【はじめに】
「主の祈り」の続きです。そして特に9節の後半にある「あなたの名前が聖められよ」に焦点を絞ってお話いたします。主の祈りの「第一祈願」と呼ばれる内容です。ルカによる福音書11章2節にも「第一祈願」はあり、文言が完全に一致しています。だから、この第一祈願の内容は、イエスが実際に祈った言葉通りであると推測されます。
9 だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ。わたしたちの父よ。その彼は天の中に(いる)のだが。あなたの名前が聖められよ。 10 あなたの支配が来い。あなたの意思が生ぜよ。天の中におけるように、地の上にも。
【聖なるかな】
「主の祈り」には原型があります。イエス時代のユダヤ教徒たちが祈っていた「聖なるかな(カディッシュ)」という祈りの定型句があります。次のような言葉です。原文はアラム語です。「アッバ」(お父ちゃん)というアラム語の呼びかけに、円滑に続くものと考えられます。
大いなる彼の名前があがめられるように、そして聖められるように、彼が彼の意思のままに創造した世界において。そして彼の支配があなたたちの生涯において、そしてあなたたちの時代において、そしてイスラエルの全ての家の生命において、速やかに近い時に実現するように。そして彼らは言う、アーメン。
イエスが弟子たちや大勢の聴衆に示した「主の祈り」は、「聖なるかな(カディッシュ)」という祈りの短縮版です。第一祈願と、カディッシュの最初の一文を比べてみると、イエスがかなり大胆に削っているということと、一つだけ変えているということが分かります。
「大いなる」という形容詞、「あがめられるように」という動詞、「彼が彼の意思のままに創造した世界において」という長い副詞句がごっそり省かれています。祈りは簡素にすべしということが、イエスの言いたいことでしょう。7節にも「くどくど祈るな」という教えがありました。単刀直入に祈ることが大切です。なぜか。神との距離を短くするためです。主の祈りというと、特に子どもたちにとっては、長い祈祷文を無理矢理覚えているような印象があります。しかしそうではないのです。イエスが目指した祈りは、形容詞無しの「お父ちゃん」という短い呼びかけ、それに続く一つの主語(あなたの名前)と一つの述語(聖められよ)です。「世界において」という当たり前のこととか、「神が創った」という「世界」を形容する言葉とかも、冗長です。カディッシュを短縮することの意図は神とわたしたちを近づけることにあります。
イエスは「彼の名前」を「あなたの名前」と変えました。神は第三者ではないからです。イエスは面と向かって神に「あなた」と言えたのだし、その距離をわたしたちの模範例として示しました。わたしたちにとっても神は第二者であるべきです。祈りにおいて特に第三者ではなく、二人称で呼び合える関係です。イエスとアッバの対話は、とても近しい者同士の話し合いです。「彼の」から「あなたの」への改変もまた、神を近く感じるようにという指針です。
さらに発展して考えましょう。「三人称から二人称へ」という視点の変更が必要ということは、わたしたちの日常生活にも当てはまるように思います。「第三者」という言葉は無関心の象徴のような冷たい響きを持っています。倒れている人がいても、道の向こう側を通り過ぎようとするような冷たさです。幼稚園の子どもにしばしばあるのですが、「片づけてください」「えー、やだ」「なんで」「だってわたしが遊んだものじゃないもん」。一理は有るのですが、その理由だけでは自己責任論に負けてしまうでしょう。第三者の位置はおいしいのですが、片づけなかった人との対話は途切れてしまいます。
別の例です。誰かが誰かを痛めつけているところにたまたま出くわした時、なかなか介入することができないもどかしさや恥ずかしさがあると思います。「第三者であるあなたには関係ない」と拒絶されることも怖いものですし、共に痛めつけられる「第二者」となることも怖いものです。
あえて造語すればせめて「第2.5者」になるような勇気と知恵がほしいものです。対立する両者に対して「わたしはこう思う」と別の角度を出すことや、一方的に非難する人に「その言い方には賛成できない」と言うこと、被害に遭っている人に密かに「わたしはあなたの側にいる」と伝えることなど。同じ社会に生きる者として決して逃げてはいけない事柄があると思います。主の祈りを祈るたびに、「他ならないあなたの事柄は、すなわちわたしの事柄でもある」「わたしはあなたと共にいる」「わたしたちは第一者だ」というイエスの指針を受け取りたいと願います。インマヌエルの神が第一者として常に共に居るので、また「わたしたちのアッバ」と呼びかけることができる神が第二者としているので、わたしたちは隣人にとって「第二者と第三者の間の存在」になりうるのです。
【神の名】
イエスの周りにいた人々にとって神の名前は「ヤハウェ」(YHWH)です。ヤハウェという名前をみだりに上げてはならないという戒律(第三戒)によって、ユダヤ教徒はヤハウェと直接に呼ぶことを避けていました。そこで旧約聖書の神の名前ヤハウェは、ギリシャ語訳「主(kurios)」以来ほとんどの翻訳で「主」と訳されています。日本語訳でもそうです。ちなみにユダヤ教徒がヤハウェを「その名前」(ハッシェム)と呼ぶことは示唆に富みます。神の名は、神がそこにおられるということを婉曲に表現しています。
名前というものはその人そのものを表すものだと思います。だから姓を変えることは、一つの危機となりえます。女性だけがその危機を負うことは不公平です。この不公平による痛みを、聖書の神はよく知っておられます。ヤハウェという本名が各国語で「主」と変えさせられたからです。アッバと愛称で呼びかけたイエスは、同時に神本来の名前の復権をも訴えています。「あなたの名前」を固有のもの・特別なものとして、取り分けることが大切です。それが「聖める」ということです。
ヤハウェは「彼は生じさせる」という意味のヘブル語です。神は何か出来事を起こす神です。天地創造、人間を土からつくること、奴隷を自由の民に変えること、捕囚の民にシナゴーグでの安息日礼拝を授けること、罪を贖うこと、教会を誕生させること、とにかく神は何事かを生じさせます。イエスという名前の意味は、「ヤハウェは救う」です。この名前を直接呼ぶときに、世界に救いが起こります。
主の祈りによって、わたしたちは第三戒の「呪縛」から解放されました。ヤハウェと呼んでも良いし、イエスと直接呼んでも良いのです。イエスという名前を呼ぶことは、賛美によってよくなされます。讃美歌の歌詞に「イエス」は多く登場します。イエスという名前を礼拝において全員で声と心を合わせて呼ぶこと。「イエスよ」と二人称で呼びかけること。ここにキリスト教会の、特に会衆賛美を重んじるバプテスト教会の魂があります。
子どもの頃教会学校に通っていたという人の中で、聖句や聖書の話を覚えていなくても、讃美歌を覚えている人は多くおられます。礼拝の中で何が楽しいかと考えると、讃美歌を歌うことと思える人は多くおられると思います。その人の中に救いが起こっているのです。
【聖められよ】
文語訳聖書は「御名を崇めさせたまえ」とし、新共同訳も「御名が崇められますように」としています。先ほどのカディッシュからイエスが「あがめられるように」を削除し、「聖められるように」を残したことを考えると、ギリシャ語を直訳した「聖められよ」が妥当です(ただし類義語として意味合いはほぼ同じ)。「聖める」「聖とする」という言葉は、他と異なる特別な扱いをするという意味です。イエスという名前が特別に扱われるという事態は、一体何が行われることなのでしょうか。
人は褒められる時に自分が特別扱いされたと気づきます。つまり賛美です。神の名前を聖とするということは、イエスという名前を賛美することです。この名前は他の名前とは全然異なる、特別な名前であると信じて、特別な仕方で褒め上げるのです。主の祈りはわたしたちを神賛美へと導きます。そして、神賛美を起点として、わたしたちは隣人の名前を特別に扱うことを学びます。各人に固有の名前と、固有の人格があること、そしてそれらが尊重されるような「聖なる世界」の到来を祈ることが、わたしたちキリスト者に求められています。すべての人が「第2.5者」になって、「あなたの存在が尊ばれるように」と語り合う社会です。
ところでアラム語まで遡ると、「あなたの名前が聖められるように」以外の、もう一つの翻訳の可能性があります。「あなたの名前があなた自身を聖める」という翻訳です。受動態だけではなく、自分自身へと作用する談話態(再帰)も文法的には可能です。神は賛美されるべき方でありながら、同時に、自らを被造物と一線画すことができる方です。信徒の行動に支配されない聖なる方、決して侮られない方がわたしたちの神です。
信仰とは聖なる神を信じることです。裏返しとして自分は聖ではないということを知ることです。自己絶対化する人、自分は正しいと思い込んでいる人は神を信じていません。信仰とは聖書に照らされながら信念を持つことです。しかし同時に、信仰とは自分が常に間違えを犯しうる存在であることを聖なる神の前に告白する行為でもあります。わたしたちの賛美が神を聖なる存在にするのではなく、わたしたちの行為にかかわらず神はご自身聖なる存在です。
【今日の小さな生き方の提案】
イエス・キリストの名前を賛美しましょう。初めて教会に来た時の衝撃は人それぞれでしょう。会衆賛美に良い意味でびっくりしたという人もいることでしょう。また逆に会衆賛美の音が外に漏れ、その讃美歌に引き寄せられて教会に通うことになったという人もいます。イエスの名前に力があります。呪術的な意味ではありません。イエスをキリストと信じて特別な意味で歌う会衆に、イエスの霊が降るのです。「賛美の上にヤハウェは座る/住む」と旧約聖書にあります。「ヤハウェは救う」という意味を持つイエスは、賛美の上に座り、賛美をする己の民の只中に宿り、会衆を苦しみから救います。救いを信じて「イエスは主」と賛美しましょう。
