【はじめに】
本日の箇所は「反対命題」シリーズの六つ目です。最後のものでもあります。レビ記19章18節に「そして貴男は貴男の友人/仲間/親密な人を貴男と同じように愛する」(私訳)とあります。反対命題は、下線部に反対し誰を愛すべきかの新しい考え方を打ち出します。「あなたの味方ではなく、あなたの敵を愛せ」と。
後半の「あなたはあなたの敵を憎むだろう」(43節)という言葉は、旧約聖書にありません。しかし、1947年に死海文書が発見され、その中の『共同体の規則』という文書に類似の内容が記されていたことが分かりました。紀元前100年前後の文書です。「そして光の子らすべてを、それぞれ神の会議におけるその籤に応じて愛し、闇の子らすべてを、それぞれ神の復讐におけるその罪責に応じて憎むこと」(共同体の規則1章9-10節。松田伊作・上村静訳)。死海のほとりで修道生活をしていた「クムラン宗団」と呼ばれる、ユダヤ教の一派の内規の一節です。共同体成員を「光の子ら」と呼び相互に愛し、共同体成員以外の者を「闇の子ら」と呼び、憎めというのです。
自分たちを「光」と絶対視し、それ以外の者たちを「闇」と決めつける「セクト主義」は、エッセネ派にもヨハネ教団にもあったと思います。イエスはこの偏狭な考え方に反対し、「あなたの敵を愛せ」と言っているのでしょう。狭さに対する批判という視点で読み解いていきましょう。つまり、心を広く保つ寛容こそが、愛敵の教えです。この点で、左の頬を差し出す行為・上着も差し出す行為・あえて2ミリオン歩く行為と(38-42節)、似て非なるものです。寛容という鍵語は、ヨハネとイエスを分ける点とも言えます。
43 あなたたちは、以下のことが述べられたということを聞いた。あなたはあなたの隣人を愛するだろう。そしてあなたはあなたの敵を憎むだろう。 44 さてわたし、わたしこそがあなたたちに言う。あなたたちはあなたたちの諸々の敵を愛せ。あなたたちを迫害し続けている者たちのために、あなたたちは祈れ。 45 その結果、諸々の天におけるあなたたちの父の息子たちに、あなたたちはなるだろう。というのも彼の太陽を、彼は悪い者たちと善い者たちの上に上らせているからだ。そして彼は正しい者たちと正しくない者たちの上に雨を降らせている(からだ)。
【それぞれの反意語は】
レビ記19章18節をめぐって「わたしの隣人とは誰か」という問いをイエスに提起した人がいました。それに対してイエスは、「隣人の範囲を定めるのではなく、自分から隣人になりなさい。そうすれば範囲は関係がなくなる」と答えました。有名な「良いサマリア人の譬え話」です(ルカ10章25-37節)。「隣人」という言葉そのものが持つ問題性をイエスは批判しています。
「隣人」の反意語は「敵」でしょうか(43節)。「関係の遠い人」「距離の近くない人」「迫害し続けている者たち」(44節)でしょうか。イエスはそのいずれも否定するでしょう。そもそも「隣人」という人間の類型は、イエスの中に存在しないからです。すべての人間は、ただの人間です。近い人を作る時に同時に遠い人が発生してしまいます。もしも隣人という概念を作りたいなら、自分が隣人になれば良い。もしも敵という概念をつくりたいなら、敵をこそ愛すれば良い。そうすれば、お互いがただの人間同士であることが理解できるはず。これがイエスの言いたいことでしょう。
「愛する」という言葉の反意語は何でしょうか。「憎む」でしょうか。「憎む」の反意語から考えた方が良いかもしれません。「憎む」「憎悪する」の反意語は「好く」「好感をもつ」でしょう。これは反対の感情を言い表しています。好悪の感情です。これに対して愛するということは、感情の次元ではありません。むしろもっと技術的・客観的な行動です。Love is Art(技術)です。好きになるということは感情的にどうしてもできない場合がありえます。人間は感情の動物ですから。しかしどんなに嫌いな人に対しても愛するということはできます。なぜなら、愛するということは全ての人と等距離を保つ技術だからです。全ての人がただの人であることを知り、全ての人に人権があり、全ての人に生きるため必要な距離が保たれるべきであることを認め、その距離を守ることが、愛するということです。
愛するということの反意語は、近づきすぎることであり遠のきすぎることです。どんなに好きでも踏み込んで支配できず、どんなに嫌いでも存在を否定してはいけません。
【神の寛容】
イエスの信じる神もまた等距離を保っているように思えます。「彼は悪い者たちと善い者たちの上に」「彼は正しい者たちと正しくない者たちの上に」という表現には、「悪い者にさえも」「不正な者にさえも」という含みが感じられません。「…さえも」という言い方は「自分は善人/義人」という前提に立っているように読めて、「上から目線」に感じられます。原文にそのような嫌味はなく、イエスは悪人と善人と、また、正しい者と正しくない者とを単純に並列に並べています。太陽と雨という生存に関わる事柄において、誰もが生きる権利を守られるべきです。
この神のあり方に、愛するという技術が詰まっています。その人の個性にまったく着目しないで、公平・公正に扱うということです。少なくとも、公平・公正に扱われなければならない次元(人権の分野)が、全ての人にあるのです。だからわたしはヒトラー暗殺計画に加わった牧師の行動に疑問を持ちますし、またそれ以上に、その悲運の男性英雄を称えるHeroismという感情に警戒心を持ちます。ヒトラーもまた敵と隣人を作り出し、Heroismによって祭り上げられたからです。
46 というのも、もしもあなたたちがあなたたちを愛している者たちを愛したならば、あなたたちは何か報いを持つか。その徴税人たちも同じことをしていないか。 47 そしてもしもあなたたちがあなたたちの兄弟たちだけに挨拶をするならば、何かあなたたちは優れたことをしているのか。その非ユダヤ人たちも同じことをしていないか。 48 それだからあなたたち、あなたたちこそが完全であるだろう。あなたたちの父、天の父が完全であるように。
【徴税人、非ユダヤ人】
ここには明確な職業差別と、民族差別が記されています。「徴税人たちも同じことをしていないか」(46節)、「非ユダヤ人たちも同じことをしていないか」(47節)と、特定の職業と特定の出自を蔑視している態度が、差別に当たります。これらの言葉は「徴税人の友」だったイエスの実像とかけ離れています(マルコ2章13-17節他)。また、ギリシャ語圏の人やサマリア人に胸襟を開いていたイエスの姿とも異なります(マルコ7章24-30節、ヨハネ4章)。つまり、この言葉を付け加えて編集したのはマタイ教会の作業です。神の寛容を説いた直後という文脈も、あまり良くなかったと思います。言わんとするところは、「愛されるから愛する」「挨拶されるから挨拶する」という態度は、等距離に愛するということと抵触するということです。
冒頭に申し上げたことと関連させて言うならば、集団名を特定させなくても、あらゆるセクト主義が問題です。近すぎる集団を形成する時に、より多くの敵が作り出されてしまうからです。バプテスト教会は17世紀の英国で国教会から自覚的に分離したセクトから出発しました。その強さは、常に聖書の言葉から吟味されなくてはいけません。どんなにメンバーシップを大切にしても、寛容と愛を失ってはいけないのです。
【完全】
「完全」(48節)と訳したギリシャ語の原義は「目標への到達」です。「達成」という意味合い。48節は、おそらく申命記18章13節のギリシャ語訳を参考にしています。対応するヘブル語の「完全」という単語は、「達成」という意味合いだけではなく、瑕がない「完璧」という意味が強い単語です。
「あなたたち、あなたたちこそが完全であるだろう」は未来時制です。強い命令に捉えなくても良いと思います。神と共に歩む時に自動的にわたしたちは神の性質を帯びるものなのです。ここで、「あなたたち、あなたたちこそが」に注目すべきです。この強調表現は反対命題シリーズで一貫してイエス自身に対して用いられていましたが(わたし、わたしこそが)、最後の第六命題で初めて聴衆に対して用いられています。遡って、「あなたたち、あなたたちこそが」は、「世の光・地の塩である」(13・14節)という言葉に用いられています。13節から48節が、同じ表現で囲い込まれています。語り手と聞き手の一体化、「である」と「すべし」の一体化が、ここでなされています。
神はすべての人に等しく光をあて、透明な目で全ての人を見ています。神はすべての人に塩味の効いたおいしい言葉をかけ、等しく味を付けています。その意味で神は寛容であり神は愛そのものです。神はわたしたちに「あなたたちこそすでに光・塩である」と言いながら、同時に神は未だ熟していないわたしたちに、「あなたたちこそが完全であるだろう」と期待しています。わたしたちが神と共に光・塩であるので、わたしたちは神無しでも愛・寛容の技術を身につけるだろうと、イエスは励ましておられます。
【今日の小さな生き方の提案】
古来、「あなたの敵を愛せ」という命令は、果たして現実に実現可能な命令なのかということが論じられてきました。今まで申し上げて来たとおり、イエスは、またマタイ教会は、この命令を実現可能な行為としてわたしたちに勧めています。「敵」としか言い表せない相手や、事柄はありえます。しかしその時にかーっと熱くなり反射的に「憎む」前に、わたしたちは頭を冷やして考えたいと思います。世の光である者は世界を照らす考えを持たなくてはいけません。地の塩である者は地上社会に役立つ味わいのある行動を採るべきです。その「敵」があなたを脅かす距離に詰め寄っている場合、後ろに下がって距離を保ちましょう。その「敵」が視界に収まらない遠さならば、軽蔑・無視をするのではなく、同じ人間と認める距離まで近づけましょう。遠い者も近い者も等距離にしましょう。相手に近づき過ぎず遠ざかり過ぎず、礼を失さずにどんな人とも平和を保ちましょう。嫌いな人を好きになる必要はありません。ただ寛容・公正という愛を実践するだけで良いのです。