が祝福する者が祝福されつつあるということをわたしは知ったからだ。そして貴男が呪う者が呪われるということを(わたしは知ったからだ)。 7 そしてモアブの長老たちとミディアンの長老たちは行った。そして諸神託は彼らの手の中に。そして彼らはビルアムに向かって来た。そして彼らは彼に向かってバラクの諸言葉(を)語った。 8 そして彼は彼らに向かって言った。貴男らはここに今夜泊まれ。そうすればわたしは貴男らに、ヤハウェがわたしに向かって語る言葉(を)戻す。そしてモアブの高官たちはビルアムと共に座った。 9 そして神がビルアムに向かって来た。そして彼は言った。貴男と共なるこれらの男性たちは誰か。 10 そしてビルアムはその神に向かって言った。ツィポルの息子バラク、モアブの王がわたしに向かって送った。 11 何とその民がエジプトより出て来続けている。そして彼はその地の泉を覆った。今、貴男は行け。わたしのために彼を呪詛せよ。おそらくわたしは彼と戦うことができる。
バラクとバラムの物語
民数記22-24章は「バラクとバラム(ヘブル語「ビルアム」)の物語」です。ある種の魅力に富んでいますが(ロバが語り出す逸話)、この冗長で結論が曖昧な物語は全体として何を言いたいのでしょうか。なお、バラクとバラムの言い間違えや錯覚を避けるために、22-24章においてはバラムを原音表記の「ビルアム」と称することといたします。
「ツィポルの息子バラク、モアブの王」(2・4・10節)は、旧約聖書において何度か紹介されています。最も古い記事は、前8世紀のミカ書6章4-5節です(1455ページ)。ここには、出エジプトという救いの立役者である三名の姉弟一組の直後に、バラクとビルアムの一組が挙げられています。預言者ミカと同時代の人々は、バラクの依頼(5・6・11節)とビルアムの応答(13節等)を知っています。非常に有名な物語としてバラクとビルアムの物語は前8世紀時点で存在していたということです。そしてミカが持っていた言い伝えの「粗筋」は、バラクが「イスラエルを呪うように」と依頼したにもかかわらず、ビルアムは依頼内容に沿わない応答したというものでしょう。最古の伝承であるミカ書の内容は、民数記22-24章の内容に概ね合致します。この粗筋に従うならば、バラクは悪くビルアムは善いという役回りです。
初回にあたり本日は、この単純な筋立てに従い、ビルアムに倣う点とバラクを反面教師とする点を考えます。もちろん、ある程度バラクに同情すべき点もあります。直前の21章21-35節の出来事を全て見たバラクにとっては、イスラエルは恐怖の対象であることは当たり前です(3節)。イスラエルはアモリ人の町々を占領・植民し(三部族)、ガリラヤ湖の近くバシャンまで暴走しているからです。とは言え、本日は基本的に善悪明快な粗筋に従います。
バラクの課題
バラクがモアブ人、ロトの子孫、ルツの親戚であることははっきりしていますが、ビルアムは何人なのでしょうか。「ペトル」(5節)とはどこにあるのでしょう。新共同訳聖書は「アマウ人の町ペトル」としていますが、底本は私訳のとおり「その川に接する、彼の民の息子たちの地ペトル」です(アマウ人はアレッポ写本。サマリア五書は「アンモン人の地ペトル」)。「彼の民の息子たちの地」を申命記23章5節の「アラム・ナハライムのペトル」と採ります。巻末の聖書地図「1 聖書の古代世界」を参照してください。チグリス川とユーフラテス川の間の地域がアラム・ナハライム。ビルアムはメソポタミア地方の人であり、アラム人、リベカの親戚です(創世記24章10節)。ペトルという町がユーフラテス川沿いにあったことは考古学的にも立証されえます。
モアブから見て随分と遠いので、サマリア五書が「アンモン人」と変更したかったことは理解できます。しかし、この遠さが鍵です。バラクの愚かさが際立つからです。遠方のビルアムに呪いを頼む時間があれば、それ以外の即効性のある解決を選ぶべきではないでしょうか。
同様のことは「ミディアンの長老たち」(4・7節)を巻き込むことにも当てはまります。先ほどの聖書地図で言えばミディアンもモアブからかなり離れた地方です。しかもこちらはアラム・ナハライムの逆方向の南側に位置しており、イスラエルを脅威と考える近さにはありません。「共通の敵」(4節)とみなすのは言い過ぎです。物語はバラクの見当違いを批判しています。
このように考えていくと、占い行為そのものも批判されているのかもしれません。「諸神託は彼らの手の中に」(7節)とあるように、バラクの使者たちは最初から結論を持っていました。まじないや占いにおいては、占ってほしい人に言われたい答えがすでにあります。今回の場合はより露骨に、「呪い」という内容が指定されています。占いと神の言葉は異なります。神の言葉は、予期せぬ意外な指示/励まし/慰めに満ちているからです。
預言者ビルアム
バラクはビルアムを最大限褒めています。ビルアムが祝福する者は祝福され、ビルアムが呪う者は呪われるというのです(6節)。当時の社会において実際に「ビルアムの言葉の的中」が起こっていたのでしょう。なぜかと言えば、ビルアムがヤハウェ神を信じていたからです。アブラハムの弟「ナホルの神」としてなのでしょうか(創世記31章53節)。ともかくビルアムはヤハウェの言葉を預かって伝言する預言者です(8節)。神ご自身がビルアムに現れ、ビルアムは神と直接話すことができます。神は毎晩その日の出来事について彼に問い、彼は答えます(9節)。神はビルアムの正直さや誠実さを確認し、彼の出来事への解釈(拡大や縮小した再現も含む)を喜びます。
バラクの使者たちが訪れた晩の神との定期的対話で、ビルアムはバラクの特定の言葉を省いています。5-6節と11節を比べると、例の「ビルアムが祝福する者は祝福されビルアムが呪う者は呪われる」が削除されていることが分かります。この賛辞を削った理由は明確です。すなわちビルアムは「自分の言葉が世界に実現した」などと考えていないのです。預言者の持つ事実は、「ヤハウェが祝福する者は祝福され、ヤハウェが呪う者は呪われる」というものです。ビルアムは伝言をしているのに過ぎないからです。だからビルアムは占い師ではなくヤハウェの預言者です。
今日の小さな生き方の提案
占いを斥け聖書の言葉に頼ることは信仰生活の基本です。もう少し掘り下げて考えると、自分の聞きたい言葉(占いと同種)を聞こうとしないで、むしろ批判の言葉(預言と同種)にこそ耳を傾けるべきでしょう。SNSの一つの弱点は読みたい言葉ばかりが手元に集まることです。生身の人間関係でも同じです。結論を自分が常に持っているならば、わたしたちの得るものは現状への安住か、過去への懐古だけです。未来は自己満足の中に無いものです。神という他者、隣人という他者が鍵を握っています。未来というものは、意外な相手の意外な異見を喜ぶところに開かれます。ゾーンをずらしましょう。ビルアムとヤハウェが毎晩対話を楽しんだことが聖書を読むことや祈ることの模範です。