【はじめに】
本日の箇所は「反対命題」シリーズの四つ目。レビ記19章12節、民数記30章3節、申命記23章22節などに書かれている言葉に関する再解釈です。これらの三か所の法律条文を大まかにまとめると、「神に誓った言葉はその通り実行すべきだ」という趣旨です。神の前で有言実行であることは、悪いことではないように思えます。しかしナザレのイエスは急進的に切り込んでいきます。そもそも誓うという行為そのものに問題があるというのです。
第四反対命題の原型(イエスが最初に語った言葉と推測できるもの)に、ヤコブ書5章12節があるということは学者の間の定説です。そこにも、一切の誓いが否定され、天においても地においても誓うことが禁止され、自分の言葉に責任を持つことが勧められています。「はい」と自分が言ったら「はい」という内容を自ら行い、「いいえ」と自分が言ったら「いいえ」という内容を自ら行うこと、有言実行です。それを神の名を用いないで行うことが重要です。神の前でならば有言実行ができるということは、裏返すと神の前でないならば言ったことを守らなくて良いということになりかねません。イエスはこの類の偽善に対して厳しい方です。だから一切の誓いは不要です。
33 再び、あなたたちは、昔の人たちに以下のことが述べられたということを聞いた。あなたは偽り誓わないだろう。さて、あなたはあなたの諸々の誓いをその主に返還するだろう。
【誓いの返還】
古代人は神への誓いを神への債務と考えていたようです。神は誓った人に誓いを果たすことを請求する権利を持ち、誓った人は神に対して誓いを実行する義務を負うという関係です。そういうわけで、「あなたはあなたの諸々の誓いをその主に返還する」という不思議な表現が生まれます。神の前で誓ったことを行なわないことは、神に対して借金を返済しないことと同じです。この考え方が人々に重くのしかかります。
旧約聖書の昔、エフタという士師が愚かな誓いをしてしまいました。彼は軍事指導者でした。敵に勝つことを祈願して、願掛けの誓いもしたのです。「もしも神が勝たせてくれたならば、自宅に帰宅した際に最初に出迎えた人を神への犠牲として捧げる」という誓いです。エフタの率いる軍隊は勝利し凱旋しました。そして彼の最愛の娘が真っ先にエフタを出迎えたのでした。現代人のわたしたちの常識に則って考えると、自らの立てた誓いを破棄しても良さそうです。娘に人権、生きる権利・幸福を追求する権利があるからです。しかしエフタはそう考えません。神に誓いを返さなければならないからです。
34 さてわたし、わたしこそはあなたたちに言う。あなたたちは全て誓うな、その天においても――なぜならそれは神の王座であるからだ――、 35 その地においても――なぜならそれは彼の脚台であるからだ――、エルサレムの中へと――なぜならそれはその偉大な王の都市であるからだ――。
【全て誓うな】
ヤコブ書5章12節と比べると、マタイ教会が付け加えた部分が分かります。それは「――なぜなら・・・だからだ――」という理由付けと、「エルサレムの中へと・・・」という三つ目の要素です。「偉大な王」(35節)は人間のことを指すのではなく、神のことを意味するでしょう。そうであれば、「天」「地」「エルサレム(神殿)」はすべて神がいる場を意味します。結局何にかけて誓っても、神に誓っていることと同じです。だから、誓いという行為全部をするべきではないという教えこそ、イエスが元々言いたかったことでしょう。ヤコブ書が言う通りです。そもそも誓うな、と。ヤコブ書の著者は伝説によればナザレのイエスの実弟「主の兄弟ヤコブ」です。この書の著者はナザレのイエスの急進性を自らの言葉にして語ることができる思想家です。
ところがマタイ教会は、すべて神への誓いだから、何にかけたとしてもその誓いを誠実に果たしなさい(神の前での有言実行)という方向に持って行きたいようです。本日の箇所ではこの方向性は曖昧ですが、23章16-22節を読むと、マタイのイエスは神殿の中の何物(祭壇、黄金、供え物)にかけても誓いは有効、神殿にかける誓いも、天にかける誓いも有効と断言しています。
マタイ教会の持って行きたい方向を察知するわたしたち読者は、ここでマタイの立場かヤコブの立場か、どちらかを選択しなくてはいけません。わたしの勧めは、ヤコブの立場です。一切神に誓わない方が良い。なぜなら誓いが一種の取引のようになって、神を試みるかもしれないからです。誓約をきっちり返還し「債務の弁済」をした信徒が、「神は誠実な信徒の意思に応える方であるべき」という奇妙な「債権」を振りかざす誘惑に直面します。神が自動販売機に成り下がる可能性があります。誓いは自分の自由を縛る行為であるだけではなく、神の自由を縛ろうとする行為です。
36 あなたの頭においても、あなたは誓うべきではない。なぜならあなたはあなたの一本の毛を白くすることができないからだ、あるいは黒く(することも)。
【自らの髪の毛さえ自由にできない人間と創造主】
人間は自分の髪の毛すら自由にできない存在です。自分の意思で白くすることや、白くなった髪を黒くすることもできません。それに対して神はわたしたちの髪の毛の本数すら全て数え上げることができる方です(10章30節)。なぜなら神がわたしたちの生命を創造した方だからです。この方の許可が無ければわたしたちの髪の毛は一本も落ちることはないのです。
それだから神の前に誓うことは不遜でさえあります。わたしたちの「必ず行います」という誓いは、時に履行不能となったり、不完全な履行となったりするからです。それに対してわたしたちが面と向かっている方は、何でも必ず行うことができる神です。
ここには圧倒的な非対称・不釣り合いがあります。陶工と器、創造主と被造物、大いなる方とちっぽけなわたしという関係です。わたしたちはこの神の前で、誓いなどを口にすべきではなく、「罪人のわたしを許してください。わたしの債務を帳消しにしてください」と祈ることしかできません。そして、大いなる神への誓い・大言壮語ではなく、ちっぽけな者同士の誠実な言葉の使い合いこそが求められます。
さて、もう一つ戦争や軍隊に関わる事柄において、「あなたたちは全て誓うな」(34節)、「あなたは誓うべきではない」(36節)という言葉は心に刻まれるべき聖句です。エフタの誓いも戦争に関わるものでした。「聖戦思想」というものはムスリムだけのものではなく、さまざまな時代、さまざまな国や地域において見いだされるものです。戦争は、為政者や国家に対する忠誠の宣誓を住民に強要することで推進されます。古代ローマ帝国はキリスト教を迫害しました。その一つの大きな理由はキリスト信徒が、本日の箇所やヤコブ書5章12節を根拠にして、ローマ皇帝への忠誠を誓うことを拒否したからです。ローマの軍隊に組み込まれるためには、ローマ皇帝や帝国のために忠誠を誓い、それらのために殉じる覚悟を公表する必要がありました。剣を取る者は全て剣で滅びるという言葉も念頭にあったと思います(26章52節)。キリスト者たちは誓いを拒否し剣を拒否し兵役を拒否し、その結果迫害されます。
エホバの証人が同じ根拠で兵役を拒否していることは有名です。現代においても世界中に良心的兵役拒否を行う人々は信仰の有無を問わず存在します。この季節わたしたちは自らの歩みを振り返るべきでしょう。八十年前までわたしたちは愚かな誓いを自ら立て、してはいけない悪を行い、できもしない野望のために邁進していました。天皇や大日本帝国に忠誠を誓うことが、わたしたちの内心や、国の内外に何をもたらしたでしょうか。非日本人への差別、「非国民」(政府に協力しない人)への差別、侵略戦争による大量殺害と収奪によって2000万人以上の人が死にました。神ならぬものを神のように崇めて誓うことは、政府の行為による戦争に協力してしまうことにつながります。それならば誰にも何も誓わない方がましです。
37 さてあなたたちの言葉は、然り・然り、否・否であれ。さて、これら以上の事はその悪からのものである。
【然りと否】
ラビ文献によるとユダヤ教において二度言うことは誓いの実行意思を強めたそうです。マタイ教会は「然り然り」「否否」と単純に繰り返し、しっかりと誓いなさいという方向を打ち出しています。一方、ヤコブ書は「然りは然り」「否は否」と主語述語の関係を立てて本来の趣旨を保存しています。私訳は両者の間を埋めるために「・」を使いました。ヤコブ書(イエス)は神を持ち出さずに、自分の言葉に責任を持つ社会をつくろうという積極的な勧めをしています。弱い人間だから約束一つ守れないこともあります。しかしお互いさまのことだから、それらの欠けは補い合えば良いのです。常に次があります。
問題は内面の意識。「然りは然り」「否は否」と言い切るしなやかな強さです。心の内をイエスはいつも問うています。自分の意思で「はい、行います。自分の人生を選びます」と言った人は、爽やかにやり遂げます。やり遂げなかったとしても自分の選びなので後悔が少ないでしょう。誰かから押し付けられて「はい、行ないます(でも本当は、いいえと言えなかっただけ)」と言った人はやり遂げなければ他人または神のせいにし、やり遂げても後悔して無責任なかたちで放り投げることすらあるでしょう。誓いは不要です。小さな人間同士の小さな自分の意思が交わされれば、気持ちの良い社会が形成されます。
【今日の小さな生き方の提案】
神に誓うことと、神を信じることとの違いは何でしょうか。神に誓うことは不確実な自分の行為を過信することです。神を信じることは確実な方の誠実さに信頼することです。神に誓うことは救いようのない状況を内外にもたらします。神を信じることは自分への救いをもたらし、隣人との誠実な信頼関係をもたらします。神に誓うことは不要であり時に有害です。神を信じることはわたしたち一人ひとりに必要不可欠のものであり、平和を希求する社会に今こそ求められています。隣人同士の有言実行を神が導くことを信じましょう。