【はじめに】
本日の箇所はミディアン戦争の最後の部分です。戦争に勝った指揮官たちがモーセと大祭司エルアザルのもとに来て、戦利品の中からヤハウェ神への捧げ物をしたというのです。繰り返されている単語(「金」「男性」「共なるところ」)や、神学的に重要な鍵語(贖う、記念)に注目して、わたしたちの信仰に役立つことを引き出した血と思います。それはもっぱらでした。
48 そして、その軍の部隊ごとに任命されている者たち、その諸々の千人の長たち、またその諸々の百人の長たちは、モーセに向かって近づいた。 49 そして彼らはモーセに向かって言った。貴男の僕たちは、わたしたちの手の中にある、その戦闘の男性たちの頭を上げた。そしてわたしたちから男性は欠けていなかった。 50 そしてわたしたちはヤハウェの供え物〔コルバン〕を近づけた。金の装具、腕輪と腕覆い、印章、耳輪と首輪(を)見出した各人が、ヤハウェの面前でわたしたちの生命に関して贖うために。 51 そしてモーセとその祭司エルアザルは彼らと共なるところからのその金を取った。造作の装具の全て(を)。 52 そして金の全ては、彼らがヤハウェのために上げた捧げ物となった。一万六千七百五十シェケルが、その諸々の千人の長たちとその諸々の百人の長たちと共なるところから(あった)。 53 その戦闘の男性たちは各人が彼のために略奪した。 54 そしてモーセとその祭司エルアザルは、その諸々の千人とその諸々の百人の長たちと共なるところから、その金を取った。そして彼らはそれを会見の幕屋に向かって運んだ。ヤハウェの面前でのイスラエルの息子たちのための記念〔ジッカローン〕。
【人間を数えるということ】
「戦闘の男性たちの頭を上げた」(49節)は、生き残った男性兵士たちの頭数を調べたという意味でしょう。人口調査が徴兵制と結びついていたことが分かります。また、「人頭税」という言葉がある通り、人の頭数は徴税と結びついています。人間の体の部位のうち一つしかないものが、人間の数を示す表現に残っています(口、頭)。
旧約聖書の世界では、人間の数を数えることや、数えさせること、数えられることは、とても不吉な行為と考えられていました。たとえば、ダビデ王が統治している民の人口調査をした時に、国中に疫病が蔓延するという災害がヤハウェの裁きとして起こっています(サムエル記下24章)。王が人口調査をする目的は、徴税と徴兵です(サムエル記上8章)。王を立てることがそもそもヤハウェのみが王であるイスラエルに馴染みません。ましてや王が王のために行う人口調査は批判の対象です。そして災いは、数えることを命じた者にも、命じられ実行した者にも、数えられた者にも襲い、生命を奪います。
イスラエルでは人間の数を数える行為をとても慎重に行うこととしました。それが「生命を贖う儀式」です。
【贖うとは】
出エジプト記30章11-16節に、人口調査の際の献納物規定が記されています。人口調査に協力した人に災い・生命の危機が振りかかる前に、予防として「生命の代償金」を神に捧げるというのです。あなたたちの「生命に関して贖うために」(同15・16節)と、本日の50節とまったく同じ表現が用いられています。災いが振りかからないように前もって規程の献納物を捧げる行為を、生命に関して贖うと表現していたのです。20歳以上の男性一人当たり0.5シェケルの銀です。
モーセとエルアザルは、戦闘に従事した男性たちの頭数を調べることを、千人隊長・百人隊長に命じていません。彼らが自発的に行なったことです。彼らは男性兵たちが誰も死ななかったということを確信するために(この事実はミディアン戦争というものが一方的虐殺であったことを示唆します)、生きている兵士たちの数を数えたのでしょう。喜び勇み過ぎた勇み足です。この場合、数えた者たちと数えられた者たちに、生命の危機が生じる可能性があります。対象者の数は一万二千人に及ぶ男性たちです(5節)。
千人隊長・百人隊長は、戦利品の中で最も高価な「金」(50・51・52・54節)を「ヤハウェの供え物」(50節)とすることを兵士たちに命令しました。金製の服装品が一般的に普及していたことは、有名な「金の子牛事件」でも分かります(出エジプト記32章)。また、金製の服装品が戦利品に好まれることは士師記8章24節以下にも記されています。献納物となった金の総重量は「一万六千七百五十シェケル」(52節)、およそ190キロにもなる重量の金です。出エジプト記30章にある、生命に関する贖い規程に定められた一人当たり銀0.5シェケルに勝る量です。一人当たり金1シェケル以上だからです。よっぽど誰も死にたくなかったのでしょう。
【男性たちの連帯感】
「共なるところから」〔メエト〕という繰り返し(51・52・54節)、また、「男性/男性たち/各人」〔イーシュ〕という繰り返し(49・50・53節)が目を引きます。この二つの言葉群は、モーセ・エルアザルという指導層と、千人隊長・百人隊長という中間管理職と、現場の兵士たちとの強い連帯感を示しています。
威張る男性のみの集団に対して「ボーイズクラブ」と評する言葉があります。男子寮のような文化、男性たちだけが自分たちにのみ通じる言語や風習で振舞い、それ以外の人々を寄せつけない独特の連帯感を示す状態を批判する皮肉です。日本のジェンダーギャップ指数を押し下げているのは、女性の指導者が少ないことによります。日本は威張る男性たちが支配している国なのです。
聖書の世界においても男性たちが支配的です。男性の千人隊長たちは、戦闘の男性たちとも、男性であるモーセとその甥エルアザルとも、「共なるところ」(51・52・54節)にいることを自覚しています。千人隊長たちは、兵士たちに非常に多くの献納物を捧げさせている、つまり兵士たちに犠牲を強いているように見えますが、実は抜け道があります。53節にあるように「その戦闘の男性たちは各人が彼のために略奪した」のですから、献納物以外に自分の分け前をせしめていたのです。新共同訳が行間を読んで正確に意味を捉えて訳している通りです。
男性たちの男性たちによる男性たちのための互助は、それ以外の性を数に入れないので、今日批判されなくてはならないと思います。
【記念】
以上のような批判はあるとは言え、「贖い」ということの深い意義や、贖いや救いと関係する「記念」という言葉は、新約聖書に通じる大切な考え方です。わたしたちの持つキリスト信仰の基礎となっている考え方ですから、最後にこの点について深掘りしていきたいと思います。
人口調査は神に裁かれるに価する罪だから、殺されないための予防に贖い代金が必要であるという論法は、イエス・キリストの贖罪とまったく同じ論法です。新約聖書は旧約聖書を基礎に置いています。旧約聖書は新約聖書の前提をつくっています。ちなみに「供え物」(50節)はコルバンという単語で、マルコによる福音書7章11節にも登場しています。
キリストは二千年前に、「わたしたちの生命に関して贖うために」、予防として十字架で神へのコルバンとなりました。それはわたしたちが、しばしば隣人の生命を、単に頭数として数える、あるいは自分の目的のために数えるという罪を犯すからです。数を数えること、事柄を数値化することに対する批判は、現代に生きるわたしたちには大きな挑戦です。というのも、数値化やデータ分析によって技術面の進歩・進展・改善が見込まれることは自明だからです。わたしたちはそれに慣れ親しんでいます。人口動態は、将来の社会を予測するために有益です。
しかし、どうなのでしょうか。日本社会においては、人間と人間が人格的に触れ合い関わる職種があまり尊重されていないように思います。たとえば介護や教育の分野です。頭数では解消されえない人格というものが、すべての個人にあり、一人の人の中に小宇宙のような人格のネットワークがあります。その一人を、一という数にくくることへの抵抗が必要です。ましてや教会という信仰共同体は、人数や献金額の多さという考え方ではなく、個人の魂の救いという考え方を重視すべきでしょう。数ではなく人格、ここに立つようにと十字架のキリストは教えています。わたしたちが数を数えて一喜一憂する誘惑に陥らないようにと贖い主は祈っています。それが魂を貧しくさせる罪だからです。
「記念〔ジッカローン〕」(54節)は、アナムネーシスというギリシャ語に訳しえます。主の晩餐の制定文にある言葉です。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(コリントの信徒への手紙一11章24・25節)。「記念」は神の思い出しです。神がご自身救った者たちを、これからも覚えて守り続けるための「ひと・もの・こと」です。「もの」で言えば石柱を積んだりします。「こと」で言えば出エジプトという出来事を記念することもあります。「ひと」で言えばキリストです。イエスは、千人隊長たちが捧げた夥しい金品ではなく、生身の体・生命を、生き方や人格を示しながら十字架で捧げました。それは神の子イエスを信じる者が、一人も滅び裁かれることなく、二度と人間を数値化することなく、生命を得るため、豊かな人生を送るためです。わたしたちは自らの人格をないがしろにする力から、人格を尊重されるという救いに与ったのです。キリスト自身が救いの「記念」です。
【今日の小さな生き方の提案】
わたしたちはどこからどこへと歩むのでしょうか。人格が尊重されない社会において、イエス・キリストに触れられ、「あなたはわたしのものだ」と人格的に語られて教会に連なるわたしたちは、救いが贖いだったということを毎週思い出すべきです。そこからわたしたちの歩みは始まったのです。イエスは二千年前からわたしの罪のために自らを捧げていたことに気づかされ、この贖い代を自分のためのものと受け取ることが、信仰生活の初めです。
その感謝と応答の思いを継続するために、「記念」として主の晩餐式が毎週礼拝の重要な一要素として執り行われています。この儀式は、人の頭数を数えず、誰とも比較せず、ただ自分と神との人格的な関係のみにおいて行われるべきものです。今この場に居ることで、自分の人格が尊重されているということを感じられる方は、パンと葡萄酒をお受け取り下さい。
