羊飼いを照らす栄光 ルカによる福音書2章8-20節 2025年12月21日 待降節第4週礼拝説教

【はじめに】

最も暗さと寒さを感じる時に、ロウソク一本の明るさと温もりでさえ身に沁みることがあります。2000年前、現在のパレスチナ自治区にあるベツレヘムという町の郊外に野宿をしていた羊飼いたちも、人生の暗さと寒さを感じながら、その夜を過ごしていました。神に見出されイエスを見出した夜です。

8 そして羊飼いたちがその同じ地域の中に居続けた。野宿しながら、また彼らの群れについてその夜の見張りを見張りながら。 9 そして主の天使が彼らに接して立った。そして主の栄光が彼らの周りを照らした。そして彼らは大いなる恐れを恐れた。 10 そしてその天使は彼らに言った。あなたたちは恐れるな。あなたは見よ。というのもあなたたちにわたしは大いなる喜びを、福音を告げるからだ。それはその全ての民のためであるのだが。 11 なぜならあなたたちのために今日、救う者が生まれたからだ――その彼がキリスト・主であるのだが――ダビデの都市において。 12 そしてこのことがあなたたちのためのしるしである。あなたたちはくるまれたままの、また飼葉桶の中に寝かされている赤ん坊を見出すだろう。 13 そして突然その天使と一緒に、その神を賛美し続けている、また言い続けている天の軍勢の群れが生じた。 14 栄光が至高の神において、そして地の上に平和が喜ぶべき人間たちにおいて。 15 そして以下のことが生じた。その天使たちが彼らからその天の中へと去った時に、その羊飼いたちは互いに向かって話し続けた。実際わたしたちはベツレヘムまで通って来よう。そして起こったままの、その主がわたしたちに知らせた、この物語を見よう。 16 そして彼らは急ぎながら来た。そして彼らはそのマリアもそのヨセフもその飼葉桶の中に寝かされている赤ん坊も見つけた。 17 さて見た後、彼らは、この子どもについて彼らに話した物語について知らせた。 18 そして聞いた者たちの全ては、彼らに向かってその羊飼いたちによって話された事々について驚いた。 19 さてそのマリアは全てこれらの物語を、彼女の心の中で論争しながら、留めた。 20 そしてその羊飼いたちは、それが彼らに向かって話されたように彼らが聞きかつ見た全てについて、その神を崇めながらまた賛美しながら戻った。

【羊飼いたち】

イエスがベツレヘムのとある宿屋の馬小屋で生まれた夜がいつだったのか、紀元前7年から4年の間のどこかということ以外はっきりとした年月日はわかりません。福音書(イエスの伝記)を書いた人は、細かい年代づけに関心はありません。そうではなく、「キリスト」(「救い主として任命された人」の意味)が生まれたという「福音」(良い知らせ)が、羊飼いだけに知らされたということに強い関心があるのです。まさにそれだから、キリストの誕生は、今日ここに集まっているわたしたちの人生に関わりがあると言えます。わたしたちが、その夜の羊飼いたちと似ているからです。

当時のユダヤ人社会の中には、ある一定の職業を軽蔑し差別するという習慣文化が根強くありました。職業差別の基準は旧約聖書にある法律と、法律の解釈です。宗教的な戒律がそのまま社会の規範となります。たとえば、徴税人という職業は支配者ローマ人と貨幣を介して接触します。ユダヤ人は非ユダヤ人を汚らわしいと差別していました。ユダヤ地方の軍事占領を続けるローマ人を憎いという感情もあります。ユダヤ人からユダヤの貨幣で徴税し、それをローマの貨幣に両替して収めるという仕事は、忌み嫌われたのです。旧約聖書の書かれた時代にローマ人の占領はありませんが、「徴税人の家に入る者は一日汚れる」と法律の解釈(施行細則のようなもの)が後に施されます。

同じように羊飼いという職業も、旧約聖書の法律にある「安息日に労働をしてはならない」という禁令を守れないので、軽蔑され差別されたと言われます。安息日とは、金曜日の日没から土曜日の日没までの24時間です。この時間帯、ユダヤ人は一切の労働をすることが許されていません。しかし、動物の世話は毎日のことです。羊に草を食べさせるという労働を、安息日だからと怠ることはできません。シフトがあったのかどうかは分かりませんが、総じて羊飼いは職業的に毎週の安息日規定を完全に守ることができないのです。

イエスが生まれた夜のように、自宅の囲いまで羊を連れ帰ることができない夜には、羊飼いたちは羊と共に野宿をします。羊飼いの杖は、野獣から羊を守るためにあります。羊の番をするという労働がもし安息日の24時間の範囲であれば、彼ら彼女たちは禁じられている労働をしていることとなります。熟睡が許されない「夜勤」を強いられながら、しかしそのためにかえって差別と偏見を身に受けるのですから、まったく割に合わない仕事です。

人生というものは割に合わないことがらの連続です。「なんで私だけこんな目に合うのか」と嘆くことしきりです。そのような時に、たとえば「わたしの苦労の方が深刻だ」「若いうちは割の合わないことを背負え」などと、「マイクロ・アグレッション」(微細な攻撃・嫌味の連続蓄積)を浴びせられることがあり、さらに割を食うということすら起こりえます。これらの心無い言葉は福音ではありません。マウント行動でありハラスメントでさえある下品下劣な言葉です。世界はこの類の言葉に満ちています。これらの言葉ではなく、今日、わたしたちは福音を聞くために、羊飼いと共にここに集まっています。

【天使たち】

天使たちの言葉は攻撃的でも暴力的でもありません。天使たちは「福音」「人を活かす言葉」「聞く人をわくわくさせる物語」を告げ、ただ神をほめたたえました。そして、それらの良い言葉を、毎日の生活で苦労をし、世間というものに恐怖しながら生き、なぜわたしの神はわたしを見捨てたのかと嘆いている羊飼いたちだけに、真夜中こっそりと教えたのです。「今晩あなたたちのためにキリストが生まれた。」多くのユダヤ人たちがキリストを待ち望んでいました。700年以上です。そしてユダヤ人として敬虔な信徒であり続け、宗教的戒律を厳格に守り続ける「正しいユダヤ人たち」のために、キリストが登場すると信じられていました。

標準的なユダヤ人たちの思いよりも、神の意思は自由で柔軟です。天使たちはその自由な神の意思を忠実に伝言しました。自らは戒律を厳守し、戒律を守れない他人を裁く「正しいユダヤ人」のためにではなく、戒律を守りたくても守れない羊飼いたち、あなたたちのためにキリストが生まれた。あなたたちの人生の苦労を軽くする救い主、あなたたちを縛る世間からあなたたちを解放する救い主、あなたたちを罪から救い出す救い主が生まれた。天使は羊飼いだけに福音を伝えました。

健康な人に医者は不要です。両手いっぱいに持っている者に、贈り物は不要です。多くの愛情ある言葉を掛けられている人に、それ以上の「良い言葉」は不要です。持たざる者・持っている物さえ奪われている者、その人たちのためにイエスという命・人生・生活が「贈りもの」とされ、「イエスがあなたたちのために生まれた」という福音が与えられたのです。

「栄光」という言葉は、神がそこに居るということを遠回しに語るための言葉です。神の栄光が羊飼いを取り囲んだという神話的な言い方は、その場だけが物理的客観的に明るくなったと文字通りに考えなくても良いでしょう。羊飼い以外の人々が仮に近くにいたとしても、何が起こったかはさっぱりわからなかったかもしれません。羊飼いだけが、神の意思を知り、神からの伝言を聞いた。信仰とは実に主観的な出来事です。客観的神存在の立証によって人は神を信じるのではありません。日常の労働/生活の中でふとした時に、「神を見、神の声を聞き、神に触れた気がする」、「神がわたしを愛しているということを感じた」、これだけで良いのです。

【救い】

では聖書の語る救いとは何なのでしょうか。キリストはどのようにしてわたしたちを救うのでしょうか。ヒントは飼葉桶にあります。人間扱いされない形で、赤ん坊のイエスは動物たちの食器の中に、動物たちの餌と共に寝かされました。聖書の語る救いは、人間扱いされない人が神によって「あなたも尊重されるべき」と人間扱いされることです。羊飼いは、飼葉桶がしるしであるということを正しく理解しました。戒律によって排除しない救い主、自分たちの苦労を引き受ける連帯保証人である救い主を見つけ出して、彼ら彼女たちは喜びました。信仰による救いは、毎日この神から力を受けて生きることです。

すると天使たちと同じように、羊飼いたちにも神賛美が生まれます。神をほめたたえる言葉が口をついて出て来ます。キリスト教の教える救済は、「罪からの救い」なのだとよく言われます。罪とは利己的な精神や言動、支配欲です。さきほど紹介した下品な言動も罪の一形態でしょう。羊飼いたちにもその傾向はあったと思います。弱い者がさらに弱い者を叩くという構図。たとえば羊飼いが徴税人を差別することもあったでしょう。その羊飼いの口が、神をほめたたえる道具に変えられました。利他的な生き方の始まりです。

飼葉桶の赤ん坊は、長じて戒律をあえて破り、社会の片隅に置かれた人と連帯し、何も罪がないのに死刑囚として十字架で殺されます。下品下劣な精神言動がイエスに浴びせられ人間扱いされずに殺されました。キリスト信徒は、この虐殺を自分事として、時空を超えた形で悔い改めます。わたしの微細な攻撃がイエスを殺したと感じます。世界の悲惨な出来事を見聞きしたときも同じように感じる人は、罪ということを知っています。信仰による救いとは、この類の良心・品位の目覚めです。そして、信仰による救いとは神をほめたたえることによってやっと維持できるものです。品位に目覚めた者は毎日自分が罪深いことを自覚します。この罪深い利己的な者の代わりにさえも、利他的な愛の神がイエスを与え、神が神の子の生命を全ての人に配り与え、「他の誰も死ぬ必要がない、あなたたちは生きよ、復活の永遠の命を与えよう」と言われています。悔い改めをくぐり抜けた品位溢れる感謝が、素朴な神賛美となります。

【今日の小さな生き方の提案】

救いは人生を豊かに生きるために不可欠のものだと思います。周囲の闇にうずくまりながらも、自分にしか見えない形で神と神の子を見出すことができるからです。自分の醜さを率直に認めながらも、神の愛を信じて、なお自分の人生を諦めないで済むからです。文化人類学上、歌を歌う集団は滅びないそうです。礼拝に集い、神への讃美歌を思い切り歌うわたしたちは、滅びずに救われます。ハレルヤ、インマヌエル、アーメン。共に歌いつつ歩みましょう。