【はじめに】
主の祈りの「第六祈願」が本日の箇所です。同じ内容がルカによる福音書11章4節後半にも記載されているので、前回同様に比較をしました。下線を引いた第二文がマタイ版にのみあります。翻訳の底本としている、4世紀のバチカン写本が第二文を欠いています。第二文を持つ重要写本もありますが(アレクサンドリア写本)、福音書においてはバチカン写本に劣る写本です。少し遅れて書かれたアレクサンドリア写本が第二文を付け加え、マタイ版とルカ版とを整合させようとしたことは明白です。つまりイエスが語った元来の第六祈願は、マタイ版とルカ版に共通する第一文の方です。元来のイエスの言わんとする事柄と、マタイ教会がどうしても強調しておきたかった事柄と、両方を読み解いていきたいと思います。
なお、主の祈りの頌栄部分(文語訳「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」)は、バチカン写本にもアレクサンドリア写本にも存在しません。頌栄部分は4世紀よりも後の中世の写本に登場する部分です。教会の礼拝式文が発展していく中で主の祈りも成長し続けたことが分かります。そしてその成長をわたしたちの教会も継承保存しているので、頌栄部分も含めて礼拝で唱和しているということです。
聖書は礼拝共同体を導きます。そして礼拝共同体は聖書を成長させます。この力動、この循環に聖霊の導きをみます。
マタイによる福音書6章13節
そしてあなたはわたしたちを試みの中へと運び込むな。むしろあなたはその悪からわたしたちを救い出せ。
ルカによる福音書11章4節
そしてあなたはわたしたちを試みの中へと運び込むな。
【イエスの教える祈り】
「そしてあなたはわたしたちを試みの中へと運び込むな」という第一文は、イエスが群衆たちに向かって教えた祈りの根幹です。神に向かってこのように祈ることをイエスは求めています。では「試み」(ギリシャ語ペイラスモス)とは何か、そして「運び込む」(ギリシャ語エイスフェロー)とは何なのでしょうか。この一文がヘブル語やアラム語を用いたイエス元来の言葉と想定し、ギリシャ語からさらにヘブル語に遡ります。「試み」はマッサーという名詞、「運び込む」はボーという動詞の使役形(来させる、携える)と推測します。
ヘブル語マッサーは地名でもあります(出エジプト記17章7節)。同17章1-7節の物語において、ヤハウェの神をイスラエルの民が試すことが戒められています。マッサー(試みの意)という地名は、信徒が神を試すようなことをしないために名づけられたのです。「貴男らが、かのマッサーにおいて試したのと同様に、貴男らはヤハウェ・貴男らの神を試してはならない」(申命記6章16節私訳)とある通りです。そしてイエスは、サタンからの誘惑(ペイラスモス)に対して申命記6章16節を引用しています(マタイ4章7節)。
「試み」とは、神を信じている者たちが神を試す行為です。「あなたは本当に神なのか。もし本当に神であるならば、わたしの設定する以下の行いをしてみよ。そうすれば神として認め、信じてやろう。」試験問題を作成し合格点を設定する教師の立場に自分を置き、神を自分の生徒や受験生の位置に置くことが「試み」です。そしてこの態度は、イエスを十字架に追いやっていたぶりながら虐殺した人々の言動と重なります。「他人は救ったのに自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう」(27章42節)。ここに罪というものの一つの典型があります。自分を神より優る者とみなすこと、そして自分を全ての人よりも優る者とみなすことです。隣人への礼を欠いた品の無い言動は、神を試す態度と地続きです。
聖書の面白いところは、この神を試す行為を、他ならない神が導いているという表現にあります。「あなたはわたしたちを試みの中へと運び込むな」は、神が信徒を試みの中へと持ち運び、連れ込み、来させる(使役)ことを前提としています。神を試しているように見えるその時、実はわたしたちは神に試されています。
一つは、わたしたちが高慢になっているかどうかを神は試します。先ほど申し上げた神と人とを見下すような下品な人間になっていないか、神は常にわたしたちを試す方です。さまざまな成功体験において、同時に神は試験を実施します。わたしたちはどんなにこの世的な成功を収めても謙虚であり続けなくてはなりません。成功は大きな誘惑(ペイラスモス)なのです。
二つ目。高慢とは逆に神はわたしたちが卑屈になっているかどうかをも試します。成功とは逆に、恥ずかしいほどの失敗であったり、手ひどい挫折であったり、目の前が真っ暗になるようなどん底の絶望状態にある時、同時に神は試験を実施します。「試み」(ペイラスモス)は「誘惑」という意味でも、「試練」という意味でも用いられます。パウロの書いたコリントの信徒への手紙10章13節に次のようにあります。「さて、その神は信実。その彼はあなたたちが(耐えることの)できない仕方で試みられることを許さないだろう。むしろ彼は試練(ペイラスモス)と共にその出口をも作るだろう。耐えることができるために」(私訳)。
神は人生の苦難・辛酸を試練としてわたしたちに与える方です。その人が耐えられない試練を、神は与えません。その試練と共に、試練を突破する出口を同時に作っているからです。だからわたしたちは腰を屈ませられたり壁にぶつかったりしていても卑屈になりません。絶望もしません。神が苦難のど真ん中を突き抜ける出口を作る方だからです。乗り越えられない試練を信実な神は信徒には与えない、「あなたはこれを信じるか」と、神は試みています。
とは言え、苦難は無いにこしたことはありません。誰がこのような試験を喜んで受けるでしょうか。イエスは第六祈願において素直な祈りを勧めています。「人生の苦しみの中へと突き落とさないでほしい」という祈り願いをわたしたちは神に捧げても良いのです。旧約聖書のヨセフが異母兄たちによって身ぐるみ剥がれて半殺しにされ穴に突き落とされるような経験を誰が望むでしょうか。わたしたちは、ある意味で予防的に、「良く言えば試練かもしれないけれども苦難の中に突き落とさないでほしい」と、素直に願うべきです。
【マタイ教会の強調点】
第二文「むしろあなたはその悪からわたしたちを救い出せ」は、マタイ版のみにある、マタイ福音書の強調点です。マタイ福音書においては、「救い出す」(ギリシャ語ルオマイ)という動詞は、他に27章43節にだけ用いられています。イエスの十字架刑の際に、イエスを虐殺した人々が嘲って次のように言っています。「彼〔イエス〕は神について確信したままだ。もし彼〔神〕が彼〔イエス〕を欲するのならば、今彼〔神〕が救い出せ。というのも彼〔イエス〕は『わたしが神の息子である』と言ったのだから」(私訳)。
二文目を付け加えることでマタイ教会は、「その悪」とは何かを説明しています。名詞の意味範囲を限定し絞り込む品詞を冠詞と言います。英語のtheに当たる冠詞が付いた「その悪」とは、イエスを殺した祭司長・律法学者・長老たちの持っている醜さです。自分の持っている力を、権限以上に濫用し、自分の利益のために冤罪を被せて人を処刑する、しかも相手の尊厳を奪い取った形で嘲笑し虐殺する、これが悪です。「その悪」は、罪の典型例です。
二文目を付け加えることでマタイ教会は、一文目で話題になった「試練」「苦難」とは何かを説明しています。イエス・キリストの十字架こそ苦難の典型例であり、イエスにとってそれは試練でもありました。イエスは神への信仰・希望・愛を棄てるかもしれないほどの苦しみに突き落とされ、十字架から降りたいという誘惑に運び込まれたのです。
二文目を付け加えることでマタイ教会は、キリスト信徒が経験する救いが何であるのかを説明しています。救いとは十字架と復活を経験することです。イエスは苦しみを受け、神に試され「その悪」によって十字架で殺されましたが、三日目に神によって起こされ、よみがえらされました。皮肉なことに祭司長たちの嘲りの言葉が預言となって成就したのです。「彼〔神〕が救い出せ」という侮辱は、神によって逆転されます。神は神の子を救い出しました。同じように、キリスト信徒は苦難からの救い出しを経験します。その復活の出来事を願って素直に祈って良いのです。「むしろあなたはその悪からわたしたちを救い出せ」、あの神の子イエスにしたように。
わたしたちの日常生活の中で、十字架・復活とは何でしょうか。その悪からの救い出しとは何でしょうか。本人にしか分からない苦しみがあります。そして本人だけがその苦しみを試練や誘惑と名づけることができます。復活とはその苦しみに耐える力が備わることです。復活とはその苦しみが何かのきっかけで緩和することです。復活とはその苦しみが奇跡的な仕方で完全に無となることです。本人にしか分からない霊的な経験です。
随分前に、とあることで悩んでいました。その頃とある日の風呂掃除の際に、なぜか讃美歌の一節が口をついて出て来ました。「主こそ真の光 とわの喜び わが力 わが歌 主のみを信じて 決して恐れない」(テゼ共同体の歌)。繰り返しぶつぶつと歌っているうちに何かが軽くなり、悩みが緩和されました。苦しみそのものはあるのですが、苦しみを突破する勇気が与えられたことを思い出します。何日か後に悩みの原因も消えたのでした。
【今日の小さな生き方の提案】
主の祈りの第六祈願は、十字架と復活に対する信仰と希望を強める、大切な内容を含んでいます。それは礼拝共同体の中で成長した内容です。だからこそ十字架と復活を、わたしたちは礼拝の中で経験することができます。
わたしたちは礼拝に日常生活の嘆きを持ち寄ります。もちろん言葉では言わないことが大半の苦しみです。霊の呻きです。しかしある意味で強制的に、その口が賛美の器にさせられます。気分転換をさせられ、そして呪いの言葉を吐くことを休止させられます。その時心の奥底に眠っていた希望が、神によって起こされ、絶望を退かせ、絶望を突き破り、最後には絶望が消え失せます。会衆賛美の一曲目で起こる出来事です。その後主の祈りを祈り、「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」と第六祈願を祈ります。共に賛美し・共に祈り・共に聖書を聞き・共に主の食卓を囲むときに、礼拝において復活が同時多発的に個々人ばらばらに起こるのです。復活を経験しましょう。どんな小さな喜びも、それが苦しみからの救い出しであれば、大いなる出来事です。
