「わたしは世の光である」(12節)とイエスは言います。「わたしが・・・である」という言い方はヨハネ福音書特有のものです。英語で言えば、“I, I am…”という表現です。以前にも申し上げたギリシャ語「エゴー・エイミ」という言葉の翻訳です。ギリシャ語は、「エゴー」(わたしは)が無くても、「エイミ」だけで「わたしは・・・である」という意味なので、重複して語る「エゴー・エイミ」は、主語「わたし」を強調しています。そういうわけで「わたしこそが」という翻訳が直訳調です。その含みは強烈な自意識です。「ほかでもないわたしこそがいのちのパンなのである(6:35)/世の光なのである」とイエスは自己紹介しています。
これに対してファリサイ派の人々は反発します(13節)。その人が何者なのかは、その人自身が言っても証言とならない、他の人が証言しなくては正式なものとは認められないということが、ユダヤ人社会の裁判の通例だったからです(17節。申命記17:6、19:15参照)。今日の問答はこの律法に関する知識が前提となっています。もちろんここでは裁判が行われているわけではありません。しかし、一般論としてそうです。「自分はこのような人間です」と言うだけでは通用しません。今でもそうでしょう。「わたしは内閣総理大臣です」と言っても誰も信用しないでしょう。
最近日本でも自分を証明するものを提示することが求められるようになってきました。郵便局や銀行はもちろん、コンビニでも20歳以上であることを証明するように言われます。わたしもアメリカに住んでいた時に、自分を証明することで困ったことがあります。まだジョージア州の自動車免許を取っていなかった頃、何も自分を証明するものがありませんでした。いちいちパスポートを携帯するのは無用心ですが、それ以外に方法がない場合もありました。国際免許を向こうの人が信用しないという事情もあったので。いくら「自分は城倉啓です」と鼻に指を向けて言っても、それは鼻を指差しているだけなのであって何の証明にもなりません。ちなみに欧米人は鼻を指さしませんが。
外からの証明というものは客観性を持っています。運転免許証の場合は、「この顔写真の人は城倉啓と言い、この住所に住んでいる」と警察署が証明しているのです。ただ言い張っているだけの人よりも、警察署という国家権力の執行機関がお墨付きを与える場合に、客観性が増します。
今日の聖句は7:44に後続しています。メシアが誰であるのかを聖書を調べて言い当てるという文脈です(7:40-44)。その当時は聖書こそ、客観性の源だとみんなが信じていたのです。聖書に書かれているようなメシアの姿にイエスが似ていれば、イエスがメシアであるという証明になるわけです。その人が何者であるかは聖書が客観的に証明すると考えられていました。聖書を扱う専門家の役割は客観的証明にあります。律法学者という権威が聖書を解釈するときに客観性が増すと考えられていました。
そこに当事者が図々しく、「わたしこそが世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、いのちの光を持つ」と自己紹介をしてきたのです。しかも、「お前には客観性がないぞ、聖書によって証明しろ」という反論にもまったく動じないで、「わたしの証言は真実だ」と言い張って止まないのです。きわめて主観的な物言いです。
今日の聖句は、この客観性というものや客観性を補強する専門家という権威を疑ってかかるようにと言っています。イエスの主観的かつ無茶な言い方を肯定的に紹介しているからです。それによってわたしたちが陥りがちな間違えを教えています。一見客観的に思える意見・専門家の権威ある意見には耳を傾け、一見主観的に思える意見・素人の意見には耳を閉ざすという間違えがわたしたちにはあると思います。本当にその人の言葉が真実であるかどうかは、客観/主観とは関係無いのです。本当にその人が光を持っているかは、主観的に語っているかそれとも客観的に語っているかと関係がありません。その人の肩書の有無も本当のところ何も関係ありません。客観的に専門家が語っても欺瞞・欺きはありえます。主観的に素人が語っても真理を言いぬくことはありえます。「放射能は大気中に漏れましたが、ただちに健康被害を及ぼすレベルではありません」という権威による冷静な語り口と、「原発は汚い」という市民による感情的な語り口とどちらが真理だったのでしょうか。客観的証拠なるものが専門家により操作される場合があります。それが最近わたしたちの身に起こったことです。
イエスは主観/客観という基準ではない新たな基準をここで勧めています。それが、肉に従うか/肉に従わないかという基準です(15節)。「わたしは誰をも肉に従っては裁かない」と補充して読むと分かりやすいと思います。そして「裁く」という単語を「判断する」と広い意味で翻訳すると良いでしょう。実際ここは裁判の場面ではありません。証しの真実性は何を基準にして分かるのかということが話題の中心です。
「肉に従って」とはどういう意味でしょうか。それは「世俗的な価値観に則って」という意味です。「世間一般の常識に照らして」と言っても良いでしょう。ファリサイ派の人々は自分たちが聖書に照らして物事を判断していると思い込んでいます。宗教的な価値観に従っているという思い込みです。言い換えれば神の意思による判断を自分たちだけができるという思い込みです。しかしどうでしょうか。イエスはファリサイ派の人々の判断基準が、「聖なる」ものに一見見えるけれども実はひどく世俗的なものであることを見抜いて批判しています。たとえば彼らはガリラヤ地方への差別という世俗的なものを判断基準にしています。またダビデ王家の血統やユダヤ民族の優位性という世俗的なものを判断基準にしています。
だから聖書に書かれたメシアの誕生の地はダビデ王と同じくベツレヘムであるとファリサイ派の人は思い込んでいます(7:42)。ガリラヤはありえないと断言します(7:52)。彼ら専門家はミカ5:1だけを客観的な証拠として挙げます(マタ2:5)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」それに対してイエスはイザヤ8:23-9:1を挙げます。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」ヨハ8:12は、イザヤ書をはっきり意識した発言です。そして自分こそがこの「大いなる光」であり、自分に従うガリラヤの民は決して闇の中を歩かないと主張しているのです。
律法学者たちはこの聖句を知らなかったのでしょうか。そんなはずはありません。彼らは専門家なのですからミカ書もイザヤ書も同じように知っています。知っていて無視した、その理由は何でしょうか。彼らは肉に従って判断しているので、ミカ書のこの部分を重んじていたのです。世俗的な考え、血統重視の民族主義やガリラヤ地方への差別という視点を持って聖書を読んでいるので、イザヤ書のこの部分を素直に読めなかったのです。彼らがイエスの父親がどこの何者かを詮索するのも、ガリラヤ地方のナザレ村の大工のヨセフに対する蔑視から出てくる行為です(19節)。
ここに権威ある専門家の客観的なる判断の落とし穴があります。福島をはじめとする原発立地自治体という「田舎」への差別意識や、沖縄への差別意識、日本人以外のアジア人や外国人への差別がある時に、わたしたちは原子力行政や米軍基地や在日/滞日外国人について決して客観的には判断していません。そして肉による判断を、聖書を用いて行うことがありえます。権威ある専門家・聖書学者が語る差別的な解釈ですら、ありがたいお話として受け取り客観性が与えられたと信じ込みだまされることがありえます。たとえば黒人は呪われたハムの子孫だから差別されても構わないという解釈です。
どうすれば肉による判断を避けて生きることができるのでしょうか。どうすればイエスのように透明な目を持つことができるのでしょうか。真理を証言することができるのでしょうか。ここで反対語を考えてみましょう。「肉に従って」の反対語は「霊に従って」です。霊とは神のことです(4:24)。真の意味で神に従うことはどのようにしてできるのでしょうか。二つあります。
一つ目。霊である神に従うということは、聖書に描かれているイエスに倣い従う生き方です。聖霊とはイエスの霊でもあるからです(使徒16:7)。それは暗闇を歩かない生き方・いのちの光を持つ生き方です(12節)。
イエスは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか知っているから」自分の証しは真実である(14節)と言います。今日の小さな生き方の提案の一つはここにあります。どこから来てどこへ行くのかを知って生きるということです。そうすれば肉に従うことが避けられます。すべての人間に平等なことがらがあります。それは、一度生まれて一度死ぬことです。そのことをヨブという人は、「主は与え、主は取られる」と言いました。いのちを与える方を知り、いのちを召し上げる方を知ることが必要です。すべての人は神のもとから裸で来て、神のもとへと裸で去ります。それはイエスが神の懐から来て、神の懐へと帰るのと同じです。
この単純素朴でありかつ大いなる真理をわきまえ知ると、差別を退けることができます。権威主義を退けることができます。隣人を貶めることは不正であり、高ぶることや必要以上に誰かを崇めることは間違えであると分かるからです。すべての人は神の似姿として創られたものとして尊重されるべきであるし、すべての人は神の創られた土の器として「ただの人」なのです。いのちの主を知るときにわたしたちは差別を棄て透明な目で物事を見ることができます。
もう一つ、霊である神に従って生きる例をイエスは示しています。自分が神から遣わされたと信じること、そしてその同じ神・「わたしの父(ヘブライ語アッビ=アラム語アッバ)」と共にいると信じることです(16節)。そうすると真実の証しができます。これは強烈な自意識です。キリスト教会ではこのような主観・強烈な自意識を「召命感」と呼びます。
召命という言葉を狭く用いることも多くあります。「牧師という職業を持ち続ける決意」という意味合いです。しかしそのようにこの箇所を狭く解釈する必要はありません。すべての人は神の子だからです。イエスの真似をすることはどんな人にもできるからです。すべての人は神をアッバと呼ぶことができます。実際、欧米語でもcallingが「召命」と「職業」を表すように、すべての人の仕事は神から遣わされたものとして尊重されるべきです。他人に危害を及ぼさない範囲で、わたしたちには強烈な自意識が必要だと思います。自分の携わっている仕事に対する誇りです。この仕事は神から遣わされ与えられた仕事である、神はわたしと共にいると信じることです。その結果、真実味のある言葉を語ることができるようになるのです。今日から始まる一週間を、そのような自意識で過ごすことをお勧めいたします。