主の祝い 民数記29章12-25節 2025年10月19日礼拝説教

【はじめに】

民数記28-29章にある捧げ物の規定には、数字の「七」が埋め込まれています。「七」は完全数とも呼ばれます。一桁の素数のうち最大の数です。また一週間を構成する日数も「七」なので、ヘブル語では「週」という意味も持ちます。さらに、「誓約」という言葉とまったく同じ綴りです。こうして「七」は神の完全な救いを象徴しています。

そこで「第七の新月」(1・7・12節)という一か月が重要であること、キリスト者にとっては待降節のような意義を持っていることを前に述べました。完全な月の頂点に「仮庵祭」があります。七月の十五日から二十一日までの七日間が祭りの期間です(レビ記23章36節、申命記16章13節、ネヘミヤ記8章18節)。第七の月の七日間という「七」の重なりがこの祭りの重要性を物語っています。

本日は、仮庵祭がキリスト者にとってどのような意義を持つかについてお話をします。

 

12 その第七の新月に属する、その十五の日において、聖の召集が貴男らのために生じる。労働の仕事のすべて(を)貴男らはなさない。そして貴男らはヤハウェに属する祝祭を七日間祝う。 13 そして貴男らは煙の上る捧げ物(を)、火祭(を)、ヤハウェのための憩いの香り(として)近づける。それらは、群れの息子たち十三頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、彼らが完璧なものとなる。 14 そして彼らの穀物の捧げ物、その油を混ぜられている小麦粉十分の三(エファ)が十三頭の雄牛に属するその一頭の雄牛に応じて。十分の二(エファ)がその二頭の雄羊に属するその一頭の雄羊に応じて。 15 そして十分の一、十分の一が十四頭の子羊に属するその一頭の子羊に応じて。 16 そして雌山羊たちの一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 

 

【七の倍】

仮庵祭初日の捧げ物(12-16節)の規定は、「新年祭(ローシュ・ハッシャナー)」(1-6節)、「大贖罪日(ヨーム・キップール)」(7-11節)とそっくりです。大きな違いは、仮庵祭が「祝祭を七日間祝う」(12節)、すなわち喜びの祝祭であるということにあります。特に大贖罪日は「全存在を苦しめる」(7節)苦行が基本にありました。自分自身の罪を深く自覚する日です。それに対して、仮庵祭は「ヤハウェの喜び」(ネヘミヤ記8章10節)の日です。真に大きな喜びの祝いです(同17節)。

子羊の犠牲の頭数が、「七頭」(4・8節)に比べると倍の「十四頭」(13・15・17・20節)となっていることも示唆に富みます。罪の増し加わるところに恵みもさらに増し加わるものです。わたしたちが自分自身の罪を深く自覚するところに、神の恵みが倍加されます。十字架を深刻に捉えるところに、復活の喜びが倍になって返ってきます。ここにも完全な救いの象徴である「七」が埋め込まれています。

 

17 そしてその第二日において、群れの息子たち十二頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 18 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 19 そして雌山羊たちの一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 20 そしてその第三日において、群れの息子たち十一頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 21 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 22 そして雌山羊たちの一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 23 そしてその第四日において、群れの息子たち十頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 24 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 25 そして雌山羊たちの一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。

 

【一頭ずつ減ることの意味】

無味乾燥に繰り返される捧げ物の数に、一つだけ奇妙な法則があります。七日間にわたって一頭ずつ減る犠牲獣がいることです。雄牛だけは、初日「十三頭」(13節)、二日目「十二頭」(17節)、「十一頭」(20節)、「十頭」(23節)、と減っていきます。この法則により、七日間で雄牛は合計七十頭捧げられることとなります。ここにも七が埋め込まれていると考えることができます。七日かけて七十頭という完全な数の雄牛が、ヤハウェのために捧げられるということです。

ならば毎日十頭ずつ捧げることも考えられますが、ここはカウントダウンの効果を重視しているのだと思います。段々気持ちがせり上がり、最後の八日目を迎えることができるという効果です。アドベントのロウソクは週ごとに一本ずつ増えていきますが、レントのロウソクは週ごとに一本ずつ減っていきます。似たような考え方に基づいています。カウントダウンによって「聖の召集」(12・35節)が待ち焦がれます。こうして、第七の月は一日目(1節)、十日目(7節)、十五日目(12節)、二十二日目(35節)の三週間で合計四回「聖の召集」があります。角笛によって開始の時が告げられ、自分たちの罪を悔い改め、神の救いを喜び祝うためです。三週間をかけて全存在を苦しめ、全存在のよみがえりを追体験します。

 

【旧約聖書から新約聖書へ】

旧約聖書における「仮庵祭」には、三つの大きな意味があります。一つは収穫感謝という意味です。サムエルの両親、エルカナとハンナは毎年シロに上って収穫感謝祭に参加していたようです(サムエル記上1章)。それだからご馳走を食べることは祝祭の一部でした。仮庵祭は元来「取り入れの祭り」と呼ばれていました(出エジプト記23章16節)。仮庵の由来は、カナンの地の農民たちが収穫の繁忙期に畑の横に掘っ立て小屋を作って取り入れ作業をし、そのまま宿泊し、次の朝も農作業に従事したことにあると言われます。

二つ目の意味は出エジプトの解放を覚えるという、救いの記念という意義です。放浪の旅を続ける苦労を、掘っ立て小屋で過ごす中で思い出すというのです(レビ記23章43節)。ただしかし、それならば天幕で過ごす方が的確な追体験とも言えるので、おそらくはこの意味付けは後付けです。しかし出エジプトという救済を記念するためという、非常に重要な意義付けです。

三つ目は聖書が神の恵みとして神の民に与えられているという意義です。仮庵祭の時に律法が朗読されたことを記念して、今でもユダヤ教徒は仮庵祭の時に律法に親しむことを慣わしとしています。これもまた後付けです。しかし律法を編纂し約束の地にもたらしたエズラの功績を考える時に(それによって礼拝がどこでも可能になった)、非常に重要な意義付けと言えます。

神の与えた収穫を共に食べるという喜び、神の救いという喜び、聖書を読むことの喜び、これらが旧約聖書の語る仮庵祭の意義です。

イエスが徴税人レビの家で不可触民と共に食事をした時に、仮庵祭の一つ目の意義が全うされました。神が清いと言っている食べ物は何でも、神が清いと言っている全ての人々と分かち合って、感謝して食べるべきです。イエスがガリラヤ地方を野宿しながら放浪の旅をした時、仮庵祭の二つ目の意義が全うされました。掘っ立て小屋もなく、石を枕にイエスたちは旅を続け、荒野の生活を体験したのです。

ヨハネによる福音書7章には(おお、ここにも「七」が)、イエスが仮庵祭に参加するためにガリラヤからエルサレムに行き、祭りの間中エルサレムに滞在していたという記事があります。その旅は、命を賭けた決死行だったようです(1・10・32節)。イエスは仮庵祭の三つ目の意義に基づき、神殿の境内で聖書を解き明かします(14節以降)。イエスほど旧約聖書を読んだ人はいないでしょう。イエスにおいて仮庵祭の三つ目の意義が全うされました。神の与えた正典を自らの人生の指針とすることです。

さて、イエス時代のエルサレム神殿では、仮庵祭の際に「雨(と霊)を求める儀式」が行われていたそうです。シロアムの池から汲んだ水と、葡萄酒を同時に祭司が祭壇に注ぐというものです。旧約聖書には書かれていない、ラビ文献にのみ書かれている儀式です。イエスはこの儀式の真最中に、あの有名な言葉を語り、人々を新しい救いの道へと招きました。「渇いている人はだれでおも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38節)。

旧約聖書の示す三つの意義を踏まえた上で、イエスは新しい意義を創始しています。いつまでも枯れない泉が、一人ひとりのうちに宿るという救い、一度飲んだら二度と喉が渇かない水をいただけるという救いです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

イエスの霊を内に宿しましょう。共に食べるという喜びは永遠のものではありません。すぐにお腹は空きます。苦しむという体験も絶対的なものではありません。自分の苦労が、他人を裁く道具になるならば、人生はあまり豊かになりません。宗教的「苦行」においても同じことです。聖書はどうでしょう。「文字は殺し、霊は生かす」とパウロは語りました。正典宗教において聖書は中心です。しかし聖書そのものが救いではないということを肝に銘じるべきです。聖書に示されるイエス・キリストがわたしたちに永遠の生命を与える救い主です。キリストは、復活され霊において生き、わたしたちの内に宿っておられます。自分自身の内側にキリストがおられると信じるところに救いがあります。結局のところ仮庵祭の三つの意義は、霊である神を感じる道具であるということです。手段は目的を超えません。神を感じるために人々の間で食べ、あえて孤独になり、聖書を読みましょう。そして深呼吸をし、聖霊を受け入れ、キリストの血を受け、生ける水を内から外に流れ出させましょう。