「原罪」という言葉があります。しばしば「罪」とも言います。キリスト教用語です。今日の箇所は原罪/罪についてよく説明している箇所です。
新約聖書の原語であるギリシャ語は、英語と同じように数えられるものごとについて単数か複数かを厳密に区分けします。アメリカで見聞きしたことですが、子どもに単語を教える際に「an apple」という具合に不定冠詞を付けて単数であることを意識させていたように思います。欧米語圏の人にとって、「apple」という曖昧なものはこの世に存在しないのでしょう。一つのものか、二つ以上のものかにものごとは分けて考えるべきという思想が根っこにあります。日本語にはない感覚なので少し注意が必要です。
今日の41節の「罪」という言葉は単数で書かれています。少し奇妙です。「あなたたちの罪」とあるのだから、複数人の持つ不特定多数の「罪々」の方が理屈に合いそうです。実際ほかの箇所で罪が複数形を採る場合があります。たとえば有名な「主の祈り」における「罪」は複数形です(ルカ11:4//マタ6:12)。「わたしたちの罪々」と書いてあります。だから、ここでヨハネ福音書の著者はあえて単数で罪という単語(ハマルティア)を用いていると言えます。ちなみにパウロという人も罪の単複に非常に敏感・厳密な人です。
単数であることの意味は、ひとつふたつと数え上げることができないというところにあります。たとえば犯罪などでは、罪数といわれる罪の数が大きな問題です。それによって刑罰の重さが変わるからです。これらは数え上げなくてはいけない複数形で表されるべき罪です。日常生活でも一日の終わりに振り返って、今日は「帰宅時にうがいをしなかった」「友だちにひどいことを言った」「仕事がうまくいかなかった」など反省を数え上げることがあるでしょう。複数というのはそういうイメージです。
単数の罪は、もっと根源的な悪を表しています。ひとつふたつと数え上げたり、足したり引いたり割ったりできない罪です。人間である限り、生きている限り負っていかなくてはいけない悪さです。その意味でどんな人にもありうる悪です。「宿命的な倒錯」とでも言えるような事態、たとえて言えば常に逆立ちして生きているような状態、それが単数の罪です。「sin(罪)は自己中心、Iが真ん中にあるから」と言う人もいますが、この言い方では少し軽すぎるでしょう。罪とはもっと深刻でもっと社会的なことがらです。この単数形の罪を、「原罪」と呼びます。
聖書の中には性善説も性悪説も混在していますが、原罪の教理は一般に性悪説の代表と言われます。「人間は生まれながらにして悪い」というわけです。そして一般にキリスト教の説く救いは、この「原罪からの解放である」と言われます。今日の箇所に当てはめると、原罪とは何なのでしょうか。そしてそこから解放されるということは何なのでしょうか。
比喩的に言えば「見えると言うこと」、これが原罪の典型例です(41節)。もう少し言えば、ファリサイ派の権力者たちは「自分たちは常に見える、罪人ではない、正しい」と言い張って止まない、ここに罪の典型が現れています。このことがらは単にファリサイ派の主観・心のありようというだけにとどまりません。彼らは自分たちの正しさを社会全体の正しさに仕立て上げることができました。つまり、「お前たちは見えない/見えていない/見ることができない」と好きな時に言い立てることができたのです。罪とは心で悪意を持つこと、わがままな考えを抱くことだけではありません。実際に相手を害することまでをも含むのです。しかも力を濫用して悪事を行うこと、これこそ罪です。
これはまったくの倒錯です。誰もが知っていることをないがしろにして捻じ曲げているからです。すべての人間が「ただの人」であることは誰でも知っています。人間は間違えを犯す動物です。どんな人にも欠けがあり、その短所がその人の味にもなり、その人を謙虚にもさせます。社会に生きる人は、大人も子どももこの意味で自分が「ただの人」であるということを知っているものです。だから、ファリサイ派の人にも欠けや限界があります。知っていることや知らないことがあることも当然です。「自分には正しくない時もある」と常に頭のどこかに置いていることは健全な精神状態と言えるでしょう。それがただの人であると知っているということです。
ファリサイ派の人は自分が常に絶対に正しいとする点で根本的に倒錯し、神の前で逆立ちをして生きています。そしてこの類の倒錯は誰にでもあります。「自己絶対化」と言います。自分が偉くなってしまう瞬間、神の位置に立って相手に危害を与える誘惑にわたしたちはいつもさらされています。人間というものは元々そのような倒錯した存在なのでしょう。アダム(「人間」の意)とエバの物語も、人間の倒錯・神になりたいという誘惑をうまく描いています。あの物語も原罪を説明しています。
誰もが持っている倒錯・原罪ではありますが、地位や権威を持つとさらに倒錯しやすくなると聖書は言います。自分だけは「ただの人以上の存在」であると錯覚しやすくなるのです。見えていなくても見えているふりをしたり、本当に正しいことを言っている人に対して「自分の意見の方が正しい」と言い張ったり、そして正しい人に暴力をふるったりするのです。原罪からの救いと言った時に、聖書は機械的かつ一律平板に考えていません。社会的・政治的・経済的要因を加えて考えています。「富んでいる者が神の国に入ることは極めて難しい」とイエスが言っているのはそのような事情です。
原罪というものにはもう一つの典型例があります。比喩的に言えば「見えないと言うこと」です。「自分は見えないと思い込んでしまう」ことです。社会的・政治的・経済的なさまざまの比較の中から卑下してしまうこと、希望を失ってしまうことです。そこからの解放が、元盲人に起こった喜びの出来事です。
元盲人は市民権を剥奪され、会堂から追放されました(35節)。この世界で生きづらくさせられた人をイエスは努力して見つけ出し(「出会う」は「見つける」が直訳)、イエスと面と向かう=礼拝するという救いを彼に経験させます。これは4章でサマリア人女性が経験した救いです。彼は見えない時にも尊厳を奪われて苦労を負わせられ、見えてからも市民権を奪われて苦労を負わせられ、人生には希望がないと思っていたかもしれません。これも罪の一種です。人間は未来に希望を持つ動物だからです。この人も自分がただの人であることを見失っています。この勘違いは倒錯であり、厳しく言えば罪なのです。
希望を持てない人にイエスは、あなたは「人の子を信じるか」と語りかけます。人の子とはただの人という意味です。イエスはそれを「わたし」という意味で使います。神の子がただの人となって絶望に打ちひしがれているあなたを見出し、あなたに希望を与えるために面と向かった交わりをつくっている、このことを信じるか、希望を失わないかとイエスは問います。これは嬉しい一方的な申し出です。元盲人は喜んで弟子となるのです。
その一方で、このような喜びの対面をイエスとできない者たちが恨みつらみをイエスに述べ、暗い悪巧みへと進んでいきます。「お前はまったく罪の中に生まれた」(34節)と元盲人を侮辱するファリサイ派の人たちが救いようのない罪まみれに堕ちていく一方で、「あなたは罪のために目が見えないのではない」と言われて名誉回復され救われた元盲人がイエスに従います。「二人の息子を持つ父親のたとえ」(ルカ15章)と似ています。
原罪からの救いは大まかに二通りあります。元盲人の救いとファリサイ派の救いです。イエスの態度が二通りあることに沿ってわたしたちは場合分けをして考えなくてはいけません。もちろん、現代社会は加害と被害、力関係は複雑に絡み合い、時に流動的です。ある人が被害者である面と、同じその人が別の誰かの加害者である面があります。立派な人権派市民運動家が、家庭内では性差別者・児童虐待者であるなどということはありうることです。そうだとしても基本の二分法をおさえた上で、複雑な絡み合いはその組み合わせに過ぎないと考えれば、ことがらを丁寧に解きほぐすことができます。
この世界で小さくされ締め出されている人、卑下や希望を失うという倒錯を起している人に対して救い主は「力づける」Empowermentという仕方で罪からの解放を行います。「神の子が人の子となり、このわたしのために来てくださった、そしてあなたには罪がないと言ってくださった、だからこれからは希望を常にもって神の子らしく生きよう」、元盲人のような救いを、力を奪われている人たちは経験します。「あなたは見えないのではありません。見えなくさせられているだけです。だから無い者ではなく有る者となりなさい。ただの人として堂々と生きましょう。わたしがいつも共に肩を並べているから大丈夫」。イエスはこのように語りかけておられます。赦しつつ裁くという方法の救いです。
今日この場にも、この世界で生きづらさを感じている人がいらっしゃることでしょう。その人たちの希望となるために、キリストはこの世界に派遣され、わたしたちと肩を組む「人の子」となられ、今もわたしたちを力づけておられます。その人たちは聖書から「あなたはそのままで良い」という無条件の肯定を読み取るべきです。そうすれば救われます。これは、ガリラヤのイエス・小さくされた人と共に生きたイエス・復活されガリラヤに戻ってこられたイエスの救いに力点を置いた、救いについての説明と言えます。
この世界である程度の地位を得て普通に生きるための力を持っており、特段の不便を感じていない人、つまり傲慢・力の濫用という倒錯を起こしている人に対してイエス・キリストは生き方の変換を促すという仕方で救いの業を起こします。急速に貧富差が開きつつあるけれども未だ中流階級が多数派である日本社会では、この類の倒錯を起こしやすい人がより多いと言えます。聖書のイエスは、このような人たちを「裁き」Judgmentという仕方で救います。わたしたちが陥っている倒錯を教えます。それは自己絶対化という鎧をまとい、「力/権力/暴力」という剣をふるって生きることです。イエスは公正な判断を示し、新しい生き方へと促します。裁きつつ赦すという方法で救うのです。
「そもそもあなたの身につけている鎧はあなたのからだに合っていませんよ。『常に自分は正しい』『見える』という鎧を脱ぎましょう。等身大の自分、ただの人になりましょう。あなたのふるっている剣をさやに収めて、隣人を切りつける危害をやめましょう。剣を鋤に打ち直して、土地を耕す道具にしましょう。みんなで協力して「神の畑」=この世界で働きましょう。自分の持っている権限/力を隣人に仕えるために、互いに協力するために、平らな交わりを作るために用いましょう。」キリストはこのように呼びかけておられます。自分はこのままではだめなのだ、悔い改めて生き方を変えなくては救われないのだという救いです。これはゴルゴタのイエス、十字架で虐殺されたイエスの救いに力点を置いた救いについての説明です。イエスを殺したのは自分の倒錯である、その罪の重大さを教えるための十字架であり、同時にその罪を赦すための十字架であると信じる、それによって新しい生き方へと変え、誰をも犠牲にしない生き方を目指すとき、全ての人は救いの途上におかれます。