慈善をする時は マタイによる福音書6章1-4節 2025年9月21日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は、「信仰に根差す敬虔な行いについての注意」についての3回シリーズの最初です。①「慈善(寄付)」(1-4節)、②「祈祷」(5-15節。ただし9-13節に「主の祈り」を含む)、③「断食」(16-18節)という三段構えがあり、それぞれに「その秘密の中で見ている、あなたの父はあなたに報いるだろう」という同じ教えが含まれています(4・6・18節)。

マタイ教会はこのようにシリーズを作って整理することを編集方針としています。直前には「反対命題シリーズ」全6回がありました。「以前このように言われていることは聞いての通りだが、わたしは次のように言う」というお馴染みのフレーズです(5章21-48節)。さらに大きな枠組みで言えば、5-7章という「山上の垂訓」という説教シリーズがあり、その中に「反対命題シリーズ」も「敬虔な行いシリーズ」も整理されて収められているのです。さらにさらに大きな枠組みを言えば、1-4章の物語の塊、5-7章の教えの塊、8-12章の物語の塊、13章の教え(譬え話)の塊と、マタイ福音書は物語と教えが縞々に配列されています。

日常生活にもこのような整理整頓が必要かもしれません。マルコ福音書は鷲のように物語展開が速い福音書です。「そしてすぐに」をマルコは鍵語として多用している通りです。マタイ教会は、そのマルコ福音書を目の前に置きながら、旧約聖書(ヘブル語もギリシャ語訳も)、ルカ福音書と共通の伝承、マタイ教会にのみ伝わる伝承、これらの諸資料も参照しながら、じっくりと整理して物語を配列します。拙速を避け、少し引いた目でイエスの伝記を編纂し、役割分担をした複数の目で吟味して配列し、教会員にとって理解しやすいように工夫し、礼拝で用いていくのです。主題別のシリーズを固めるという編集方針は教会の意思として定めたものです。史実の順番を犠牲にしても、主題別をあえて選んだということもできるでしょう。人生にとって、教会生活にとって整理整頓が大切だからです。

とある知人が忙しい生活を「綱渡りしながら、ジャグリングをしているような毎日」と表現されたことを思い出します。秀逸だと思います。渦中にあって、同時に対応しなくてはいけない多くの事案があって、公私の生活があって、内外の労働があって、日常というものは混沌としています。一週間のうち1時間でも良いから一人で整理整頓させてほしいものです。礼拝というものが混沌を整理整頓する一助になればと願います。マタイ福音書を編纂したマタイ教会の思いも、そのようなところにあるのではと推測します。

 

1 さてあなたたちはあなたたちの義をその人間たちの面前で彼らに見られるために行わないように注意せよ。もしそうでなければあなたたちは、その諸々の天におけるあなたたちの父の傍らで報酬を持たない。 

 

【義とは】

」(ディカイオスネー)というギリシャ語は、ヘブル語ツェデク/ツェダカーという言葉の翻訳語です。そして、旧約聖書における「義」は、非常に重要な言葉、旧約聖書の中心的な概念の一つです。

「義」は「公正」と類義語です。それは法律と関係が深い考え方です。義は合法・適法の状態と言えます。5章20節に「律法学者の義」という言葉があります。自分たちで作った法律を少なくとも自分たちは遵守する態度のことでしょう。イエスは「律法学者の義」を否定せず、信徒に「律法学者の義」を優るようにと求めています。それは法律的に全人間を「公正」に取り扱うことと言えます。

 「義」は「救い」と類義語です。この場合の義は、一方的に定義できない関係概念です。義という性質を持つ神(義なる神)は、信徒との約束を必ず守る方です。神の義は、自分の契った約束を守って、自分の民を救うということを意味します。そして民の義は、神が打ち立てた救いの約束を「アーメン」と告白して信じることです。義なる神がアブラムを義と見た時に、両者の間に「義」が実現しています(創世記15章6節)。

救いという意味合いがあるので、ユダヤ教においては「義」は「義援金」「寄付」「施し」「慈善行為」の意味にも使われるようになりました。そういうわけで、2・3・4節において「施し」(新共同訳)という意味の「慈善」が話題になっています。イエスはこの慈善という狭い意味の「義」を「その人間たちの面前で彼らに見られるために行わないように注意せよ」と命じています。それは、「公正」「救い」という広い意味の「義」の意義を失わせてしまうからだと思います。神からの「報酬」(1・2節、「賃金」という意味です)だけが、義においては重要です。天において神は全信徒を傍らに引き寄せて肩を組み、「よくやった、忠実な僕よ」と声をかけ、全ての労働者に1デナリオンを手渡しします。このような仕方で、「あなたの父はあなたに報いるだろう」(4節)。この時、公正と救いが完成します。

 

2 それだからあなたが慈善をする時には、あなたの面前でラッパを吹くな。その偽善者たちがその諸会堂において、またその諸々の道路においてするのと同様に。彼らがその人間たちから栄光を帰されるために。アーメン、わたしはあなたたちに言う。彼らは彼らの報酬を受けている。 

 

【人間たちから栄光を帰されるという報酬】

将来、天で神からの報酬を受ける前に、今現実社会において地上で人間たちから「報酬を受けている」ことが批判されています。そうであれば将来の神からの報酬は取り上げられるというのです(1節参照)。イエスは報酬の二重取りに譬えています。

他の人間たちに見られるような仕方でわざとらしく慈善行為をし、その嫌らしい計画通りに慈善行為を見た人間が慈善行為をした人物を褒め上げるというのは偽善であると、イエスは厳しく批判しています。実際にラッパを吹いて、これから慈善行為をしますなどと言った人はユダヤ教文献には登場していません。しかしそれに類するような嫌らしい行動はあったのだと思います。「その諸会堂において」とあるように、宗教者による寄付合戦/競合です。それを公共の場である「その諸々の道路において」もしようというのです。本来ならば、神にのみ栄光を帰さなければならない宗教者が、自分自身に「人間たちから栄光を帰される」という皮肉。このような宗教者をイエスは「偽善者たち」と呼びます。この類の地に落ちた栄光を、イエスは世俗的な言葉で「報酬」と吐き捨てています。一方的な恵みとしての救いではないからです。

 

3 さてあなたは慈善をしていても、あなたの左が、あなたの右がすることを知らないようにせよ。 

 

【慈善をしていても】

あなたは慈善をしていても」と一応翻訳しましたが、原文は多義的曖昧な表現です。独立分詞構文というギリシャ語特有の表現であり、文法上いくつもの解釈がありえる部分です。「あなたが慈善をしている最中に」が最も中立的な解釈ですが、「あなたが慈善をしているので」や「あなたは慈善をしているにもかかわらず」や「たとえあなたが慈善をしているとしても」などなど、様々に踏み込んだ翻訳がありえます。私訳は、最後の立場です。みなさんもどれを選択するかを選んで良いのです。その際に、みなさんの「慈善」についての理解が明らかになります。

「左手」「右手」とせずに、直訳のまま「」「」とし、「自分の左側に居る人」と「自分の右側に居る人」という意味を採りました。そうすると三人の人物は相互に知らないままばらばらの行動をすることになります。もちろん真ん中の人物は慈善をしていることを左右に知らせません。左右の人も、自分たちが何をしているのかを知らせ合うことも、真ん中の人物のことをことさらに知る必要もないのです。慈善をしている人にだけ、左右からの注目が集まることが問題の所在です。各人は神のみに集中するべきです。こうして公正というものの大切さが教えられています。

 

4 その結果、あなたの慈善はその秘密の中にあるだろう。そしてその秘密の中で見ている、あなたの父はあなたに報いるだろう。

 

【秘密の中】

信仰や信仰に基づく行動の原則は「秘密の中」にあります。4節に2回繰り返されている鍵語です。「内心」とも「良心」とも言い換えられます。神はわたしたちの良心の主です。この聖句によれば、キリスト信仰に基づいて貧しい人々に献金・寄付を行うことは、誰にも知らせずに行うべきです。すべての敬虔な行いは「秘密の中」に留めておき、「秘密の中」で見ている神にのみ見られるべきです。故意に秘密にしない場合に、わたしたちの信仰は歪み、信仰生活に無用の混乱が起こることをイエスは心配しています。「良い信徒アピール」とでも言えるでしょうか。

古代以来キリスト信徒たちは「愛の宗教」の証として無数の慈善行為を行っていると思います。それらの尊い働きを否定することはないのですが、無闇に褒めることもないのだと思います。地上での栄光が報酬としてやり取りされる時に、わたしたちの神への信仰は歪む危険性を持っているからです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

「情報公開」は現代の民主政治体制の大切な要素です。「クラウドファンディング」のような公に寄付を募る打ち出し方も、市民社会の大切な要素です。とは言え、ことが神への信仰に関わる行為であるならば、わたしたちは「秘密の中」を基本として、互いの良心を傷めないようにすべきであると思います。教会で寄付・献金合戦があってはいけないということは、2レプトンを捧げたやもめの故事からも明らかです。

わたしたちは何よりも先に、神の義を追い求めたいと願います。さかさまから言えば、「自分の栄光」や「自分の報酬」を追い求めないということです。あたかも自分が義人であるかのような誤解をしないように、真っ直ぐに生きたいと願います。わたしたちは罪人であると同時に、恵みによって義と認められた「100%罪人かつ100%義人」に過ぎないのですから。