【はじめに】
ツェロフハドの五人の娘たちは父の死後女性でありながら「父の家」を継承し、約束の地において土地を相続することが認められました。それではモーセが死んだ後には何が起こるのでしょうか。モーセは指導者であり、レビ部族のケハト氏族出身者です。彼にはミディアン人の妻ツィポラと、クシュ人の妻がいます。ツィポラとの間には、ゲルショムとエリエゼルという二人の息子がいます(出エジプト記18章、民数記12章・26章57節以下)。
モーセの三歳上の兄「アロン」(13節)の家は、代々「その祭司」職を継承することが約束され、アロンの死後彼の息子「エルアザル」(19節)が地位を継承しています。レビ部族の土地は「逃れの町」と呼ばれる48か所に点在することとなります(36章)。祭司アロンの子孫たちにはユダ・シメオン・ベニヤミンの3部族の土地のうち13か所に住むことが認められています(ヨシュア記21章)。その一方で、モーセの子孫にどの町が割り当てられたかは不明です(同20-26節。「その他のケハトの子らの諸氏族」)。
一方、ミディアン人ツィポラの兄ホバブの一族は、イスラエルと共に約束の地に入り、遊牧民として転々と移動しながら生きています(カイン人/ケニ人)。元々羊飼いであるツィポラと二人の息子は、ホバブたちと共にカイン人/ケニ人として生きること、すなわち土地を持たない生き方を選んだと推測できます。つまり、レビ部族に許される居住地も拒否をし、指導者の地位についても継承しない、モーセを長とする「父の家」ではなく、ツィポラ/ホバブを長とする集団を構成することを選んだのです。
12 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。貴男はそのアバリム山に向かってこれ(を)登れ。そして貴男は、わたしがイスラエルの息子たちに与えたその地を見よ。 13 そして貴男は彼女〔地〕を見るのだ。そして貴男は貴男の民に向かって集められるのだ。貴男もまた、貴男の兄弟アロンが集められたのと同様に。 14 貴男らがわたしの口(と)ツィンの荒野で争ったのと同様に。その会衆の争い〔メリバト〕において、わたしを聖める〔キッダシュ〕ために、その水々でもって、彼らの眼に。それらがツィンの荒野のメリバト・カデシュの水々。
【ヤハウェの言葉】
この個所は、申命記31章48-52節とほぼ同じ内容です。単語レベルでほぼ一致しています。姉ミリアムが「カデシュ」(14節)で死んだ直後、モーセと兄アロンは自分たちの力で水を湧き出させ、民に与えるという罪を犯しました。「メリバ〔争い〕の水〔複数〕事件」です。この傲慢の罪の結果、アロンとモーセの兄弟は、約束の地に入ることができないという罰を、ヤハウェ神から与えられます。神の裁きに基づいて兄アロンはホル山で死にました。弟モーセと息子エルアザルが彼の死を看取ります(20章)。モーセが山で死ぬことは、アロンと「同様に」(13・14節)ふるまったので、同様の結末を迎えるという意味を持ちます。もしもミリアムが生きていれば、二人の弟たちの罪/罰は防げたのかもしれません。モーセとアロンは連帯しています。
両者の死の場面には相違点もあります。モーセが後継者を連れずに独りで死ぬことと、モーセが山頂から「約束の地」を見たことです(12節)。イスラエルの指導者は世襲ではいけないという原理原則がここにはっきりと示されています。世襲に頼る王制・祭司制と異なる「預言者の伝統」です。士師たちのように、その都度ヤハウェの霊が降る者が、イスラエルの指導者になるべきなのです。なぜならばイスラエルにとってヤハウェだけが王であるからです。教会のあり方にとって示唆的です。自治を持つバプテスト各個教会にとって一つの家系の「世襲牧師」は良くないのです。
モーセに対する約束の地を見ることの許可は、モーセに対する裁きを緩和させています。神は裁きながら赦す赦し主(弁護士に似る)であり、赦しながら裁く裁き主(裁判官に似る)です。わたしたちの人生にとって示唆的です。ひどい不幸に遭遇した時、絶望の淵に叩き落された時、その時でもなおわたしたちは何かを見ることが許されています。希望の一条の光であったり、かすんで見えるかなたの約束であったりするかもしれません。人生は多くの苦労の中でなお小さな希望の種を見出し、泣きながら喜ぶことに譬えられます。
15 そしてモーセはヤハウェに向かって語った。曰く、 16 全ての肉に属する、その諸々の霊の神ヤハウェが、その会衆の上の男性を指名するように。 17 ――その彼が彼らの面前に出て来るのだが。そしてその彼が彼らの面前に来るのだが。そしてその彼が彼らを導き出すのだが。そしてその彼が彼らを携えるのだが――。そしてヤハウェの会衆が、彼らのための羊飼いがいない羊のようにならないように。
【モーセの応答】
モーセはヤハウェの意思を知り、アロンと同じく山で死ぬこと、しかしアロンと異なり独りで死ぬことを受け入れます。クシュ人の妻と「重婚」することで妻ツィポラに対して犯した不義理や、それを姉ミリアムに批判されたことや、ツィポラ・ゲルショム・エリエゼルに棄てられたこと、兄アロンとの比較などが、彼の頭の中で巡ります。「ツェロフハドとは異なり、自分を継ごうという肉親の後継者はいない。自分で選んだ道だ。わたしは裸で母ヨケベドの胎から生まれた。何も持たず何も誰にも与えず独りで死のう。」
覚悟を決めた後でも忸怩たる思いがあります。モーセの心残りは、この後のイスラエルの民の行く末です。ミリアム、アロン、そして自分が死んだ後、指導者は不要なのか。自分の子孫でなくても「羊飼い」(17節)は必要なのではないか。この問い返しはバプテスト教会にとって重要です。教会員が「会衆」の中で平等であったとしても、なお職分としての「牧師(羊飼いの意)」は必要なのではないかという問いと似ているからです。
17節前半は関係代名詞が連続しており、それらは主たる文ではありません。「――・・・・・――」で囲んでいる部分は、16節の「男性」をすべて形容しています。構造上16節が主たる文として重要です。
「全ての肉に属する、その諸々の霊の神ヤハウェが、その会衆の上の男性を指名するように」(16節)というモーセの応答は、「男性」とする点で批判されるべきです。しかしモーセが人選に関与しないという点で優れています。「ヤハウェが…指名する」こと、これが決定的に重要です。辞める人が後継者を任じるという仕組みは、世襲と似た効果を持ちます。辞める人はそのまま影響力を後任の人にも、「会衆」にも及ぼすことができるからです。
モーセは「親分子分の関係」をつくらないという点で優れた指導者です。全ての人がヤハウェの霊を内側に宿す状態を、モーセは期待していました(11章29節)。誰が「霊」を宿しているかをご存じの方が、ふさわしい指導者を任じるべきです。
18 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。貴男は貴男のためにヌンの息子ヨシュアを取れ。霊が彼の中に(ある)男性(を)。そして貴男は貴男の片手を彼の上に押しつけよ。 19 そして貴男はその祭司エルアザルの面前に、またその会衆全ての面前に、彼を立たせよ。そして貴男は彼らの眼のために彼に命ぜよ。 20 そして貴男は彼の上に貴男の威光から分け与えよ。イスラエルの息子たちの会衆の全てが聞くために。 21 そしてその祭司エルアザルの面前で彼は立つ。そして彼は彼にヤハウェの面前でその諸々のウリムの公正〔ミシュパート〕において尋ねる。彼の口に基づいて彼らは出て行く。そして彼の口に基づいて彼らは来る。彼とイスラエルの息子たちの全てとその会衆の全ては彼と一緒に。 22 そしてモーセはヤハウェが彼に命じたのと同様に行なった。そして彼はヨシュアを取った。そしてその祭司エルアザルの面前に、またその会衆の全ての面前に、彼は彼を立たせた。 23 そして彼は彼の両手を彼の上に押しつけた。そして彼は彼に命じた。ヤハウェが語ったのと同様にモーセの手で。
【ヤハウェの応答とモーセの実行】
ヤハウェはモーセの要望通り、「霊が彼の中に(ある)男性」(18節)・「ヌンの息子ヨシュア」を選びました。ヨシュアはエフライム部族出身。モーセの従者でもあり、約束の地を四十日間探求した人物でもあります。彼は旧世代のうちたった二人しかいない「生き残り(Survivors)」です。ヤハウェの神は次世代の新しい人物を選任しません。無難な人事と言えます。
あの五人の若い女性たちが立った同じ場所に、ヨシュアは立たされます。「その祭司エルアザルの面前に、またその会衆全ての面前に」(2・19・22節)立つヨシュアの上に、モーセの手が押しつけられます。ヤハウェは「片手を」と命じたところ(18節)、モーセは両手をヨシュアに押しつけます(23節)。いわゆる「按手礼」の根拠聖句の一つですが、かしこまった儀式ではありません。また授按牧師から受按牧師への祈りもありません。モーセに命じられていることは、モーセの「威光」〔ホード〕の一部をヨシュアに分与することです(20節)。全部ではないことが大切です。どんなに忠実な弟子でも別人格です。一部しか継承できないヨシュアは、モーセのようにではなく、彼らしく指導者の任にあたるしかないのです。
また「威光」〔ホード〕は辞書の見出し順によれば、①王、②神、③イスラエル、④軍馬のもつものです。荒野のイスラエルに王はいません。神だけが王です。イスラエルの威光は神にのみ保証され、その神は軍馬を葦の海に投げ込む救い主です。一部を分与された威光すら神に帰すこと、それが真の羊飼いヤハウェをいただくイスラエルの指導者にふさわしい態度です。そのような羊飼い指導者は、常に民と一緒に歩く人です(21節)。
【今日の小さな生き方の提案】
「自分がいなくなる後、この組織はどうなるのだろう」と問うことはあまり意味がないことなのかもしれません。問うだけではなく、あれこれと働きかけて後任人事まで関与するとなると、もはや有害です。その組織に長くいればいるほど、わたしたちは誘惑に遭いやすいと思います。「威光」を振りかざし、「威光」を握り続けようとする誘惑です。後ろではなく前を見ることが必要です。モーセは悔い多い人生だったでしょう。しかし前を向き、上を見上げて山を登り、眼下の約束の地を眺望し、神の恵みと裁きを引き受けます。モーセの中に個人として自立した魂を見ます。バプテストの目標です。