除酵祭と七週祭 民数記28章16-31節 2025年9月14日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は過越祭(除酵祭)と七週祭の捧げ物を規定している法律です。レビ記23章にも同じ内容が記されています。キリスト教の三大祝祭日は、イースター・ペンテコステ・クリスマスです。加えて毎週日曜日に礼拝をしています。ユダヤ教の三大祝祭日は、過越祭・七週祭・仮庵祭です。加えて毎週金曜日日没から土曜日日没までの安息日に礼拝をしています。過越祭とイースター、七週祭とペンテコステはそれぞれ時期が重なっています。過越祭・七週祭は、イースター・ペンテコステの原型です。イエス・キリストの十字架と復活という視点で過越祭についての規定を、そして聖霊降臨祭と教会の誕生という視点で七週祭についての規定を、読んでみましょう。

 

16 そしてその最初の月における、その月に属する十四の日において、ヤハウェのための過越(がある)。 17 そしてその月に属する十五の日において、これが祝祭(である)。七日間種入れぬパンが食べられる。 18 その最初の日における聖の召集(で)、労働の仕事の全て(を)貴男らはしないように。 19 そして貴男らは火・煙が上る捧げ物をヤハウェのために近づけるように。家畜の息子たちからの雄牛二頭、そして一頭の雄羊、そして年の息子たち(である)七頭の子羊たち(を)。それらは貴男らにとって完璧なものであるように。 20 そしてその油の混ぜられている小麦粉の、彼らの穀物の捧げ物十分の三エファ(を)その雄牛のために、そして十分の二(エファを)その雄羊のために貴男らはなす。 21 十分の一、十分の一(ずつを)その一頭の子羊のために貴男らはなす。その七頭の子羊たちのために。 22 そしてその罪の捧げ物の山羊一頭(が)貴男らの上を覆うために。 23 加えて、その朝の煙の上る捧げ物――それは日毎の煙の上る捧げ物に属するのだが――を、これらを貴男らはなす。 24 これらのように七日間、その日のために貴男らはなす。火のパンがヤハウェのための憩いの香りのためになされる。その日毎の煙の上る捧げ物の上に、また、それの注ぐ捧げ物(も)。 25 そしてその第七の日において、聖の召集が貴男らのために生じる。労働の仕事の全て(を)貴男らはしないように。

【過越祭の犠牲の意義】

出エジプト記12章には、過越祭をどのように行うかの指示が書かれています。動物たちの犠牲、特に「一頭の子羊」(21節)はドアの鴨居と柱に血を塗り付けるために殺された子羊を記念するためのものです。出エジプトの夜、エジプトの各家では、ヤハウェが家の長男を殺し回っていました。恐ろしい情景です。しかし、イスラエルの家のドアには、子羊の血が塗られていました。この血のある家だけヤハウェは過越します。子羊の血が家を覆い隠していたのです。過越祭の時に、イスラエルの各家では子羊を一頭丸ごと食べます。食べきれなければ隣家の人とも分かち合います。自分たちの命を救った子羊を、ありがたく自分たちの命を維持するための食物とします。

それと同時に、ヤハウェから殺されなかったという出エジプトの夜の出来事を、イスラエルでは罪が覆われたという意味に捉えました。「その罪の捧げ物の山羊一頭(が)貴男らの上を覆うために」(22節)とある通りです。犠牲の山羊は、人々の罪を覆うという信仰は非常に古くから存在していました(レビ記16章26節、「アザゼルのための雄山羊」という古い実践も参照)。本来ならばヤハウェの神の前に立つことができない罪人であるにもかかわらず、祭司の祈り(犠牲とされる山羊に人々の罪が乗り移るように)によって罪が覆い隠され(カファル)、ヤハウェが通り過ぎて裁かない、それゆえに生きながらえているという観念。これを贖罪信仰と言います。

キリスト教会は、ナザレのイエスの十字架刑死を、過越祭で殺される「子羊」に重ね合わせました。イエスの流した血を、戸の鴨居と柱に塗られる血と理解しました。イエスの奪われた命を、全世界の罪を覆うための子羊の犠牲/全世界の罪の代理となる山羊の犠牲と理解しました。神の子の犠牲によって神は信徒を過越し、信徒の罪を不問に付します。罪人でありながら同時に罪を覆い隠され、罪を肩代わりされて、キリスト信徒は義人として永遠に生きることができるのです。これを贖罪信仰と言います。

カトリックもプロテスタントも含む西方教会は伝統的に贖罪信仰を重んじています。バプテストもそうです。その伝統に従えば、純宗教的な意味の「魂の救い」とは個人の罪が贖われるという深い経験です。現代的には様々な批判が贖罪信仰に対してありえます。しかし信仰の基本線として、この垂直的経験(上から下まで刺し貫かれるような罪意識で自我がぺしゃんこになった後に、十字架と復活のキリストと共に下から上まで引き上げられる救済経験)は、固く保持した方が良いでしょう。謙虚さを身につけることができ、人格(敬虔な霊性)が深まるからです。どんな人も神の前に立つことはできない、ただキリストの仲介と代理と犠牲(罪の覆い隠し)によってのみ神の前に立つことができる、その謙虚さが必要です。

【除酵祭の意義】

種入れぬパン」(17節)を食べなければいけない理由は、出エジプト記12章39節から推測されています。出エジプトは緊急の夜逃げであり、イスラエルの人々にはぐずぐずしている暇がなかったので、練り粉にパン種を入れる作業のための時間や発酵を待つ時間がなかったのだというのです。出エジプトという救いの緊急性をいつまでも忘れないために、毎年一度、「最初の月…に属する十四の日」(わたしたちの暦の3-4月)にあたる過越祭の七日間、イスラエルの人々は種入れぬパン(マッツォート)を食べることが定められています。現代のユダヤ教徒たちの過越祭式文においても、出エジプト記12章39節が引用されて種入れぬパンの由来が説明されています。それに加えて「苦菜」(同12章8節)を食べる理由も、エジプトの奴隷の苦しみを忘れないためと説明されています。

ここには過去の出来事をいつまでも忘れない工夫があります。儀式というものの効用です。子どもたちから、「なぜわたしたちは美味しくない食べ物をあえて食べるのか」という問いを引き出すのです。そして大人は信仰共同体が大切にしている救いの出来事を通して応えます。「わたしたちの苦しみの呻き嘆き叫びを神は聞き、大急ぎでそこから脱出させてくださり、奴隷から自由の民へと旅立たせてくれた。これが贖い(ガアル。奴隷の買戻し)だ。その救いの出来事をどんな境遇に置かれてもわたしたちは忘れてはならない。」

最後の晩餐が、年に一度の過越祭(除酵祭)の食卓であったかどうか、福音書の立場は割れています。マタイ・マルコ・ルカは過越祭(除酵祭)初日の食卓だったとしますが、ヨハネは過越祭の前日とします。マタイらの立場に立てば、イエスが取ったパンは種入れぬパンです。種入れぬパンは救いの緊急性の象徴です。また苦しみからの解放という、水平・平等が与えられたことに力点が置かれます。「貶められているところから救われて本当によかったね」と、交わりの中で喜び合うという図です。

さて、過越祭(除酵祭)における犠牲の質量は新月祭と同等です(七週祭も)。新月祭は廃れ過越祭は今も祝われています。この違いは良質な神学の有無にあります。過越祭(除酵祭)は深い意義付けに成功しています。わたしたちのイースターにも意義付けが必要です。イエス・キリストによる救いの深さと高さ(わたしの罪のために殺された方の復活)、広さ・平らかさ・遠くまでの射程(わたしの苦しみを解放する方の復活)が込められて、毎年祝われるべきです。主の晩餐式は、毎週行われる小型版イースターです。

 

26 そしてその諸々の初穂の日において、貴男らが新しい穀物の捧げ物を貴男らの諸々の週においてヤハウェに近づける時に、聖の召集が貴男らのために生じる。労働の仕事の全て(を)貴男らはしないように。 27 そして貴男らがヤハウェのための憩いの香りとして煙の上る捧げ物(を)近づけるように。家畜の息子たちからの雄牛二頭、一頭の雄羊、七頭の子羊たち、年の息子たち(を)。 28 そしてその油の混ぜられている小麦の、彼らの穀物の捧げ物十分の三エファ(を)、その一頭の雄牛のために、十分の二(エファを)その一頭の雄羊のために。 29 十分の一、十分の一(ずつを)その一頭の子羊のために、その七頭の子羊たちのために。 30 雌山羊たちの一頭の雄山羊が貴男らの上を覆うために。 31 加えて、その日毎の煙の上る捧げ物とそれの穀物の捧げ物(を)貴男らはなす。完璧なものたちが貴男らに属するものとなる。彼らの注ぐ捧げ物も。

七週祭(五旬祭)の意義

 「七週祭」(直訳「諸々の週」26節)は、元々大麦の収穫を祝うための祭です。「初穂の日」とある通り、「新しい穀物」を神に奉献する農耕祭儀です。収穫感謝祭、秋の祭と似ます。ユダヤ教では七週祭にはルツ記が朗読されます。その由来はルツ記1章22節にあります。

イエスの時代には収穫感謝の意義が薄れ「シナイ山での律法授与の日」という意義付けが定着していました(出エジプト記19章1節「三月目」)。「過越祭(出エジプト)から七週目に、モーセは神からシナイ山で律法を授与された、それゆえにこの日は律法の大切さを記念しよう」という、神学的に深い意義付けです。毎週シナゴーグで神の言葉を聞く「正典宗教」にふさわしい。

ナザレ派(キリスト教会)は、律法授与記念日という意義付けにさらに別の意義を被せました。律法ではなく聖霊が授与されたという意義です。神の言葉ではなく、神の霊が老若男女一人ひとりに降った「聖霊降臨祭」です。文字は殺し霊は生かす。イエスの霊を宿して教会は律法を自由に解釈します。

現代のわたしたちは、農業の大切さ(米価格!)・聖書の大切さ・自由な霊の大切さという、三つの意義をすべて合わせても良いと思います。毎日のパンをくださいと祈り、与えられたら日毎に感謝する。毎日聖書を読み、毎週神の言葉を朗読し、神の言葉の自由な解釈を聞き、日常に当てはめて生きてみる。そして年に一度ペンテコステの日に、恵みによって与えられた命と言葉と霊に感謝をするのです。毎週(諸々の週)の礼拝はミニペンテコステです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

膨大な数の犠牲獣を殺す礼拝をわたしたちはしておりません。イースター・ペンテコステ・主日礼拝において、わたしたちは「別のいけにえ」を捧げることで過去の犠牲祭儀を乗り越えています。パウロは「自分の体をいけにえとして捧げよ」と勧めています(ローマ12章1節)。贖い・解放・恵みによって保たれている全身を、礼拝のためのみに使うことが求められています。なぜなら礼拝はキリストといういけにえを記念する応答だからです。わたしたちの罪を贖い、苦しみを解放し、霊と永遠の生命を与えた方に応えましょう。