安息日の捧げ物 民数記28章1-15節 2025年8月31日礼拝説教

【はじめに】

28-29章に差し込まれた、捧げ物についての長い規程が、物語を中断しています。この規程の挿入の意義は、「乳と蜜の流れる地に入った後には豊かな定住生活に変わるので、多くの農産物から神への捧げ物がなされるべきということを予め示す」というものだと考えられます。直前の27章末尾で、あの探求の旅(14章)に出て豊かな土地について報告したヨシュアが新指導者に任命されています。「さあ、いよいよ入ろう」という、わくわく感のための規程です。28-29章を貫く鍵語は「七」です(七週、七月)。本日の箇所においては、七日ごとの「安息日」(9・10節)に「七」が潜んでいます。ユダヤ教の安息日は、キリスト教の主の日(日曜日)の原型です。その重要な意義を含め、礼拝やキリストの贖いについて思いを馳せましょう。

 

1 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 2 貴男はイスラエルの息子たちに命ぜよ。そして貴男は彼らに向かって言え。わたしの捧げ物、わたしのパンをわたしの憩いの香りの火祭によって、わたしにその祭日において捧げることを貴男らは守るように。 3 そして貴男は彼らに言え。これは、貴男らがヤハウェに捧げる火祭。二匹の完全な年の息子たち(である)羊たち(を)、その日に応じて日毎の煙の上る捧げ物(のために)。 4 一匹の羊を貴男はその朝になす。そしてその第二の羊をその二つの夕の間に貴男はなす。 5 四分の一ヒンの圧搾された油でこねられた十分の一エファの小麦粉(を)、穀物の捧げ物のために。 6 シナイ山でなされ続けている日毎の煙の上る捧げ物を、主のための火祭の憩いの香りのために。 7 そしてそれの注ぐ捧げ物、その一匹の羊に応じて四分の一ヒン(を)、その聖所において貴男は注げ。ヤハウェのための飲み物の注ぐ捧げ物(を)。 8 そしてその第二の羊をその二つの夕の間に貴男はなす。その朝の穀物の捧げ物のように、また、それの注ぐ捧げ物のように、貴男は主のための憩いの香りの火祭をなす。

 

【日ごとの捧げ物】

火で燃やす捧げ物は、ヤハウェ神にとって「わたしのパン」(2節)です。ヤハウェは「煙の上る捧げ物」(6節)によっておいしい食べ物の香りを嗅いで、肉とパンを食べ、葡萄酒を飲むと考えられていたのです。その飲食によって神は憩うのです(2・6・8節)。神の憩いに捧げ物の趣旨があります。

年の息子たち」(3節)は、「一歳」と理解されています。「当歳」という訳もあります。「完全な」(3節)は「傷の無い」という翻訳もある通り、「健常」であることを意味します。健常で若い男性の動物には人間を代理する資格(完全性)がある考えられたので、その将来を人間のために犠牲にしていたのです。徴兵と似た思想、性差別・障碍者差別にも注意が必要です。

」(4・6節)であれ、11節以降の雄牛・雄羊・雄山羊であれ、犠牲獣たちは一定の所作を経て殺され燃やされました。最初に奉納者が動物の頭に手を置きます。この「按手」は動物が死ぬべき人間の身代わりになることを意味します。「贖い」、原義は「(罪を)覆うこと」です。その後奉納者は動物の皮を剥ぎ体を分割して祭司に渡します。祭司は祭壇の上で血を注ぎ、動物の一部を燃やし、捧げ物の趣旨に従って全てを燃やし尽くすか、祭司の取り分を残すか、奉納者の取り分までも残すかを決めます(レビ記1-7章)。「煙の上る捧げ物」(6節)については全てを焼き尽くします。

当時の度量衡については巻末に一覧表があります。1エファは約23ℓ、1ヒンは約3.8ℓですから、「十分の一エファ」(5節)は約2.3ℓ、「四分の一ヒン」(5・7節)は約1ℓとなります。一匹の羊あたり3ℓの油と小麦粉が「穀物の捧げ物」(5節)として捧げられています。これがヤハウェのパンです。その穀物の捧げ物に添えて、「ヤハウェのための飲み物の注ぐ捧げ物」(7節)が1ℓ捧げられます。「葡萄酒」(14節)です。パンと葡萄酒、ここに主の晩餐の原型があります。

二つの夕の間」(4・8節)は同じ夕日の暮れ始めと日没との間と考えます。たとえば午後4時から6時までの時間帯でしょうか。日が明けたら「一匹の羊」(4節)を、日が落ちるまでに「第二の羊」(4・8節)を捧げなさいという意味でしょう。祭司は毎日、民全体のために二匹の羊を殺し、葡萄酒を添えて灌ぎかけ、パンの材料もろとも焼き尽くし、民全体の罪を贖います。十字架の上に上げられた神の子イエスは、この犠牲の羊と重ね合っています。それを記念する儀式が主の晩餐です。晩餐の机は、血まみれの犠牲獣の横たわる祭壇なのです。

 

9 そしてその安息の日、完全な年の息子たち(である)羊たち。十分の二(エファ)の、その油でこねられた小麦粉(の)穀物の捧げ物とそれの注ぐ捧げ物。 10 その安息(日)における安息(日)の煙の上る捧げ物。その日毎の煙の上る捧げ物と、それの注ぐ捧げ物

 

【週ごとの捧げ物】

金曜日の日没から土曜日の日没までが「安息の日」(9節)、「安息(日)」(10節)です。その趣旨は「神の憩い」(1・6・13節)にあります。創世記の冒頭を読むと、六日間の天地創造という労働を終えた神が七日目に休んだという記述があります(創世記2章2-3節)。神の安息・休み・憩いが、安息日の起源です。だから安息日の礼拝においてわたしたちは神を休ませなくてはいけません。「穀物の捧げ物」の量は「十分の二(エファ)」と、平常の倍に増えています(9節)。それだけではありません。安息日にも毎日の捧げ物も行うので、合計日毎の捧げ物の三倍がなされます(10節)。この累積ルールはこの後の毎月月初の捧げ物にも当てはまり、この後の全ての祭りにも当てはまります。

安息日は神を休ませると同時に、礼拝者も休ませます。神にごちそうを振舞うことで、ある種の疲れは出るのですが、しかしそれに勝る喜びが与えられ、その喜び・達成感が礼拝者の憩い・安息・休みとなるのです。パーティー好きの人には共感できる真理ではないでしょうか。安息日にはその他の労働が禁じられます(レビ記23章)。ヘブル語の「安息」(シャバト)という言葉の原義は、「中止すること」「止めること」です。その他一切の言動を中止させられ、ただ神を礼拝することだけが許されるのです。この研ぎ澄まされた時間感覚の中で、わたしたちが祈りを捧げ、賛美といういけにえを捧げ、主の晩餐という儀式を捧げ(イエスが犠牲となったことを記念する儀式ですが)、神に栄光を帰す時に、わたしたちの魂は安息を得ます。

特にバプテスト教会の礼拝においては会衆賛美が肝です。わたしたちの賛美が寝床のようになって神はそこに憩い、そこに寝そべります。これはイメージです。十字架で虐殺されたイエスの遺体を、礼拝の中でわたしたちはあの中風の人の友人四人のように、寝床の四隅を持って担ぎ上げ、彼の復活を賛美しているのではないでしょうか。会衆賛美には力があります。天の窓が開いて、そこへと十字架のイエスを寝かせた寝床が上っていく、会衆賛美といういけにえを推進力にして主の晩餐台が天に届くというイメージを持ちます。

この時、神の憩い、神の子の憩い、わたしたちの憩いが実現するように思います。みなで「アーメン」と歌い終える時は、復活の「主の日」が「安息の日」となる瞬間です。神の右の座に、わたしたちの救い主がおられます。

 

11 貴男らの月々の頭において、貴男らはヤハウェのために煙の上る捧げ物を捧げる。雄牛たち、二匹の家畜の息子たちと一匹の雄羊、完全な七匹の年の息子たち。 12 そして十分の三(エファ)の、その油でこねられた小麦粉(の)穀物の捧げ物を、その一匹の雄牛のために。そして十分の二(エファ)の、その油でこねられた小麦粉(の)穀物の捧げ物が、その一匹の雄羊のために。 13 そして十分の一、十分の一(エファ)の、その油でこねられた小麦粉(の)穀物の捧げ物がその一匹の羊のために。ヤハウェのための火祭の憩いの香りの煙の上る捧げ物。 14 そしてそれらの注ぐ捧げ物は半ヒンとなる。その一匹の雄牛のために。そして三分の一ヒン、その雄羊のために。そして四分の一ヒン、羊のために。葡萄酒(で)。これがその新月における新月の煙の上る捧げ物。その年の諸々の年のために。 15 そして一匹の、雌山羊たちの雄山羊がヤハウェのための罪祭に。その日毎の煙の上る捧げ物の上にそれはなされる。そしてそれの注ぐ捧げ物(も)。

 

【月ごとの捧げ物】

月々の頭」(11節)は「新月」(14節)の日です。太陰暦を用いているからです。新月祭の起源は謎です。犠牲獣の多様さと数の多さから古くから盛大に祝われていたことが伺えます(サムエル記上20章18・24節、イザヤ1章13節、ホセア5章7節)。しかし、安息日に押され、次第に廃れたようです。廃れた理由は、神学の欠如にあると思います。「神の憩い」という強いメッセージが安息日の強みです。太陽暦も太陰暦も関係のない七日ごとという周期は、日も月も神に仕えている存在だということを教えます。もう一つの廃れた理由は累積ルールが過重・負担だったからでしょう。

新月祭については深掘りする必要がないのですが、興味深い一節だけを紹介します。「一匹の、雌山羊たちの雄山羊がヤハウェのための罪祭に」(15節)。特に「雌山羊たちの」をほとんどの現代訳は無視しています。意味が分からないからでしょう。メシア預言と捉えてはどうでしょうか。現代のキリスト者たちは、この聖句を根拠にキリストがどのような贖い主かを語って良いと思います。ナザレのイエスは、多くの女性たちの中から生まれ、召し出された犠牲の雄山羊です。闇が最も深い日(新月)に与えられた「世の光」、マイノリティの希望です。

 

【今日の小さな生き方の提案】

贖罪信仰は旧約聖書に根拠を持ちます。キリストの唯一無二の死が毎日の犠牲を不要にする最大最後の「犠牲」です。十字架で処刑された方がすべての罪を背負ったのだから、わたしたちは犠牲獣を捧げる必要がありません。教会は破壊的カルトと異なるので、信徒を搾取はしません。献金という犠牲は自由意思の範囲内で行うべきです。むしろ、わたしたちが捧げる犠牲は、賛美であるべきです。賛美をもって、わたしたちは呪うことを中止します。自分の人生への呪い、隣人への呪いを止め、世界を創られた神をほめたたえ、互いに祝福を交わします。この日曜日の礼拝で魂の憩いを実現しましょう。