「神殿奉献記念祭」(22節)とはどのような祭りなのでしょうか。今日は、2月11日と定められた「建国記念の日」との類比を試みたいと思います。その上で、キリスト信仰とは何か、どのような生き方が望ましいのか/望ましくないのかについて聖書に照らし合わせて考えていきます。
「神殿奉献祭」とは紀元前164年に起こった出来事に由来します。その当時ユダヤ地方は、セレウコス朝シリア王国の支配下にありました。ギリシア語を用いる「ヘレニズム文化」の王国です。紀元前四世紀ギリシアのマケドニアからインダス川まで、アレクサンドロス大王が侵略支配しました。「アレクサンドロス大王の帝国」です。大王の死後、部下の将軍たちによって四つに分割されました。その一つの部分がシリア王国です。ギリシア文化と西アジア・北アフリカの文化の融合である、いわゆる「ヘレニズム文化」が、パレスチナに住むユダヤ人にも覆いかぶさってきました。時々に、プトレマイオス朝エジプト王国とセレウコス朝シリア王国と、支配者は入れ替わりましたが、同じヘレニズム文化の国です。ちなみにダニエル書に出てくる「ギリシア王国」(ダニ11:2)はアレクサンドロス大王の帝国、「北の王」(同11:6)はシリア王国の創始者セレウコス、「南の王」(同11:5)はエジプト王国の創始者プトレマイオスのことを指しています。ダニエル書11章全体は、パレスチナがシリアとエジプトの争奪合戦の対象となっていたことを物語っています。ユダヤ人たちはいつも大国に翻弄されていたのです。
セレウコス朝シリア王国の王に、アンティオコス・エピファネスという人がいました。紀元前二世紀の人物です。エピファネスとはあだ名です。「(神の)顕現」という意味です。日本語で言えば「現人神」というような意味合いです。この王はユダヤ人たちに対して厳しい支配政策を行いました。いわゆる「同化政策」です。ユダヤ人の民族の誇りを踏みにじって、ヘレニズム文化に同化させようとしたのです。
たとえばギリシア神話の主神にゼウス神という神がいます。エピファネスは、その胸像をあえてエルサレム神殿に設置し、ユダヤ人たちにゼウス像を拝むことを強要しました。ユダヤ人たちは神像をつくること、拝むことをいたしません。偶像礼拝にあたるからです。もちろん、エピファネス王のことも現人神と考えません。目で見え・耳で聞こえ・手で触れるような形あるものは神ではありえないと考えているからです。ユダヤ人の思想信条を知ったうえで、心の自由を奪おうとエピファネスはしました(Ⅰマカバイ1章)。
そこに民族の英雄が現れます。ユダ=マカバイという人物、およびその家族です(Ⅰマカ3章)。父親から引き継いだシリア王国からの独立戦争(前167年開始)をユダは率います。そして前164年にユダはエルサレム神殿を占領した時に、「宮浄め」を行いました(Ⅰマカ4章)。ゼウス神像を撤去し破壊したのです。その時に、「神殿奉献祭」を執り行います。新しい神殿を建てたという意味ではなく、ヘレニズム文化を一掃してユダヤ人の信仰に沿った神殿を取り戻したという意味で、彼は神殿を「奉献」し直しました。その後独立戦争は20年以上続き、ユダヤ民族による独立王国が400年ぶりに、前140年からおよそ100年間だけ歴史上に成立しました。
こういうわけで、神殿奉献記念祭は日本の「建国記念の日」と似ています。戦前「紀元節」と呼び、日本書紀の神話的記事(天孫降臨)から2月11日と定め、戦後に再び国民の休日と定め直した、あの「建国記念の日」です。民族主義が最も盛り上がる民族自決の記念日です。日本バプテスト連盟は他の教派と共に、紀元節が戦時中に天皇制軍国主義によって悪用されたことを重視して(たとえばシンガポール陥落の目標日は2月11日に設定されていた)、国民の休日として復活することに反対しました。そこでキリスト教界では「信教の自由を守る日」と呼ぶことにしていますし、連盟事務所も普通の出勤日としています。
八日間の神殿奉献記念祭が行われている最中のエルサレムは、民族主義が盛り上がっています(22節)。エルサレム神殿の自慢話、民族の英雄ユダとマカバイ家への褒め言葉、そして同時にローマ帝国の悪口やギリシア語を使う者たちへの反感などなど、ユダヤ民族主義者たちによって神殿の境内は大いに活気づいていたことでしょう。「日本を取り戻す」という勇ましいスローガンが受け入れられ、朝鮮半島出身者を差別するヘイトスピーチなどがしばしば起こる現代日本とも似ています。
その神殿の境内へイエスが来ます(23節)。彼は「前科一犯」です。すでに2章13-22節で、神殿境内の商売人・両替人などを追い出し、神殿そのものを冒涜する(と理解される)発言をしています。この事件は「イエスによる宮浄め」でした。ユダ=マカバイの宮浄めは偶像の撤去でした。イエスの宮浄めは金儲けという偶像の撤去でした。それをイエスはユダヤ人にとって最大の祝祭である過越祭の時に行ったのです。民族主義者たちはイエスを警戒していました。サマリア人とも積極的に交わるイエスに、この場で再び暴れられたら、祭の雰囲気は台無しになってしまいます。また同時に彼らは、イエスを殺す機会とも捉えていました。反民族主義的発言、神を冒涜する発言をイエスから引き出せばその場で殺しても誰も何も言わないと考えたからです。「非国民」を吊し上げることは、祭を盛り上げることにもなるものです。実際イエスは次の過越祭の最中に「神殿冒涜」「神冒涜」の罪状で非国民として処刑されたのでした。
このような悪だくみを心に秘めて、ユダヤ人権力者たちはイエスを取り囲みます(24節)。こうして以前のようなイエスの大暴れを防いだのです。「もしメシア(キリスト)ならば、はっきりそう言え」という威圧的な言葉は、私刑に処すことをあらかじめ決めた上での発言です。相手を信じるための発言ではなく、相手を殺すための発言です。信頼を強めるためではなく、排除するための発言です。分からないというよりも、分かろうとしない態度が問題です。「いくら言っても信じないではないか」、「どんなに良い行いを見せても信じないではないか」、「あなたたちはわたしの羊ではない(狼である)」(25-26節)とイエスが言い募っている事柄は、権力者たちの分かろうとしない態度の問題性を指摘しているのです。だからこのような人になってはいけません。
実のところ、権力者たちは愛国者でさえもないし、神殿を「神の家」として敬虔に信じてもいないでしょう。彼らの関心事は金儲けです。イエスは神殿に群がる利権を暴露し批判し、「商売の家」「強盗の巣」としていることを問題視しました(2:16)。だから邪魔者なのです。安倍首相は、実のところ愛国者ではないし、敬虔な靖国神社信徒でさえもないと思います。むしろ、国際的な武器輸出入・原子力マネーなどの金儲けがしたいだけなのでしょう。そのためには適度な軍事的緊張と思想統制が必要です。神と富とに兼ね仕えることはできません。富に仕える者は常に隣人に対して支配的・暴力的・威圧的です。
イエスは暴力的な相手方に対しても、いつものように穏やかで毅然とした態度を貫きます。できる限り言葉で反論します。今日、わたしたちはこのイエスの態度から信仰を持ち神に仕える者の取るべき態度を学びます。実際に盗人・強盗・狼が来て、自分を取り囲んだ時、わたしたちはどのような態度で接するべきなのでしょうか。可能な限り非暴力的な手段で抵抗する、すなわち面と向かって反対意見を述べるべきです。それによって、分かろうとしない相手の方が不誠実であることが明らかになるからです。
しかし、その後にもなお相手が暴力的な手段に訴えて来たらどうでしょうか。31節以降に権力者たちは石でイエスを殺そうとします。その時イエスは逃げます(39節以降)。本当に身の危険を感じたり、対話努力に意味を感じなくなったりした場合には逃げれば良いでしょう。それは来週の聖句です。今週は踏みとどまり非暴力に徹するという態度をイエスから学ぶべきです。
政治権力が言論の自由を取り締まることが容易になってしまった状況で(特定秘密保護法成立)、報道側からも政治権力におもねる状況で(NHK会長発言)、わたしたちは恐怖を感じます。右であっても左であっても最低限守らなくてはいけないことがあります。それはお互いの言論の自由を守ること、名誉毀損・差別発言を除いて、あらゆる表現の自由を保証することです。この自由を獲得・奪還するためには、暴力によって仕返しをしないで、あくまで言論によって訴えていかなくてはいけません。イエスのぎりぎりの努力を倣うべきです。
さて、分かろうとしない人々が批判されていると同時に、神とイエスの関係がここで再び紹介されています。「わたしの父(アッバ)わたしは一つである」と言えるほどに近い関係とされています(5:19-30参照)。イエスの手にある羊たちは、同時に神の手にもある羊です(28-29節)。神とイエス、この両者は同一のものとして描かれています。
その一方で、羊飼い(イエス)と羊(囲い/中庭の内外に居るイエスに従う人々)との一体感も描き出されています(27節。なお3-4節、14節も参照)。アッバである神と神の子イエスとの一体感は、イエスとイエスに聞き従う者たちとの一体感と類似の関係です(15節)。そうなると、「永遠のいのち」についても同じ類似があてはまります。イエスは従う人たちに永遠のいのちを与えています(28節。現在形)。それと同じように神はイエスに永遠のいのちを与えているのです。永遠のいのちを「聖霊」と言い換えてもかまいません。永遠に生きる霊である神のことです。聖霊によって生まれたイエス、バプテスマの際に聖霊をいただいたイエス。イエスの内側に永遠のいのちがあふれ、聖霊に満たされた活動が行われました。聖霊はイエスの十字架と復活の後、わたしたちの内側に生きて働く神ご自身のことです。
ここにキリスト信仰の特徴が示され、ここにわたしたちの模範となる生き方が示されています。キリスト信仰とは三位一体の神への信仰です。以前はこの三者の平等性を申し上げました。それは「三」を重視した言い方です。今日の力点は、この三者が緊密に結び合っているということ、「一」であるということです。そしてその緊密性こそわたしたち信者の模範となります。
霊である神との神秘的一体感こそが救いであるということはヨハネ福音書全体の主張です。言い換えればインマヌエル、常に神がわたしたちと一緒にいるということです。別の言い換えをすれば信者一人一人は「聖霊の宮」、神の住まい・神の家なのです。神ご自身が内部で緊密な関係であるのと同様に、キリストに従う者と霊である神は切り離すことができない緊密な関係におかれています。永遠の神(神の霊・キリストの霊・霊の神)がいつも内に居るのでわたしたちは永遠のいのちを今から永遠にいたるまで生きることができます。
神は愛です。このような小さなわたしたちに宿るほどに、神は愛です。世界を覆っている大いなる方が、わたしたちを自宅として住んでくださいます。この神の愛をわたしたちから引き離すものは何もありません。一つであるからです。わたしたちの信じる自由・良心の自由を脅かすものはありません。神と共なる魂を滅ぼすことは誰にもできないからです。今日の小さな生き方の提案は、霊の神との一体感を意識して心を自由にして生きることです。