先週、聖書はさまざまな付け加えによって雪だるま式に大きくなった本であることを申し上げました。今日の聖句は大半がもともとの著者の書いたものではなく、その後の時代の付け加えです。44-45節、51-59節が付け加え部分と言われます。大半が付け加えという段落に出くわして、やはり付け加えという現象についてまとまった説明が必要だと思います。
一つはなぜ後の人は付け加えたくなるのかということです。もう一つのことは付け加わった部分は価値が劣るのかということです。ヨハネ福音書の場合、付け加えの原因は著者のもつ急進性に対する反動です。著者はパウロという指導者が率いたキリスト教主流派内部の儀式に対して批判的です。たとえば最後の晩餐が主の晩餐と結びついていないのはヨハネだけです(13章以下)。また、著者は終末論に対して批判的です。著者の時代、今にもイエスが来臨するということを熱望する「熱狂的(将来)終末論」が盛んでした。パウロの主導する世の終わりについての教えには一つの課題があります。それは熱狂主義です。将に来らんとする近い未来の天変地異に浮かれて、または煽られて、現在の生活がおろそかになることを批判し、著者はあえて世の終わりの教えを無視します。キリスト教も決して一枚岩ではありません。パウロの弟子たちの信じる熱狂的終末論にヨハネ福音書の著者は一線を引きます。そして、「今・ここで・永遠のいのちを生きる」ということに主眼を置きます。霊となっているイエスを内に宿して生きるなら、将来の終末はあってもなくてもよいということになります(現在終末論)。また霊的一致ということを重視することから、旧約聖書を引用することも少なくなります。ヨハネ福音書(特にもともとの著者)は旧約聖書を引用することが比較的少ない福音書です。書かれた本によって根拠付けるのではなく、霊であるイエスに直接出会って、神の子であると信じることが求められているからです。
著者の弟子たち、または論敵たちは、このような急進的な教え・内部批判に耐えられなかったのです。付け加えることによって、ある種の調和を図ろうとしたのでしょう。今日の箇所で、世の終わりのことが語られていること(44節・54節)や、旧約聖書が引用されていることや(45節)、イエスの血と肉のことが主の晩餐という儀式を肯定するために語られていること(53節以下)は、そのような調和を図ろうとした付け加えです。
わたしたちは21世紀の読者です。現在あるかたちの聖書やヨハネ福音書を一つの本として読んでいます。その際には、付け加え部分は価値が劣るという姿勢はありえません。むしろ、あえて付け加えた信者たちの考えも尊重すべきです。世の終わりという教えにも意義があります。主の晩餐という儀式にも意義があります。旧約聖書と関係付けて読むことにも意義があります。それによって、現在のわたしたちの生き方やいのちのためになるのなら、もともとの著者の趣旨にも適うでしょう。「今・ここで・永遠のいのちを生きる」ということにつながるように、世の終わりや主の晩餐や旧約聖書を解釈していけば良いのです。ばらばらに分析した後に全体をまとめるべく綜合する、ひと繋がりの物語として読む、この調整的考え方が聖書の読み方に必要です。
59節によるとイエス一行はカファルナウムという町の会堂にいます(24節も参照)。41節以下の問答は、当時のユダヤ教の礼拝の最中に起こったと考えられます。会堂での礼拝は、朗読された聖書(「律法」と「預言者」の部分)と、その解釈の披露が中心でした(ルカ4:16-30参照)。会堂に来た礼拝出席者たちは、その日の朗読箇所だったかもしれない出エジプト記16章のマナの記事をめぐって議論をしていたのでしょう(52節)。イエスはおそらく、カファルナウムに住んでいる「王の役人」の家族という弟子たちと(4:46以下)、また自分の母親や兄弟も含め次々と増えてきた弟子たちと一緒に会堂の礼拝に出席しています(2:12)。サマリア人の弟子もいたかもしれません。その会堂での礼拝の場で持論である、<モーセからユダヤ人の先祖がマナという食べ物をもらった>ということと、<神からイエスを信じる者がイエス自身という食べ物をもらった>こととは似ていると解釈したのでしょう。
カファルナウムの人々は、ナザレ出身のイエスのことをよく知っていました。父親ヨセフの名前をあげていますし、その場には母親マリアもいたことでしょう。イエスが両親の子どもであって、決して神の子=「天から降って来たパン」(41節)ではありえないと反発しました。
それに対してイエスは、自分は十字架と復活の神の子であると主張し、そのことは主の晩餐をすることによって納得され体得されるのだと言います。イエスの血を飲み、イエスの肉を食べることとは、晩餐で配られるパンを食べ、ぶどう酒を飲むことです。どんな人も礼拝と礼拝の中の必須要素である主の晩餐を体験することで永遠のいのちを生きることができるのだと言うのです。唯一の犠牲であるイエスの死を、再び来られる時まで記念することが教会の仕事です。地上の貧困や飢餓はイエスが来る世の終わりまで続くでしょう。その時まで少しでも誰をも食い物にしない生き方を実践するために、わたしたちは欠かさず主の晩餐をするべきなのです。
イエスの肉を食べながら誰をも食い物にしない生き方をすること、今日はその具体例を一つ紹介いたします。わたしの知人Aさんの話です。かつて軍医としてフィリピンに行き、米軍の捕虜となり、B級戦犯となり死刑判決を受け巣鴨プリズンに入れられ、恩赦によって釈放されたという経験を持つ方でした。Aさんは、わたしに「キリスト教は人肉食を肯定するのか」ということを繰り返し問われていました。わたしは「そういう悪口を初代教会は浴びせられていましたが、主の晩餐は儀式であって実際の人肉食ではありません」と答えていました。なぜそのことにこだわるのか理由はよくわかりませんでした。
ある日、二人きりの時にAさんが「牧師さん、何も言わずにわたしに『罪を赦す』と宣言してくれ」と言いました。わたしは自分がカトリックの神父でもないので、いささかひるみましたが、真剣な面持ちだったのでAさんの気迫に押されて、「あなたの罪を赦します」とわけも分からず宣言しました。するとAさんはほっとしたようなお顔になりました。
しばらくした後、Aさんのご自宅に呼ばれてお話を伺う機会がありました。実はB級戦犯になった理由は、自分たちの部隊が戦争で(厳密には戦争が終わった後のこと)飢えのあまり現地の人を虐殺し、その肉を食べたという戦争犯罪にあったのだと告白されました。そして裁判では人肉食について否認し続けたけれども、実際に自分にも肉が渡され食べたことがあること、そのことを話すのはわたしにだけであることを告白されたのです。
捕虜になってから裁判のあいだ中、何度も自死を考えたけれどもできなかったこと、そのような中で聖書を読み獄中キリスト者になったこと、恩赦とキリストの贖いと赦しが重なったことを述べられました。戦争後、せめてもの罪滅ぼしにと思い、フィリピンの無医村に無償のボランティアで医療支援を続けてきたけれども、やっぱり真実を隠し続けて生きていることが辛いというのです。Aさんは心の病も得ていました。「牧師さんに一言、『赦す』と言われて、本当に気持ちが軽くなった」と言われ、こちらも嬉しくなりました。
こうしてもやもやがなくなりました。晩餐と人肉食の関係、なぜ赦しの宣言を欲していたのか、理解できました。それと同時に、彼にとって主の晩餐という儀式が非常に具体的に現実味のあるものであって決して抽象的な儀式ではないということが分かりました。そしてこの儀式には力があること、現実の日常生活の生き方を償いの歩みにするということを教わりました。世の終わりまで続く不公正に対して、世の終わりまで着実に自分の出来る範囲で不公正の是正に取り組む実践が、償いの歩みです。
彼はパンとぶどう酒を取るたびに、自分の食べてしまった人のいのちを思い出していたのです。それはキリストを喰らう行為です。日本がフィリピンを食い物にして侵略したように、その一兵卒としてその場の最も小さな一人の住民を食い物にした、これがイエスを十字架につけた人間の罪です。このことを罪として刻むことが晩餐です。
しかし同じキリストが「あなたの罪は赦された」と言って聖霊の息を吹きかけてくださり(20:22)、復活の朝の食卓を用意してくださったのです(21章)。こうしていのちのパンを食べる者に、誠実な謝罪と賠償をする新しい歩みが始まります。少しでも踏みつけにすることを止める生き方、誰も犠牲にしないように努力する生き方が始まります。いまだに貧困があり、医者がいない村があるフィリピンに、無償で医療行為をするという償いの人生が始まります。与えられたパンを、隣人に分かち合うという生き方の始まりです。
世の終わりにはパンはすべての人に振舞われ、この世の不公正が正されすべての者は満腹します。それを熱狂的に熱望するというよりも、静かに待ちながら自分のできることを着実にすることが大切なことです。なぜかと言えば、世の終わりは自分が食い物にしてきた隣人との再会の場面でもあるからです。その人たちも復活させられ、祝宴に列席するのです。その時、本当に誠実な謝罪と賠償を行ってきたか、復活させられた隣人との出会いにおいて、裁判官であり弁護士でもあるイエス・キリストを前にして問われます。
終わりの日に、おそらくAさんの医療行為に感謝する多くのフィリピンの人が、彼をかばうことでしょう。「この人のしでかした重罪を赦してくれ」と言うことでしょう。主の晩餐はそのような切実な希望を確かなものにするために必要な礼拝の必須要素である礼典儀式です。
Aさんは数年前に亡くなりました。もし今会うことができれば、「主の晩餐で教会は『人肉食』をしていると、あえて言い切って良いのではないでしょうか」と彼に言うと思います。それがAさんの人生に対するわたしの応答です。主の晩餐でわたしたちは「天からやってきたいのちのパン」「この世のいのちとなるための、わたしのこの生身」(51節。本田訳)を食べ、イエスの血を飲んでいます。それによりわたしたちは誰かを犠牲にする生き方をいまだに続けていることを覚えます。そして同時にそれにより自分の生身を誰かのために用いる決意を得ます。いのちのパンにより満腹をいただき、誰かにパンを分かち合う生き方へと押し出されていきます。イエスの生身に食らいついた者は、イエスの生き方が自分の血となり肉となるものなのです。イエスの利他的な生き方に食らいついて従っていくものなのです。
世の中は利己的な考えによって成り立っています。人の欲が経済を動かし、経済的理由で政策が決まります。そこにいのちがあるのかと問われています。51節の直訳は「世のいのちのためのわたしの肉」です。キリストは招いています。「わたしの肉を喰らえ、分かち合え。ただし喰らうのはわたしの肉だけにとどめよ。そして世界で最も小さくされた人をわたしだと思って誠実に謝罪し賠償をせよ。その生き方にいのちがある。世界はそのような少数者のために生きる。」Aさんをヒントに小さな歩みを起こしたいと願います。着実にしかし世の終わりまで、自分にできる利他的な行いをしていきましょう。