三回目の言葉 民数記23章27節-24章11節 2025年3月30日礼拝説教

はじめに

モアブの王バラクはアラム人預言者ビルアムに、イスラエルを呪うように依頼をしましたが、二回にわたってビルアムはイスラエルを呪いません。本日はその続き、三回目です。

 

27 そしてバラクはビルアムに向かって言った。貴男は行け。ぜひとも私は貴男を別の場所に向かって取りたい。おそらくそれはその神〔エロヒーム〕の両目において真っ直ぐだ。そして貴男は私のためにそこから彼を呪詛するのだ。 28 そしてバラクはビルアムを取った。その荒廃地の口について見渡されるペオルの頂(に)。 29 そしてビルアムはバラクに言った。貴男は私のためにこの(場)において七つの祭壇を築け。そして貴男は私のためにこの(場)において七頭の雄牛と七頭の雄羊(を)据えよ。 30 そしてバラクはビルアムが言った通りに行った。そして彼は雄牛と雄羊をその祭壇において上げた。

 

【場所の変更】

二回目の祝福がなされたピスガの頂は「約束の地」カナンの全体を見渡す場所でした。しかしそこからはイスラエルの民全体を見ることはできません。そこでバラクは別の山「ペオルの頂」(28節)にビルアムを連れて行きます。その山からは、イスラエルの民の全体が部族ごとに宿営している様子を見ることができたのだと思います(24章2節参照)。全体の民を見ながらの「呪詛」(27節)の方がより効果的だとバラクは思いつきました。

ビルアムは特段の異論を挟まず、いつものように雌ロバに乗ったり、逆に雌ロバから下りて連れて行ったりしながら、ペオル山を登ります。いつものように「七つの祭壇」(29節)をバラクに築かせて、バラクと共に犠牲祭儀を行うのです(30節)。

 

1 そしてビルアムは、ヤハウェの両目においてイスラエルを祝福することが良いということを見た。そして彼は(前)回のように(今)回においては、諸々の占いに会うために行かなかった。彼はその荒野に向かって彼の顔を置いた。 2 そしてビルアムは彼の両目を上げた。そして彼は彼の部族に応じて宿っているイスラエルを見た。そして神〔エロヒーム〕の霊が彼の上に生じた。

 

【いつもと異なること】

 いつものように事が進むかと思っていると、いつもと異なることが起こります。三回目においては、ビルアムの意思と判断が強くなっています。「ビルアムは、ヤハウェの両目においてイスラエルを祝福することが良いということを見た」(1節)。ビルアムは、ある種「神目線」になっています。天地創造の時に神は繰り返し「それが良いということを見た」のでした(創世記1章4節他)。被造物が良いということを見た「その神〔エロヒーム〕の両目」(23章27節)・「ヤハウェの両目」(1節)と、ビルアム「彼の両目」(2節)が重なり合っています。ビルアムはこの物語において人間理解を深めています。他人を祝福の対象として見る、これが天地創造の神に倣う態度です。

ビルアムはいつものように一対一でヤハウェに出会うということを、この三回目で省きます(1節。23章4・16節参照)。先ほどの人間理解も神に直接教えられたのではありません。自分で認識し、自力で見たのです。三回目の預言は、神に直接会って話し合って教えられた内容ではありません。そうではなく、「〔エロヒーム〕の霊が彼の上に生じた」(2節)、つまり彼の心に直接神が働きかけて、語るべき言葉を語らせたのです。この「〔エロヒーム〕の霊」は、天地創造の際に混沌の「水の面」を動いていました(創世記1章2節)。もやもやとした心に働きかけ新しい考えや言葉、特に相手を祝福する言葉を創り出す聖霊です。

 

 3 そして彼は彼の箴言を持ち上げた。そして彼は言った。ベオルの息子そしてビルアムの託宣。その両目が開いている強者の託宣。 4 神〔エル〕の諸々の言葉を聞いている託宣。彼はシャダイの幻(を)予見するのだが。倒れながら、また両目を開けられながら。 5 貴男の諸々の天幕はいかに良いか、ヤコブ(よ)。貴男の諸々の宿営(は)、イスラエル(よ)。 6 諸々の渓谷のように彼らは伸ばされた。河に接した諸々の庭のように。諸々の香木のようにヤハウェは植えた。諸々の水に接する杉のように。 7 彼は諸々の水(を)彼の一対の桶から注いだ。そして彼の種は多くの諸々の水の中に。そして彼が彼の王アガグよりも高くなれ。そして彼の王国は自身を持ち上げる。 8 神〔エル〕は彼をエジプトから出させ続けている。彼に属する野牛の諸々の角のように。彼は諸国・彼の敵らを食べる。そして彼らの諸々の骨を彼はかじる。そして彼の諸々の矢(で)彼は打ち砕く。 9 彼は伏した。彼は寝た。雄獅子のようにまた雌獅子のように。誰が彼を起こすか。貴男を祝福し続けている者が祝福され続けている。そして貴男を呪い続けている者が呪われ続けている。 

【託宣】

一回目と二回目も「箴言」(3節)という言葉(ヘブル語「マシャル」。新共同訳「託宣」)が、預言という意味合いで使われ続けていました(23章7・18節)。三回目もいつものように見えます。しかし、三回目にはいつもと異なり「託宣」(3・4節)という言葉(ヘブル語「ネウム」。新共同訳「言葉」)が繰り返し使われています。この転換を見過ごしてはいけません。ネウムは、少数の例外を除き基本的に預言者の語る預言を指す専門用語です。ここには預言者ビルアムの本気度が示されています。

シャダイ」(4節)は神の呼称/称号の一つです。ギリシャ語訳以来「全能者」と翻訳することが多い単語ですが(新共同訳も)、意味は詳らかではありません。語源は「野」か「乳房」でしょう。ともかくビルアムの託宣において、エロヒームもエルもヤハウェもシャダイも、同じ神を意味しています。ヤハウェ・エロヒームは「主なる神」と翻訳されたり、エル・シャダイは「全能の神」と翻訳されたりします。神の呼称の多様性は、土着化の歴史を表す足跡です。イスラエルは旅をしながら、その土地の神に出会い、「エジプトから出させ続けている」(8節)ヤハウェに神の呼称を含めていき、同じ神としていきます。「エル・エルヨーン」(至高の神)、「エル・ロイ」(見る神)なども同じような現象です。

(ヤコブ)の王アガグ」はアマレク人の王として、サムエル記上15章に登場します。アマレク人の王家の人名なのでしょう。民数記においてはアマレク人は一度イスラエルを撃退しています(14章46節)。ビルアムはアマレクとイスラエルの上下・立場の逆転を預言していると理解します。イスラエルは「自身を持ち上げ」、誰にも支配されない自治を確立するのです。

ビルアムはペオルの頂から全部族を見渡し、想像の翼を広げ、語彙力を駆使してイスラエルを譬えていきます。イスラエルの民は、上から鳥観して見るならば渓谷のように広がっています。大河チグリス、ユーフラテスのほとりに点在する緑豊かな庭園のようでもあります。神は貴重な水を大量に使って、種から大樹に至るまでイスラエルを育てます。普段は獅子のように悠然と伏していますが、起こされたとたんに敵を食らい尽くします。イスラエルの宿営に何もしない方が良いでしょう。もしもイスラエルを呪おうものなら、呪われるからです。だからイスラエルを祝福する方が良いのです。

貴男を祝福し続けている者が祝福され続けている。そして貴男を呪い続けている者が呪われ続けている。」(9節)は、完全に創世記12章3節と27章29節を引用しています。原文はすべて現在進行形です。祝福と呪いは、すべて反射して同時に起こります。相手を尊重する行為は同時に相手によって自分が尊重されることです。なぜなら神が常にすべての被造物を祝福しているからです。相手を見下す行為は、その行為の反射として、自分の価値を落としているのです。なぜなら神は自らの作品である被造物を決して呪わないからです(23章8節)。正の連鎖と負の連鎖の法則は、人間関係にそのまま当てはまります。褒めて育てることは教育の基本です。

さらに、「祝福する」(ヘブル語「バラク」)は、人間から神へも用いられます。その場合「賛美する」と翻訳することができます。わたしたちが讃美歌を歌う時に、同時に神はわたしたちを祝福し続けています。これは教会の礼拝で起こる「正の連鎖」であり「生の連鎖」です。賛美をすることで同時に私たちは生きる力を得るからです。

 

10 そしてバラクの鼻がビルアムに向かって熱くなった。そして彼は彼の両掌を打ち鳴らした。そしてバラクはビルアムに言った。私の敵を呪詛するために私は貴男を呼んだ。そして何と、貴男は祝福し祝福した。これが三回。 11 そして今貴男は貴男のために貴男の場所に向かって逃げよ。私は言った。貴男を私は重んじ重んじる。そして何とヤハウェは栄光より貴男を止めた。

 

【バラクの怒り】

バラクに負の連鎖が起こっています。隣人を呪う者は同時に呪われ、見下される行為に導かれます。それが適正でない怒りです。鼻を真っ赤にさせ、掌を合わせ叩いて大きな音を立て、多分、バラクは怒鳴り上げています。言っている内容は脅しです。「今貴男は貴男のために貴男の場所に向かって逃げよ」(11節)は、立ち去らないならば殺すという脅迫でしょう。このような言動が最も批判されるべきです。どんなに怒っていても、外に出すときには適正な仕方で表現しなくてはいけません。

 

【今日の小さな生き方の提案】

ビルアムがいつものように神と出会う祈りをしなかったこと、自らの責任で決めた「託宣」(神の意思を伝える言葉)を堂々と発したことに注目したいと思います。もちろん神と一対一で祈ることは大事なことです。ただしかし誰のせいにもせずに、自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の手で触ったことを基に、「これが良い」と選ぶことも尊いことです。わたしたちは何が神の意思であるのかを、詳細には分からないまま生きているからです。成熟した人間は、神と共に・神の前で・神無しで、自分の言動に責任を負うものです。その言動こそ神の意思を伝えるものなのでしょう。本日の箇所から、神の意思であると確信できる行動も示されています。祝福し続けるという行動です。神を賛美し、隣人を尊重する行為です。正の連鎖を起こしましょう。