【はじめに】
人間には自由があります。本日の物語はそのことを教えています。自由とは「嫌だ」ということができる自由です。十二部族全体で、ヨルダン川の東側から西側に渡ろうとする正にその時、ルベン部族とガド部族は足並みをそろえません。自分たちはヨルダン川の東側に留まって定住するというのです。後にマナセ部族の一部もこの声に賛同します。このわがままは通るのでしょうか。
1 そして、ルベンの息子たちに属する、またガドの息子たちに属する多い群れが非常に強くなった。そして彼らはヤゼルの地を、またギルアドの地を見た。そして何と、その場所は群れの場所。 2 そしてガドの息子たちとルベンの息子たちは来た。そして彼らはモーセに向かって、またその祭司エルアザルに向かって、またその会衆の指導者たちに向かって言った。曰く、 3 アタロトとディボンとヤゼルとニムラとヘシュボンとエルアレとセバムとネボとベオン。 4 ヤハウェがイスラエルの会衆の面前で撃った地こそが、群れの地。そして群れは貴男の僕たちに属する。 5 そして彼らは言った。もしわたしたちが貴男の両目の中に恵み(を)見出したならば、この土地を貴男の僕たちのためにその所有のために与えられるように。貴男はわたしたちにそのヨルダン(川)を渡らせないように。
【ルベンとガドの言い分】1-5節
創世記29-30章によるとルベンはヤコブ(別名イスラエル)の妻レアの長男です。ガドはレアの元召使ジルパの長男です。長男優遇の家父長制のもと、この二つの部族には多大かつ強大な家畜があったのでしょうか。彼らは、ヨルダン川の西側に行くことによって、自分たちの居住地や放牧地(経済領域=「群れの場所」1節、「群れの地」4節)が狭まることを嫌いました。アブラハムと甥ロトが別れた時と似たような課題です(創世記13章)。
そこでガド部族とルベン部族が、モーセとエルアザルとその他の部族の指導者たちの前に来ます。1節と異なり2節では「ガドの息子たち」が先に記されているのは、このヨルダン川東岸地域定住計画の発案がもともとガドのものだったからでしょう(申命記33章20-21節)。一夫多妻やその内部での妻たちの序列化には問題があります。序列上位の「正妻」レアの長男よりも、序列下位の「妾」ジルパの長男が用いられていることは、聖書の特徴の一つをよく表しています。聖書の神は虐げられている者の神です。
ガド部族はモーセたちに願います。早めに相続させてほしい、21章21節以降で軍事占領した土地を所有させそこに住まわせてほしい(「ディボンとヤゼルと…ヘシュボン」3節)、ヨルダン川を渡りたくない。
6 そしてモーセはガドの息子たちに、またルベンの息子たちに言った。貴男らの兄弟たちはその戦闘のために来る。そして貴男、貴男らはここに座る/住む〔シューブ〕。 7 そしてなぜ貴男らはイスラエルの息子たちの心を妨げるのか、ヤハウェが彼らに与えた地に向かって渡る者たちのうちで。 8 このように貴男らの父祖たちはなした、わたしが彼らをカデシュ・バルネアからその地を見るために送った時に。 9 そして彼らはエシュコルの涸れ谷まで上った。そして彼らはその地を見た。そして彼らはイスラエルの息子たちの心を妨げた、ヤハウェが彼らに与えた地に向かって来ることのないようにと。 10 そしてかの日にヤハウェの鼻は熱くなった。そして彼は誓った。曰く、 11 エジプトから上っている二十歳から上の男性たちは、わたしがアブラハムに・イサクに・ヤコブに誓った土地を決して見ない。なぜならば彼らはわたしの後ろを満たさなかったからだ 12 ――ケナズ人エフネの息子カレブとヌンの息子ヨシュア以外は――。なぜならば彼らはわたしの後ろを満たしたからだ。 13 そしてヤハウェの鼻はイスラエルの中で熱くなった。そして彼はその荒野の中四十年彼らを放浪させた。ヤハウェの両目の中にその悪をなしている世代の全て(が)完了するまで。 14 そして何と、貴男らが、その罪ある男性たちの子孫(が)、貴男らの父祖たちの代わりに起きた、イスラエルに向かうヤハウェの鼻の燃焼に関してなお増やすために。 15 仮に貴男らが彼の後ろから戻るならば、彼は再び彼をその荒野の中に捨て置く。そして貴男らはこの民すべてを滅ぼす。
【モーセの反論】6-15節
ガドらの言い分はモーセに嫌な出来事を思い出させました。民数記13-14章の「偵察物語」です。12部族の代表者12名が「約束の地」を探求すると、そのうちの10人は意見が変わったのでした。軍事占領することは困難だからやめた方が良いと、正に12部族全体で約束の地に入ろうとする直前に言い出したのです。エフライム部族の「ヨシュア」と、ユダ部族の「カレブ」だけが同じ意見を貫いたのでした(12節)。四十年前の悪夢がモーセの頭をよぎりました。「あの十人は全体の自由な心を妨げた」という評価がモーセにあったので、「心を妨げる行為を又この二部族はしている」と思えたのです。
不公平だともモーセは感じました。他の諸部族が徴兵のためここに来る一方で、なぜ二つの部族だけが「ここに座る/住む(ヤシャブ)」のか(6節)。
これはヤハウェの目に悪である、またヤハウェの鼻が熱くなり、真っ赤に燃え上がると、モーセは思いました。ヤハウェの怒りのために、四十年間も荒野を放浪させられたのですから、こりごりです。四十年前に二十歳以上だった者たちは、ヨシュアとカレブ以外全員死にました。モーセ自身も約束の地に入れないと審判を受けています。もう一度荒野に送り返されたいのか、「貴男らはこの民すべてを滅ぼす」(15節)つもりかと、モーセは反論します。
モーセが「神に忠実に従う」という意味で、「ヤハウェの後ろを満たす」という表現を用いていることは印象的です(11・12・15節)。新約聖書においてもイエスの弟子になることも「後ろを歩く」と表現されています。
以上6-15節のモーセの反論には説得力があります。ただしかし、モーセの反論の弱みは、すべて過去の事例を論拠としていることです。
16 そして彼らは彼に向かって近づいた。そして彼らは言った。羊の囲い(を)わたしたちはわたしたちの群れのために、また町々(を)わたしたちの乳児のために、ここに建てる。 17 そしてわたしたち、わたしたちは武装される。イスラエルの息子たちの面前で急ぎながら、わたしたちが場所に向かって彼らを来させるまで。そしてわたしたちの乳児はその砦の町々に住む/座る〔シューブ〕、その地の住民たちの面から(離れて)。 18 わたしたちはわたしたちの家に向かって戻らない、イスラエルの息子たち、彼の嗣業を各人が受け継ぐまで。 19 なぜならわたしたちは彼らと共にそのヨルダン(川)の向こう側からまた超えた分を受け継がないからだ。なぜならわたしたちの嗣業はわたしたちに向かってそのヨルダン(川)の向こう側から東に来たからだ。
【話し合いの中から生まれた提案】16-19節
ガドとルベンはモーセに近づきます(16節)。物理的に近づいたというよりも、相手の胸元に飛び込む話し合いをしたということでしょう。反論に対する再反論のために、あるいは反論を自分の意見に取り込んで、ガドとルベンはモーセに胸襟を開いて応答します。
まず、この東岸地域定住計画は「乳児」(16・17節)のためのものであるという主張です。自分たち大人が怠けたいために「座る/住む」〔シューブ〕(6節)と言っているわけではなく、戦災に遭いやすい乳児たちが安全に「住む/座る」〔シューブ〕(17節)ために東岸地域に定住したいのだとガドとルベンは言います。
モーセに訴えているのは四十年前に二十歳未満だった人々です。五十歳代の人々は、自分たちの孫を指さして「未来を担う小さな子どもたちのために」言っています。ヨルダン川を渡らせ戦いに同行させるるのは酷だ。ここで新しい町を建てさせてほしい。それが未来を担う幼い子どもたちのためになると思う。百二十歳になろうとしているモーセは、この言葉にほだされます。未来を祈る彼らの気迫が、モーセの心を動かしたのです。神の国の第一の住民・子どもたちのためになるのかどうか。これはあらゆる場面での判断基準です。
モーセに対する応答のもう一つは、「後ろではなく前」という姿勢をガドとルベンが示したことです。自分たちはただ無批判にヤハウェの後ろを満たすだけの存在ではないし、他の諸部族の足並みを乱すつもりもない。同じように徴兵に応じ武装し、「ヤハウェの後ろ」ではなく「イスラエルの息子たちの面前で急ぎながら」(17節)最前線を進み、他の諸部族が土地を所有するまでヨルダン川東岸地域に帰らないつもりだ。同胞に仕えたい。これは自分の頭で、何にも妨げられない自由な心で考えたことだ。そして諸部族の心を妨げてもいない。西岸地域に住みたいという部族たちにも最大限の敬意を払って、最大限協力したい。同じく東岸地域に住みたいわたしたちの自由も尊重してほしい。
胸を開いた話し合いの中で、徐々にモーセに納得が調達されていきます。モーセは自分の頭が過去の事例に捕らわれた頑固なものであることを自覚します。ガドとルベンはイスラエル全体を西岸地域に入らせないために言っているのではなかったのです。偉大な父祖アブラハム・イサク・ヤコブに与えると神が誓ったことさえも、状況に応じて内容を変えても良い、その自由が信徒たちに与えられているのです。過去に捕らわれ後ろを満たすことではなく、未来を考えること、それも自由な批判精神をもって考えることが大切です。柔和なモーセは自分の考えを変えていきます。全体の公正と各人の自由の調和とは何か。モーセの応えは再来週です。
【今日の小さな生き方の提案】
話し合いには力があるのだと思います。バプテスト教会は民主的な教会運営を旨とする群れです。ただし話し合いは、各人が自由な意見を持っているということ、お互いが寛容であるということ、すべての人が柔和であって自分の意見を変える構えを持っているということによって、初めて力を得ます。異見による気づきを喜ぶこと、率直な態度を歓迎すること、より高い結論を得るという目標で一致していることが大切です。「対決より解決を」「分断をあおる仕方で暴力的にたたかわない」、それぞれに悪くない民主的な主張です。考えることを放棄した独裁や、議論のための議論という衆愚よりもましだからです。モーセが説得されていったように、聖霊の自由に賭けてみましょう。
