既に心の中で マタイによる福音書5章27-32節 2025年7月27日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は「反対命題」シリーズの二つ目と三つ目です。27節は「第七戒」と呼び慣わされている旧約聖書の言葉です。「貴男は姦淫してはならない/姦淫しない」(出20章14節//申5章18節。私訳)。イエスの第七戒についての再解釈を「第二反対命題」と呼びます(28節)。この「第二反対命題」にマタイ教会は別の伝承を付け加えます。それが29-30節です。片目・片手を棄ててしまえという急進的な教えは、マルコ福音書9章43-47節の部分引用です(「片足を棄ててしまえ」を省略しています)。31節は申命記24章1節の離縁についての法律を取り上げています。32節は一応「第三反対命題」に数えられていますが、申命記24章1節に対して何の「反対」もしていません。これもまたマルコ福音書10章11-12節の引用です。マタイ教会はこの言葉を「第三反対命題」に仕立てていますが、元来は別の文脈にあった言葉です(ルカ福音書16章18節とその文脈も参照)。以上の事情から、本日は2節ずつ三分割でお話をいたします。

 

27 あなたたちは、昔の人たちに以下のことが述べられたということを聞いた。あなたは姦淫しないだろう。 28 さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う。彼女を欲するために女性を見る者は誰でも、既に彼女を彼の心の中で姦淫したということを。 

 

【第七戒と第十戒】

十戒と呼ばれる「十の言葉」は出エジプト記20章と申命記5章に記されています。二つの版は微妙に内容が異なっています。①ヤハウェと他神を並べない、②偶像を拝まない、③ヤハウェの名前を挙げない、④安息日を覚えること/守ること、⑤父母を重んずること、⑥殺さない、⑦姦淫しない、⑧盗まない、⑨偽証しない、隣人の家を欲さない/隣人の妻と家とを欲さないとあり、「/」で示している通り④と⑩の相違が二つの版で大きいのです。

申命記版の「⑩隣人の妻を欲さない」は「⑦姦淫しない」と意味が重なります。そして十戒のうち⑩だけが、人間の心の内を問題にしています。イエスは「あなたは姦淫しないだろう」(27節)という第七戒と、「あなたは隣人の妻を欲さない」という第十戒と関連付けて考えています。心の中で女性を欲することは、姦淫する行為と同じであるという趣旨の言葉だからです。イエスは第七戒と申命記版第十戒を統合しているのです。この反対命題は、反対というよりも統合や拡張と言うべきでしょう。

古代のこと女性の人権は保障されず、男性は女性を自分の「モノ」として実際に所有していました。姦淫するという言葉は、男性から女性への行為でしかありません。ヘブル語原典においても、「貴男は姦淫しない」とはっきりと男性の主語をたてています。女性が男性を性的対象として見ること、女性が男性を所有することは旧新約聖書においてまったく想定されていません。男性以外にいないかのような男性中心の考え方は批判されるべきです。

しかしこの種の男性中心主義は現代にも当てはまるので、古代人をあながち笑えないようにも思えます。たとえば男性が「見る性」、女性が「見られる性」である点です。今でも女性は男性によって品定めされています。今でも女性の貧困は残り、賃金格差は埋まっていません。今でも意思決定機関における男女格差はひどいものです。イエスは性欲の制約を命じているのではなく、固定化された支配者の持つ、搾取・収奪・支配しようとする支配欲の禁止を命じていると理解します。それが第七戒と第十戒の統合からくる再解釈です。

 

29 さてもしあなたの右の目があなたを躓かせているのなら、あなたはそれをえぐり出せ。そしてあなたはあなたから投げよ。というのも、あなたの諸肢体のうちの一つが滅びても、あなたの体の全てがゲヘナの中へと投げられないということが、あなたにとってより良いからだ。 30 そしてもしあなたの右の手があなたを躓かせているのなら、あなたはそれを切り落とせ。そしてあなたはあなたから投げよ。というのも、あなたの諸肢体のうちの一つが滅びても、あなたの体の全てがゲヘナの中へと立ち去らないということが、あなたにとってより良いからだ。

 

【極端な言葉】

「見る」ことから「目」が連想され、さらに「目」が擬人化され、マルコ福音書の表現に似せて目が人を躓かせる主体であるかのように言われます。「右の目があなたを躓かせているのなら」(29節)と。しかし、このように目や手のせいにすることは、第七戒と第十戒の統合解釈に反します。心の中の支配欲こそが罪を犯す原動力であり、支配欲こそ罪そのものなのですから、「目」や「手」の問題ではないからです。

マタイ教会が切り貼りした、大元であるマルコ福音書9章42節は、小さい者を躓かせた者を批判する文脈です。世界で肩身が狭くさせられ、生きづらくさせられている人を、さらに困らせる行為は厳に戒めるべきです。マタイ教会の文脈においては、小さくさせられている者は女性たちです。「性の商品」とされたり、意思決定機関から締め出されたりしている人々です。

「目」や「手」は風刺のきいた修辞です。本質的には心の中の支配欲・差別と、小さくされている者をさらに苦しめる行為が深刻な問題であることを伝えるために、あえて極端で、あり得ない事態をイエスは語ります。皮肉や風刺は人々の記憶に残るからです。イエスらしい言葉です。

ゲヘナ」(29・30節)は「地獄」(新共同訳)と同義語で使われています。ヘブル語「ヒノムの谷」のギリシャ語訳が語源です(列王記下23章10節、エレミヤ7章31節)。かつてそこで人身供犠が行われ、息子や娘を犠牲に捧げるという礼拝が行われていたようです。イエスの厳しい裁きの言葉は、性暴力について厳罰が必要であるということを示唆しています。

マタイの文脈において、29-30節は女性差別を厳に戒めるために機能を果たしています。日本には差別禁止法がありません。たとえば外国人差別発言(「排外主義」などという言葉はまやかしです)をしても、公に罰する根拠法がありません。女性差別にしてもそうです。イエスの極端な風刺は、急進的・根本的(radical)にわたしたちの社会のありようを批判しています。

 

31 さて彼の妻を離縁する者は離縁状を彼女に与えよと述べられた。 32 さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う。淫行の理以外に彼の妻を離縁する者は誰でも、彼女を姦淫の対象としている。そしてもし離縁された女性と結婚する者は不倫をしている。

 

【離縁について】

第三反対命題は、「淫行の理以外に」(32節)という付け加えによって、旧約聖書の言葉と全く同じ趣旨になっています。申命記24章においても「淫行」(何か恥ずべきこと)を理由とする離婚は合法とされており、理由のない離婚だけが非合法だからです。イエスの元来の言葉には「淫行の理以外に」という条件はありません(マルコ福音書10章11節)。そして、元来の言葉は男性からの離婚だけではなく、女性側からの離婚が対等に記されています(同12節)。32節も、男性からの離婚だけではなく、女性側からの離婚も含めて考えるべきでしょう。イエスは、男性からの離婚も、女性からの離婚も良くないと言っています。男女平等の観点です。つまりこれは平等に離縁を制約しながら、離婚経験者との再婚をも批判する言葉です。

キリスト教の歴史の中で、イエスの言葉は「離婚」と「結婚」の宗教的な意義づけをもたらしました。宗教的な意味で離婚が厳しく禁じられ極度に格下げされることは、その裏返しとして結婚の極度の格上げをもたらしました。結婚は神の祝福の結果であり、叙階された司祭(≒按手礼を受けた牧師)による、普遍的公同の教会における「正しい結婚式」は宗教的な救いの必須条件とされました。実に、バプテスマ、主の晩餐等に並ぶ「秘跡」(サクラメント)の一つとなったのです。その際の前提は男女異性婚です。

離婚(・結婚)をめぐるイエスの言葉は21世紀に生きるわたしたちに何の意味があるのでしょうか。バプテスト教会に連なるわたしたちは秘跡という考え方を否定しているので、結婚を神聖視するべきではありません。人は結婚してもしなくても個人として神の似姿です。

離婚はどのように考えるべきでしょうか。たとえば、夫からの暴力(DV)に悩む女性の離婚は、一律に禁じられるべきでしょうか。中南米などカトリック圏において、離婚したくても宗教的な理由でできないで苦境に留まらざるをえない女性が多いという現象があります。苦しむ女性たちを、キリスト教教理によってさらに苦しめることは良いことではないでしょう。離婚した方が結婚を続けるよりも良い場合もあるはずです。

わたしたちの生き方の基準は、イエス・キリストの言葉と行動にあります。そのキリストの言葉(教会の教え)に問題を感じた時、どのようにすべきでしょうか。イエスの行動によってキリストの言葉を捉え直すべきです。マルコのイエスが離婚や離婚経験者の再婚を禁じた時に、おそらく具体的な出来事があったはずです。何度も不当な離婚を強要され貧困に追いやられた女性、離婚経験者を悪意で結婚制度の外に置いて保護しようとしない男性。女性を追い詰める社会にあって、イエスは酷い男性たちを厳しく批判し、苦しむ女性たちを庇いました。イエスは愛を旨として行動していました。だから、もし今DVで苦しむ妻を目の前にしたならば、イエスは離婚と避難を勧め、本人が望めば再婚も是認することでしょう。言葉は行動で批判され、行動は言葉で批判され、両者は鍛え合う関係です。聖書(神の言葉)がわたしたちを躓かせるならば、わたしたちはイエスの行動(神の子の振る舞い)に立ち帰るべきです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

心の中まで問う倫理をイエスは十戒の第十戒を起点にして打ち立てました。それは支配欲が罪であるということを示しています。性という観点からも、誰も誰かの上に立ってはいけません。結婚においてもそうです。わたしたちはしばしば性の領域において隣人に失礼なことを言うことがあります。何らかの優越感がないか、心の中が問われています。結局隣人を個人として尊重しているか否かが問われています。心の中で貶めていても最低限心の中で留めるべきです。そして心の中までを問う主に悔い改めましょう。目や手や口に罪はありません。心にもないことを発言する人・行う人はいないからです。