【はじめに】
ミディアン人への虐殺が終わり、捕虜とした人間、略奪した家畜(財産)の分配が始まります。現代の人権感覚からすると理解困難な記事です。何の模範もここから生まれません。宗教の名において、戦争・略奪をすることからは反面教師的な教えしか出て来ません。「その略奪、その軍の民が分捕った分捕り物の残り」(32節)とあるように、戦場では兵士は何でも略奪し放題だったようです(9節)。自分のポケットに入りきらない残りの部分が、共同体のためにささげられます。普段国内で違法であることが戦時国外では見逃されるということは、今でも起こっています。戦争というものの一つの本質です。
私利私欲の余りがイスラエル全体に分配されます。余りの部分も他人の財産だったものです。「殺すな」「盗むな」「貪るな」といった十戒を、ミディアン人に適用していないことをとても残念に思います。戦争の本質の根本は国を挙げての貪りだと思います。大植民地時代の欧州列強(西葡蘭英仏ら)から、現在の三大国(米中ロ)の振舞いに至るまで、武力を使用/利用して領土を拡張し、他人の物を貪り取り、身勝手な分配ルールを決めて収奪することが横行しています。帝国主義と言います。その際に被占領地を必ずと言っていいほど同化させ、人をも盗みます。日本はそのあり方を反省して、1945年以降新しい国のあり方を始めました。だからわたしたちは本日の聖句を文字通りに鵜呑みするのではなく、有意義な部分を膨らませて読み解くべきです。「税」「生命」「レビ人たち」に焦点を絞り、そこを膨らませます。
25 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。曰く、 26 その捕虜の略奪の頭(数)を、その人間とその家畜において、貴男とその祭司エルアザルとその会衆の父たちの頭々は上げよ。 27 そして貴男はその略奪を折半せよ。その戦闘の諸々の略取物(を)その軍のために出て行った者たちとその会衆の全ての間で。 28 そして貴男はヤハウェのための税(を)、その軍のために出て行ったその戦闘の男性たちから取り立てよ。五百の生命(に)一、その人間から、またその家畜から、またそのロバたちから、またその羊から。 29 彼らの半分から貴男らは取る。そして貴男はその祭司エルアザルにヤハウェの捧げ物(を)与える。 30 そしてイスラエルの息子たちの半分から貴男は取る。その五十から一掴み(を)、その人間から、その牛から、そのロバたちから、またその羊から、その家畜の全てから。そして貴男はそれらを、ヤハウェの宿り場の守るべきことを守り続けているレビ人たちに与える。 31 そしてモーセとその祭司エルアザルは、ヤハウェがモーセに命じたのと同様に、なした。 32 そしてその略奪、その軍の民が分捕った分捕り物の残りは、羊六十七万五千(匹)となった。 33 また牛七万二千(頭)、 34 またロバ六万一千(頭)、 35 また雄の寝ること(を)知らない女性たちのうちの人間の生命、生命の全ては三万二千(人となった)。 36 そしてその半分がその軍において出て行った者たちの分け前となった。その羊の数(は)三十三万七千五百(匹)となった。 37 ヤハウェのための税はその羊のうち六百七十五(匹)となった。 38 またその牛は三万六千(頭)、そしてヤハウェのためのそれらの税は七十二(頭)、 39 またロバたちは三万五百(頭)、そしてヤハウェのためのそれらの税は六十一(頭)、 40 また人間の生命一万六千(人)、そしてヤハウェのための税は、三十二の生命。 41 そしてモーセは、ヤハウェがモーセに命じたのと同様に、税・ヤハウェの捧げ物をその祭司エルアザルに与えた。 42 そしてモーセが折半したイスラエルの息子たちの半分のうち、その男性たち・諸々の軍のうち、 43 そしてその会衆の半分はその羊のうち三十三万七千五百(匹)となった。 44 また牛は三万六千(頭)、 45 またロバは三万五百(頭)、 46 また人間の生命は一万六千(人となった)。 47 そしてモーセはイスラエルの息子たちの半分から、五十のうち一掴み(を)取った。その人間から、またその家畜から。そして彼はそれらをヤハウェの宿り場の守るべきことを守り続けているレビ人たちに与えた。ヤハウェがモーセに命じたのと同様に。
【税(メケス)】
旧約聖書の中で民数記31章にだけ用いられる特別な単語があります。「税」(メケス)です(28・37・38・39・40・41節)。この珍しい単語はアッカド語という古代西アジア世界の国際公用語からの外来語です。アッカド語miksumをヘブル語ではメケスと音写したのです。Internetをインターネットと音写するのと同じです。miksum/メケスは行政用語・政治経済用語です。税金・税制という意味で、まったく宗教的な意味合いを持っていません。
「主にささげる分」(28節等)と新共同訳は、「税」という直訳を避けています。「神への税」という観念が不思議だったからでしょう。世界が「関税王」に振り回されている現在、また消費税や社会保険料が取りざたされている現在、この聖句が与えられたことに不思議な導きを感じました。「皇帝のものは皇帝に」(マコ12章17節)。税とは何か、国家の役割とは何でしょうか。
国家権力は、住民から税を徴収し、税の総額を住民に再配分する権限を、住民に委ねられています。税の再配分のための組織が国家です。誰を権力者にするかによって再配分の仕方が変わります。身分制・王制のもとmiksumは貴族には免除されていました。平等な民主制のもと富者の特権は剥奪され、「福祉国家」の確立によって貧しい人の税こそが軽減され免除されます。そして集められた税は、国家権力が全住民に最低限保障すべきことのために再配分します。医療・福祉・教育・水光熱・公共交通・統治機構・治安などなど、いわゆる行政サービスです。
キリスト者が考えるべきは、主イエス・キリストならばどのように集め、どのように再配分するだろうかということです。
【生命(ネフェシュ)】
多くの翻訳で訳出されていない「生命」(ネフェシュ)という言葉が鍵を握ります(28・35・35・40・40・46節)。民数記の時代、人権思想は未発達です。人権思想は800年ぐらい前から、動物たちの生きる権利については200年ぐらい前から徐々に発達しているからです。非イスラエル人女性たちにも、牛・ロバ・羊にも、生きる権利があるなどと考えられていないはずです。そこで多くの翻訳は、訳出しにくいネフェシュという単語を無視します。
わたしたちは「生命」「魂」「全存在」などと訳されるネフェシュという単語をあえて重視し、そこに現代的な意味を吹き込んで捉え直したいと思います。天地創造物語において、ヤハウェ神が鼻から息を吹き入れると人間が生けるネフェシュになったと語られているからです(創世記2章7節)。つまりヤハウェという神はすべての生命の創り主です。またヤハウェは、「痛むネフェシュ」である信徒を助ける救い主です。有名な詩編42編が「わたしの魂(ネフェシュ)」の救い主を告白している通りです。「魂」と訳されているところをネフェシュに置き換えて読んでみましょう。
本日の箇所においては、人間扱いされず痛み苦しみ呻き嘆き、なお神を慕うミディアン人女性捕虜たちが、図らずもネフェシュと表現されています(35・40・46節)。さらに動物たちもネフェシュだと記されています(28節)。著者も翻訳者も無自覚であった言葉使いに、わたしたちは目を注ぎます。人間も動物も、生命の主であるヤハウェが創ったネフェシュです。「ヤハウェのための税」は、すべてのネフェシュたちのために再配分されるべきです。入口のところで特定のネフェシュを税とする考え方を斥けましょう。なぜならヤハウェは全てのネフェシュを創ったからです。出口のところで税を全てのネフェシュのために用いるという考え方を採りましょう。なぜならヤハウェは痛んでいるネフェシュを保護したいからです。主イエス・キリストは、すべてのネフェシュを生かすため、自治体や国家や世界を用いる方です。
【レビ人たち】
本日の聖句は、すべてのネフェシュを尊重すべき世界において、教会に一定の役割があるということを教えているように読めます。「ヤハウェの宿り場の守るべきことを守り続けているレビ人たち」(30・47節)という表現に着目します。レビ人たちは祭司と共に働く宗教者たちです。略奪の一部で宗教者たちの生活を支えることには辟易としますが、比喩的に捉えてみましょう。すなわち、どのような社会にも宗教者たちの生きる余地を十分の一ぐらい設けるべきなのだ、と。宗教というものの独特の貢献を認め、独特の役割を社会の中に埋め込んだ方が良い、と。レビ人たちの取り分が示唆する事柄です。
ではレビ人たちの役割、独特の任務とは何だったのでしょうか。1章53節に驚くべき任務が記されています。「ヤハウェの宿り場」の周りに常に宿営し、ヤハウェの怒りがイスラエルの全会衆に生じないようにすることが、ここで言う「守るべきことを守り続けている」という任務です。一つの任務は、ヤハウェがそこに居ると信じられている場所を、祭具その他の管理も含めて維持するという仕事。しかしそれと同時に、二つ目に信仰共同体を守るという仕事もあるということです。正義の神ヤハウェが、民のなす悪に憤り、民を正し、民を殺すことがないように宥める係です。柔和で朴訥なモーセは究極のレビ人です。モーセと同様に民のために執り成し祈ることが、また、存在そのもので神と民の間に入る「緩衝材」になることが、レビ人の任務です。
守り続けている人という役割は、カインが放棄した任務です。「わたしは弟の番人(守り続ける人)か」(創世記4章9節)と言い放ち、彼は共同体から追放されました。守り続けている人とは羊飼いです。徹夜で群れの番をし、投石器や杖で野獣から羊を守り、迷子の子羊を探し出す良い羊飼いです。教会は誰からも弁護されない人を庇って守り続けるという役割を社会の中で担っています。教会はネフェシュを匿い、罪を覆う「逃れの町」です。
【今日の小さな生き方の提案】
キリスト者として生きるということは、ある種の「板挟み」を引き受けることなのかもしれません。神をも畏れない振舞いをする人がこれ以上罪を犯さないようにと祈ることもその一つです。お説教したくなるような内容の相談話も、いったん受け止めて聞くこともその一つ。ハラスメント被害を受けている現場で、「積極的な傍観者/第三者」となってできる範囲で被害者を庇うこともその一つ。これらの板挟み(執り成しの祈り、自らを緩衝材として捧げる行為)は、自分自身のネフェシュを削ります。キリスト者はネフェシュの救いを経験しているので、この消耗に耐えられるのだと思います。軽やかに爽やかに飄々と、神と隣人の間、隣人と隣人の間に立つレビ人になりたいと思います。
