今日の食べ物 マタイによる福音書6章11節 2026年1月18日礼拝説教

【はじめに】

主の祈りの「第四祈願」が本日の箇所です。第三祈願までは、「あなた」(神)という言葉が目立っていました。あなたの名(第一祈願)・あなたの支配(第二祈願)・あなたの意思(第三祈願)という具合です(9-10節)。文語訳が「御名」「御国」「御心」というように「御」と翻訳している部分です。日本語は敬語によって人称を示す言語(いちいちyourなどと付けない言語)ですから、上下がはっきりしている場合とても良い翻訳となります。

第四祈願からは、「わたしたち」が目立ちます。文語訳においては、「我らの」が一回しか訳出されていませんが、ギリシャ語原文においては「わたしたち」が二回登場します(私訳参照)。第三までは天/神に関する祈り、第四からは地上/人間社会(わたしたち)に関する祈りと、しばしば分類されている通りです。この意味で、地上に関する事柄の第一が「パン」「食べ物」であることは示唆深いものです。人が神に祈るべきことの第一は、食べ物です。わたしたち人間社会で最も大切なことはパンの分配です。主の祈りの全体構造が、そのことを教えています。

 

11 わたしたちの来る日のパンを、あなたはわたしたちに今日与えよ。

 

【来る日のパン】

来る日の」というギリシャ語の単語は、聖書の中でも聖書外の発掘でもほとんど登場しないので、意味の確定が難しい言葉です。単語の意味の特定は、用例でなされるものだからです。古代以来、大激論が交わされている曰く付きの単語です。「この日の」「明日の」「日々の」「必要な」などなど提案されています。文語訳「日用の」は「日々の」と「必要な」を合わせたような翻訳です。田川建三という学者の意見に従って訳しました。言語学的には、これが最も良いと思います。「来る」という言葉から派生していると採ることが説得的だからです。

問題は「来る日」の意味するところです。味噌は、「来る日」が「明日」に限定されないというところにあります。この祈りを祈った時以降直近で食べるパンが、「来る日のパン」となります。たとえば早朝の祈りであり、朝食の前に祈った場合、朝食が「来る日のパン」です。この場合、わたしたちの感覚に基づくならば、そのパンは明日のパンではなく本日のパンです。またたとえば、寝る前の深夜に祈り、朝起きてすぐに朝食を食べた場合、その朝食は「来る日のパン」です。この場合、わたしたちの感覚によればそのパンは明日のパンです。一日が日没から始まるユダヤ人の時間感覚であっても大差はありません。次の食卓に到来するパンが、「来る日のパン」ということです。

この表現の背景には人々の切羽詰まった状況があります。古代社会は総じて大多数の人々が貧しい社会、比較的多くの人々が飢えていた社会です。今ほど農業が発達していなかったからです。次の食卓にパンが到来するかどうかは、本当に不透明でした。早朝から働き場を得ようとしても、誰からも雇われない、その日の賃金を得られない人も多くあったことが、イエスの譬え話からも推測できます。当時職にありつけた健常者である成人男性に限っても、厳しい就労状況なのだから、ましてや障がい者・女性・子どもはあっという間に貧困・飢餓の状況に陥りやすかったことでしょう。

朝起きて「来る日のパンを与えよ」と祈る人は、昨晩の夕飯も食べていない、かつ、今朝の朝飯も午後の昼食も食べることが保証されていない人かもしれません。そのような人々が「主の祈り」を祈るのです。山上の垂訓の聞き手は、まさに「来る日のパン」に事欠く人々でした。4章24-25節によれば、この人々は病気や心身の弱さのために失業を強いられた人々や、その人々を介護しイエスのもとに連れて来た人々(介護家族や休職中の人々)です。高齢者も子どもも居たことでしょう。女性、やもめ、非ユダヤ人、障がい者も集まったことでしょう。明日のパンどころか、今日必要なパンを必死に祈り求めている人々です。

イエスがこの祈りをこの人々に教えた時、人々は大喜びしたと思います。宗教家たちのような宗教用語ではなく、人々の理解しやすい平たい言葉であり、人々の心情に届く祈りであり、イエスが人々を愛していることがよく伝わる祈りの言葉だったからです。あなたたちの人生の苦労はよく知っている。毎日の生活の苦しさも分かる。だから、正にそれだからこそ、日常を棄てたり人生を諦めたりするな。次の食卓のパンを神に素直に求めよ。善人の上にも悪人の上にも雨を降らせ太陽を昇らせる神、天候を司って小麦畑を豊作にする神に祈れ。あなたたちが祈る前から、あなたたちの「困った」を知っている神に祈れ。「あなたが与えよ」と求めよ。

 

【わたしたち】

イエスは近しい弟子たちだけではなく、この食い詰めている人たち、困っている人たちを含めて「わたしたち」と呼びます。驚くべき包容・包含・包摂です。この広く深い懐を示す表現は、わたしたちに生き方の方向性を示しています。「わたし」から「わたしたち」への方向転換です。

わたしが稼いだ金で買ったパンは、「わたしのパン」なのでしょうか。店で買ったとすれば、その店のおかげでパンは目の前にあるのです。その店にパンを運んだ人のおかげとも言えます。さらに遡ると、そのパンを製品とした人、さらに遡るとそのパンの原料を作った人、小麦畑を耕した人、様々な人々の労苦が目の前のパンの背景にあります。人間社会があって初めてパンは目の前にあります。これは、わたしの労働とその対価だけではありえない現象なので、「わたしたちのパン」です。

「わたし」中心、自分ファーストを、聖書は罪と呼びます。「Sin(罪)の真ん中にI(わたし)がある」とはよく言われます。言い得て妙、罪とは自己中心・利己主義です。しかし、いきなり利他的に生きよと言われてもハードルが高すぎます。「隣人のために生きる」などという言葉も、いささか胡散臭い。正直さに欠ける点や「上から目線」も垣間見えます。「わたし」中心を少しずつ後退させていく小さな一歩が、「わたしたち」への変換です。自分を含めながら、それ以外の人々を増やすだけなので、自分は犠牲になりません。

独占と集中から、共有と分配へ。主の祈りは人間社会の理想を指し示しています。「わたしたちのために」与えられた「わたしたちのパン」は、わたしたち一人ひとりのために公平に分配されるべきです。

ロシアのウクライナ侵攻はウクライナが「一つの世界の穀倉だった」ことを教えました。わたしたち日本の物価高の一因がここにあります。ガザの子どもたちの飢餓は、「わたしたちのパン」を、真にパンを必要としている貧しい子どもたちに分配できないという痛みです。大国(またはその背後にいる国際的な大資本)による資源の独占合戦は、「わたし」中心の典型例です。自分も他人も犠牲にしないかたちで、「わたしたちのために」「わたしたちのパン」をどのように適切に再分配すべきか、世界中の人々が真剣に考えなくてはならないと思います。

 

【今日…与えよ】

ルカ福音書11章3節と異なる表現は、「今日(一単語の副詞)」と「与えよ(点的)」です。ルカ福音書の主の祈りは、「日毎に(三単語の副詞句)」と「与えよ(継続的)」の組み合わせを採ります。マタイ福音書の方が人々の切羽詰まっている状況を良く言い表しており、それだから、マタイの言葉使いがイエス本人の言葉づかいと推認されています。前に述べた通り、「来る日のパン」という言葉は、パンが実際に来る時点が曖昧であり、パンが来ない日すらもありえます。そこで、「今日…与えよ」という祈りが、重ねて切実に言われなくてはいけません。来る日も来る日もパンを与えようとしない、富んでいる人々の悪意ある振舞いを許さないためです。自分のために大きな倉を建て、そこに自分のために小麦粉を貯蔵しようとする金持ちは実際にいたのでしょう。「わたしのパン」から「わたしたちのパン」への方向転換ができていない人が、人々をさらに困らせていました。イエスが譬え話で批判している通り、そのような生き方は愚かです(ルカ12章13-21節)。

与えよ」が点的動作(アオリスト時制)であることは、もう一つ重要なことを教えているように思えます。一回一回の祈りは、すべて点の祈りであって、線の祈りではないということです。点的に祈れとイエスは勧めています。一回の祈りは一回で終わります。同じ内容の祈りと願いを次の日にしたとしても、別の動作と考えた方が良いと思います。一日の苦労は一日で終わるものです。一つの出来事は、二度と繰り返さない出来事として終わります。唯一無二だから大切だと言えます。それも大事です。それと同時に、途切れるものなのだから無闇に繋げて引きずらないということも大事です。

確かにわたしたちは同じ祈りの課題を継続的に長い時には何年にも渡って祈り続けることがあります。そのような時、特に祈り願ったことと別の出来事が起こった時、わたしたちはどう思うのでしょうか。「神は酷い方だ。こんなにも熱心に祈り続けたのにもかかわらず、祈りを聞かないとは」と、神に対して非難したくなるのではないでしょうか。この発想は信仰に悪循環をもたらします。祈りの継続は結果を保証しません。結果は神の自由に属します。

むしろ今日の祈りが今日実現しなかったと、一日一日で区切った方が建設的です。信仰は一瞬の祈りの集積です。

 

【今日の小さな生き方の提案】

統一協会に苦しめられている山上被告のことを思い起こします。彼の母親は「パンの重要性」を軽んじるように仕向けられました。あの世の救いが、この世の生活よりも上だと信じ込まされ、子どもたちは貧困を強いられたのです。教会生活により、教会員の日常生活が経済的に困窮させられてはいけません。献金が自由であることの根本理由です。わたしたちは素直に、生活苦を嘆き、来る日のパンを神は与えよと求めてよいのです。

先ほど主の祈りを祈りましたから、「わたしたちの来る日のパン」は、目の前にある主の晩餐のパンです。このパンは「わたしたち」がどの範囲まで及ぶか、信仰的想像力・射程距離を広げてくれます。今日、この少量のウエハースを食べて生命を維持することができる人/このちっぽけな一片をもってでも生命を維持したいと願う人は誰なのでしょうか。その人々を「わたしたち」の中に含めていく祈りが、誠実に瞬間的になされるようにと願います。