今日の箇所も先週に引き続き、ファリサイ派との論争の場面です。来週の話との違いも意識したほうが良いので、ファリサイ派が論敵であることを覚えておく必要があります。今日の箇所は、羊飼いと盗人・強盗が対比されています。それに対して来週は、所有者である「良い羊飼い」と雇い人である「悪い羊飼い」が対比されています(11節以降)。それぞれにたとえられている相手が異なります。羊飼いと盗人との対比は、イエスとファリサイ派との対比のたとえです。良い羊飼いと雇い人である悪い羊飼いの対比は、おそらくヨハネ福音書の著者の教会とペトロたちエルサレム教会との対比です。今週はファリサイ派へのあてこすりとして語られた話を掘り下げます。羊飼いがどのような人か、羊を盗む人がどのような人かを現代に引き寄せて考えていきましょう。
まず翻訳の問題です。1節「羊の囲い」とあります。ヨーロッパの広々とした草原にしつらえた木製の柵が心に浮かぶかもしれません。まさに牧歌的な風景です。「羊の囲い」にはそのようなイメージがあります。しかし、この「囲い」と訳されている言葉にはそのような意味はありません。おそらく欧米語の聖書翻訳の影響から日本語訳も「囲い」としたのでしょう。原意は「中庭」です。敷地内の建物に囲まれた部分です。そこに羊を寝かせていたので、「羊のための中庭」が当時の東地中海世界にはあったのです。
そうなると「門」(2節)のイメージも変わります。木製の柵に取り付けられた、頼りない木製の柱というようなものではありません。建物と建物の間に取り付けられた頑丈な枠をもった門です。門を通らなければ、簡単には羊のいる場所にはたどり着けないという構造です。「ほかの所を乗り越えて来る」(1節)という行為のイメージをしっかりと持つ必要があります。かなりの労力をかけての不法行為がここで言われています。まさに住居侵入と強盗がここで言われているのです。
イエスはたとえの名人でした。想像力豊かな方でした。表現力が確かな方でした。批判力の鋭い方でした。わたしたちは21世紀の日本の読者として、なるべくイエスが語られた真意を探りたいものです。それには当時の状況を学び、現代の状況との異同を確かめる必要があります。聖書学とはそのような学問分野です。
中庭があるというとすべての羊飼いが豪邸に住んでいたのかという誤解も生じえます。そうではありません。複数の世帯の建物が中庭をかたちづくっていました。そこには羊飼いたちの職業共同体・生活共同体・ムラがあったのです。だから「門番」(3節)は共同体の一員、羊飼いの一人です。おそらく輪番制が野宿番にも門番にも敷かれていたのでしょう。確かにクリスマスページェントでも複数の羊飼いたちが共同で野宿をしています。彼ら・彼女らはいくつかの寄り合い所帯で、ある場面では一緒に放牧したり、共有する中庭に羊を寝かしつけて一括管理したりしていました。
複数の羊飼いたちがそれぞれの羊を同じ場所で飼うのですが、不思議なことにそれぞれの羊は自分たちの飼い主を知っている、この事実が今日の話の一つの肝です。どんなにまぎらわしい状況でも、羊飼いと羊はそのような信頼関係を持っているということです。保育園・幼稚園・学校などで、全学年で一緒に行動しているときであっても、こどもたちは担任の教員を知り、担任の教員はクラスのこどもたちを知っています。それと似ています。
イエスが複数の中の一人の羊飼いだとすると、同僚の羊飼いは誰に当たるのかという質問も生まれることでしょう。しかし、その点についてこの比喩は何も答えません。たとえというものは一つのことがらを集中して説明する道具です。ほかのことがらについては無頓着なのです。ここでは、およそ「羊飼い」というものは飼っている羊に名前を付け、各羊を名前で呼ぶものだということを説明したいのです(3節後半)。「羊飼い」はあえて単数形で定冠詞を付けた表現です。英訳聖書もそのように直訳しています(the sheperd)。欧米語におけるこの定冠詞の用法は、「およそ羊飼いたるもの」ということを表現したいときの言い方です。
その周知の事実に対応して、およそ羊たるものは自分の羊飼いの声を聞き分けることができる動物だということが言われます(3節前半)。これもよく知られた事実です。名前を知り・声を知る、このことは人格的な深い交わりのたとえです。聖書は「知る」という単語を重んじます。旧約でも新約でもそうです。「イエス・キリストを知る」ということは信仰生活のことを指します。「アダムはエバを知った」ということは結婚生活のことを指します。知識だけの問題ではなく、人格的によく知った交わりを相互に持っているという意味で使います。だからここで羊飼いは羊を単なる所有物と扱っていないということが重要です。名前を付けて呼ぶということは、相手の人格を尊重し互いに家族となるということなのです。羊飼いは一匹一匹の羊の個性・特性・性格をも知っています。愛情を込めてそれぞれの名前を呼びます。愛情がこもった声だから各羊は自分の羊飼いの声を聞き分け、その羊飼いにのみ従うのです(4節)。これが羊飼いであるイエスと羊である彼の弟子たちとの信頼関係のたとえです。
それに対して、盗人・強盗と羊との関係はどのようなものでしょう。盗人・強盗は各羊の名前を知りません。人格的に扱おうとしないし、また、そのことは不可能です。盗人にとって羊は単なる他人の所有物・財産です。盗人と羊との関係は、支配と被支配の関係です。名前を奪い、人格の尊厳を踏みにじり、自分の言うことを従わせる、相手をモノ扱いする人間たちへの強烈な批判がここにはあります。
おそらくこのたとえは、「盗むことに失敗した羊泥棒の笑い話」が下敷きになっているように思えます。一所懸命に住居侵入し、内側から門を開け、いざ羊たちの尻をたたいて、逃げ出そう・盗もうとしたけれども、肝心の羊たちが全然ついてこないで、右往左往する。そのような間抜けな盗人の姿が描かれているように読めます(5節)。だからこそ、目が見えなかった人がイエスの弟子になった物語の続きにあるのです(9章)。イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に向かって話しました(6節)。元盲人はファリサイ派の脅迫に負けず、彼らの言うことを聞かず、イエスにのみ従いました。痛快な笑い話ではないですか。人の心は自由です。ファリサイ派の権力をもってしても、元盲人の心を盗むことはできなかったのです。
ここまでをまとめると、元盲人(さらには彼の両親やこの福音書に登場してきたすべての弟子たち)が羊、イエスが羊飼い、ファリサイ派らユダヤ人権力者が盗人・強盗でたとえられています。そして、イエスと元盲人の信頼関係が良い模範として語られ、ファリサイ派と元盲人の支配/被支配関係が悪い例として語られていることは、はっきりしています。わたしたちは今日も、ならってはいけない生き方と、ならうべき生き方とを学ぶのです。
ならうべきでない生き方とは、隣の人の名前を呼ばない生き方、つまり名前に象徴される人格を軽んじるという生き方です。隣の人をモノとして扱う、自分のむさぼりの対象として考える生き方です。
かつてアフリカ西海岸に住んでいた人を奴隷という「働く道具」にして強制的に船にすし詰めにして、アメリカ大陸に運び、モノとして売り買いした人々がいました。海の上で3分の2の人が死んだ=殺されたとも言われます。家族はばらばらにされ、奴隷の所有者たちは勝手に欧米語風の名前を奴隷につけました。名前を奪われ、言葉を奪われ、モノ扱いされたのです。
かつてヨーロッパ中のユダヤ人を殺そうとして、強制収容所に押し込め虐殺した人たちがいました。その人たちはユダヤ人たちの名前を奪い、番号を付けて呼び、モノ扱いしました。
かつて日本は、台湾の人・朝鮮半島の人に日本風の名前をつけ、日本人に「同化」させ、労働力として徴用しました。また日本兵として徴兵し、その人が死ぬと「日本名」のまま靖国神社に合祀しました。そして、今も合祀を無効にしてほしい、本名でふるさとで自分たちの宗教儀式で弔いたい・祀りたいという家族たちの願いを、靖国神社も国もしりぞけ続けています。また、いまだに「通名」と言われる日本風の名前で暮らさざるを得ない、朝鮮半島出身者が多くいます。差別があるから、自分の名前を公表できないのです。
また公表しても、日本風の発音でしか認めないという風潮もいまだにあります。最近は報道機関も原音表記・発音をこころがけているようですが、中国人の名前については、あまり進んでいません。原音表記を心がけるようになったきっかけは、北九州小倉の牧師・崔昌華さんの「一円訴訟」(被告はNHK)でした。「サイ・ショウカではなく、チェ・チャンホアと読んでほしい、人格が著しく傷つけられているから」という訴えです。
名前に象徴されているその人の人格を軽んじない、そのことがここで勧められています。ヘイトスピーチが一括して「朝鮮人」と言い差別していることは、名前を持った個人の人格への攻撃です。名誉毀損という人権侵害、だからしてはいけないのです。盗人・強盗になってはいけません。
わたしたちはここで羊飼いと羊たちの信頼関係を見倣うべきです。誰にも知られていない苦しみ、誰にも知られたくない苦しみというものを、人は抱えているものです。それも人格の一部です。深いところにある悩みです。イエス・キリストだけは、その苦しみ悩みを知っている、これが信頼というものです。誰かがわたしを知っている、誰かがわたしの名前を呼んでいる、誰かがわたしの人格すべてをよくご存知である、このことに信頼を寄せることを、信仰を持つと言うのです。その誰かが、羊飼いであるイエスだと告白することを、イエス・キリストを知る=イエスをキリストと信じる=キリスト教に入信するというのです。
信仰を持って生きるというのは、その意味で単純です。誰からも誤解されていても、ただ一人イエス・キリストだけはわたしのことを正しく理解し、人格的な交わりの中に入れてくれると信頼することだからです。キリスト者になることに二の足を踏む人もいらっしゃると思います。ハードルを高く設定する方もおられます。「聖書をもっと勉強して」とか、「教会をよく理解して」とか、「自分は向いていない」とか、さまざまです。単純に考えることをお勧めします。信仰とはキリストへの人格的信頼です。一人ぼっちではないということです。
キリスト信徒ではない人だけではなく、すでに信じている人にも、今日の羊のような単純な信頼が今求められています。単純な信頼は、良心の主であるイエス・キリストにのみ従うということへとわたしたちを導きます。国家による教育の統制が強まってきています。しかしわたしたちの心は自由です。わたしたちは何を考えても良いし、何を表現するのも自由です。したくないことを強制されることに「いやだ」と言って構いません。羊飼い以外の声に聞き従わない自由があります。多くの羊が従わない時に、それによって盗人から身を守ることができます。羊たちの連帯が求められています。