はじめに
今回の物語はマタイとルカに収められています。その点では、ヨハネの説教も同じです(3章7-12節)。マタイとルカはそれぞれの作業机の上に、マルコ福音書と「共通の言い伝え(Q資料などと呼ばれます)」を広げて、それぞれの福音書を編纂しています。この共通伝承の訴えたい内容には筋があります。イエスに従う道の厳しさを教えるという筋です。たとえば「あなたの敵を愛せ」などの言葉も共通伝承の中にあります(マタイ5章44節//ルカ6章27節。マルコに無し)。マタイとルカはこの筋を受け容れてそれぞれの福音書に組み込みました。
マタイは「その時」という言葉を四回使って内容を整理しています。わたしたちもその区分を尊重します。そしてマタイとルカでは、二番目の誘惑と三番目の誘惑の順序が逆です。マタイの順番を尊重します。
1 その時そのイエスは、霊によってその悪魔によって誘惑されるために、荒野の中へと連れて行かれた。 2 そして四十の日と四十の夜を断食した後、その後に彼は飢えた。 3 そしてその誘惑する者が向かって来た後、彼は彼に言った。もしもあなたがその神の息子であるならば、これらの石がパンと成るようにと、あなたは言え。 4 さて男性は応えた後、彼は言った。それは書かれたままである。パンにのみ基づいてではなく、むしろ神の口を通して出て行く全ての言述に基づいて、その人間は生きるだろう。
【第一の誘惑】
バプテスマを受けた直後の「その時」(1節)、イエスは荒野の中へと連れて行かれます。誰が連れて行ったのかと言うと、「霊」と「その悪魔」です。唯一神教において悪魔の存在は微妙です。神的存在としても、被造物としても説明が難しいのです。ここは「その悪魔」を、イエスの内心の声と解します。悪魔とは内側から「このような生き方が魅力的ではないか」と「誘惑する者」(3節)のことです。言い換えれば、イエスは荒野で一人になったということです。そして四十日間の断食をし、ただ一人で神に祈っていたのです(2節)。旧約聖書の時代から、荒野は神と出会うことができる場所です。荒野には誰もいません。イエスに倣い一対一の神との向き合いをしたいと思います。特に新しい何かを始める時に、わたしたちは神と向き合い、心の声と葛藤しなくてはいけません。
「もしもあなたがその神の息子であるならば」(3・6節)は、バプテスマとの関係で理解できます。バプテスマとは自分が神の子であることが公表される場面です。「あなたはわたしの愛する子である」という声が公にされた後であっても、誘惑する者は存在します。イエスでさえそうです。ましてやわたしたちにおいてはなおのことです。パンを第一にする生き方の方が魅力的に見えることがあります。確かにパン無しでは生きることはできません。しかし、それだけで生きる、それを至上のものとして生きることで良いのでしょうか。自分のためにため込む生き方が批判されています。俗物となって自らの品位を落としてはいけません。
「それは書かれたままである」(4節。申命記8章3節の引用)と少し奇妙な翻訳を付けました。現在完了時制だからです。旧約聖書に書かれた過去の行為の効果は現在にまで有効です。それが現在完了時制という表現です。お金が全て、パンが全てという「経済至上主義という偶像」に打ち勝つためには、聖書の言葉が必要です。聖書が今も生きて働く神の言葉だからです。
5 その時その悪魔はその聖なる都市の中へと彼を傍らに取る。そして彼は彼をその神殿の翼のようなものの上に立たせた。 6 そして彼は彼に言う。もしもあなたがその神の息子であるならば、あなたはあなた自身を下に投げよ。というのも以下のことが書かれたままだからだ。彼の天使たちに彼はあなたについて命じるだろう。そして諸々の手に基づいて彼らはあなたを上げるだろう。決してあなたがあなたの足を石に向かってぶつけないように。 7 そのイエスは彼に言い続けた。再び、それは書かれたままである。あなたは主、あなたの神を試みないだろう。 8 再び、その悪魔は非常に高い山の中へと彼を傍らに取る。そして彼は彼に、その世界の全ての王国と彼らの栄光とを、見せる。 9 そして彼は彼に言った。これらの諸事物全てをあなたにわたしは与えるだろう。もしも倒れた後あなたがわたしに拝礼するであろうならば。
【第二の誘惑】
「もしもあなたがその神の息子であるならば」(6節)を繰り返すことで、第一の誘惑と第二の誘惑は密接に関連付けられ、連続しています。それは、イエスも悪魔も同じ聖書を用いるということです。「以下のことが書かれたままだ」(6節)と、詩編91編11-12節をイエスと同じ現在完了時制で悪魔も引用できます。明らかに悪魔は、イエスが申命記をもって反論したことを逆手に取っているのです。この聖句も有効だろうというわけです。
悪魔は自暴自棄の勧めをしています。最も高いところから自分自身を投げ捨てよというのです。しかもそれは「聖なる都市」の「神殿」という、宗教的高みです(5節)。非常に印象的・象徴的情景です。信仰生活においては思い切った行動が武勇伝となるので、神を信じてすべてを棄てよというのです。「信徒の捨て鉢な行動すらも神は見捨てないはずだ。もしも信徒が神の子であるならば。」パンのみの経済至上主義の誘惑とは異なります。自分のためにため込むのではなく、神のためにすべて捨てよという教えに聞こえるからです。ここにはカルト宗教の課題が透けて見えます。日常生活(=パン)すらも棄てよというのです。これが第二の誘惑です。
それに対してイエスはどのような応答をしているでしょうか。驚くべきことに、イエスは「再び」(7節)旧約聖書を引用して反論します。「あなたは主、あなたの神を試みないだろう」(申命記6章16節)。イエスは聖書に対して聖書をぶつけました。どちらが優るのでしょうか。神の言葉として書かれたままであることは同等です。そうであれば個別の状況に対する個別の適用の優劣が問題になります。「この状況ならばこの聖句を選んで人生の指針を得る」という論理と倫理と判断が重要です。つまり聖書には何が書いてあるのかと同時に、あなたは・それを・今・ここで・どう読むのかが重要です。自暴自棄の行動の動機が、神を試験することにあるならば、その人間は神を自分よりも下に置いています。神を信じているようで、それは神を信じていません。人生をだめにするような聖書の読み方は良くないのです。
【第三の誘惑】
イエスの「再び」(7節)の聖書引用に呼応して、悪魔は「再び」(8節)さらに高い場所へと引き上げます。「石」(3・6節)を共通単語にして第一の誘惑と第二の誘惑は連結され、高いところ(5・8節)を共通概念にして第二の誘惑と第三の誘惑は連結されています。そして平野から山地へと上昇し、荒野の風景から全世界を見渡す風景に変わります。ここで悪魔は「もしも神の子であるならば」という条件文を止めます。よりむき出しな表現で、もしも自分を礼拝するのならば全ての事物を支配させてあげようと言うのです(9節)。端的に言えば所有欲であり支配欲です。これが第三の誘惑です。
支配欲は罪というものの代表だと思います。高みからものを言う行為、相手を自分の思い通りに動かそうとする行為、それらの根底には相手を自分のものだと思い込む傲慢があります。第三の誘惑は最も悪質であり、根源的な悪と言えるでしょう。聖書は、神話的な表現で人間のうちにある深刻な葛藤を描き出しています。人を自分の前で土下座させ拝礼させようとする人は、実は自分自身サタンの前で土下座し拝礼している人なのだという図です。人は多く赦されれば多く赦します。人は多く抑圧されれば、隣人を多く抑圧します。支配されたがる者は支配したがるものです。戸口に待ち伏せしている罪に飲み込まれてはいけません。どうすれば悪から救い出されるのでしょうか。
10 その時そのイエスは彼に言う。あなたは退け。サタンよ。というのもそれは書かれたままだからだ。あなたは主、あなたの神に拝礼するだろう。そして彼にのみあなたは礼拝するだろう。 11 その時その悪魔は彼を許した。そしてあなたは見よ。天使たちが向かって来た。彼らは彼に奉仕し続けた。
【誘惑に打ち勝つ】
イエスは最後まで聖書を引用しています(申命記6章13節)。むき出しの支配欲に打ち勝つために必要なことは、やはり聖書です。しかもイエスが引用しているのはすべて申命記、モーセ五書の最後の書であり、「旧約聖書の中心」「聖書の中の憲法」とまで呼ばれる書です。イエスはこの点で保守的なのです。このような基本に忠実な姿勢は、わたしたちに「聖書のみ」というプロテスタントの基本の大切さを教えています。引用聖句の内容も保守的です。「あなたは主、あなたの神に拝礼するだろう。そして彼にのみあなたは礼拝するだろう」(10節)。礼拝のみです。一人で神に祈り、状況の中で聖書を読み、会衆と共に礼拝をする、正に「その時」わたしたちは誘惑に打ち勝つことができます。内心の誘惑はずっとありながらも、誘惑する者は退きわたしたちをそのままにします(11節)。イエスがそのことを示しています。
今日の小さな生き方の提案
結局聖書に尽きると思います。「・・・だろう」(4・7・10節)と未来時制を直訳しました。ギリシャ語だけではなくヘブル語に遡ってもそのように訳すことができる表現です。神はわたしたちの未来に期待しています。神は高みに立って上から下へと信徒に命令しているのではありません。聖書を読み葛藤しながらも真摯に生活にあてはめる時に、わたしたちが生き方を整えるだろう、神を試みることをしないだろう、自暴自棄にもならないだろう、礼拝するだろう、それをもって支配欲に打ち勝つだろうということを、神は期待しています。わたしたち一人一人が神の子であり神の似姿であることを公表する神は、同時にわたしたちが常に誘惑に遭っていることを知っている神です。どのようにして世俗の嵐の中で、品位を保って生き抜いていくことができるのかを、イエスは教えています。聖書に何が書いてあるのか、今・ここで・あなたはどう読むのか、このことを信実に行いたいと思います。そして共に祈りましょう。「わたしたちを誘惑に遭わせないで悪から救い出してください。」