内なる光 ヨハネによる福音書11章1-16節 2014年2月16日礼拝説教

イエス一行は10:40の時点で、「ヨルダンの向こう側」(東岸)のベタニア村に滞在しています(1:28)。実はもう一つベタニア村という同じ名前の村がありました(巻末地図「6新約時代のパレスチナ」参照)。ヨルダン川の西岸で、首都エルサレムから約3km東という地点です。今日は、東岸のベタニア村から西岸のベタニア村に旅をするという物語です。

11:1にある「ベタニア」は西岸のベタニア村のことです。そこに三人の姉弟が暮らしていました。マルタ、マリア、ラザロの三人です。この人たちはイエスの弟子でした。信頼のネットワークにすでに入っていました。イエスの弟子たちには二種類あります。一緒に旅をする人たちと(放浪の宣教者)、定住していて旅をする人たちの宿泊をお世話する人たち(定住の支援者)です。ベタニア村の三人家族は、定住の支援者でした。おそらく、ユダヤ地方・首都エルサレムに旅をする時・滞在する時には、イエス一行は必ずベタニア村のこの家に滞在していたのでしょう。ちなみに、エリコの町のザアカイも定住の支援者という種類の弟子です(ルカ19章)。カファルナウムのシモン・ペトロの妻とその母親もまた、定住の支援者です(マコ1章)。ルカ福音書にもマルタとマリアは登場します(ルカ10章)。非常に重要な弟子たちです。ヨハネ12章で再び登場することからも伺えます(11:2で予告)。

ラザロが重い病気になりました(1節)。死ぬかもしれないほどに弱ってしまいました。そこでマルタとマリアは人をやって、「弟が病気です」とイエスに伝えました(3節)。当然二人の姉妹が期待していたことは、弟ラザロの病気をイエスが治すことです。イエスが病人を何人も治したことを知っているからです。この切なる求めに対してイエスの応えは、一見あまりにも冷たいものでした。4節と15節の言葉を合わせて考えると、「自分はラザロが死ぬまで行かない。彼が死んでからよみがえらせれば、自分に栄光が与えられ、他の者たちが自分を信じるようになるだろう」ということがイエスの考えのように読めます。自分の起こす奇跡のために家族に無駄な涙を流させるというような意地悪をしても良いのでしょうか。

このような捉え方には問題があります。特にこの後の物語で、ラザロの墓の前で流すイエスの涙の説明がつかなくなります(35節)。自分の起こす奇跡のために死んで葬られたラザロの前で涙を流す必要はありません。余りにも茶番じみているからです。

イエスの「二日間の滞在」(6節)についてはもう一つの捉え方がありうるでしょう。それは、イエスの旅に伴う弟子たちが引き留めたということです。7節でイエスは「もう一度ユダヤ(地方)に行こう」と言います。ユダヤという言い方にはベタニア村もエルサレムも含まれます。その時弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言います(8節)。弟子たちは、イエスが殺されてしまう事態を恐れています。もしかすると、この弟子たちが二日間、イエスを引き留めていた可能性があります。10:31の「石打ちの刑」に対する恐怖、それに引き続いて散り散りにさせられ、やっとこのベタニアで再び集結できたという苦労が、弟子たちをそのようにさせたのかもしれません。イエス自身はすぐに行って病気を治そうとしたけれども(何しろラザロらを愛していたのだから。3節・5節)、弟子たちが、エルサレムとベタニアの近さを考慮して、その決死行を許さなかったのではないでしょうか。そう考えると、4節の発言は、生きている人の病気を治す気構えを示しているとも読めます。「死で終わるものではない」というよりは、「死へと至るものではない」と直訳すべきでしょう(本田哲郎訳・田川建三訳、RSVも)。これは病気の治癒を示唆します。

相手が間違えていたとしても、相手の意志を尊重して付き合うことがあります。頭ごなしに相手に「あなたは間違えている。正しい行動はこうだ」と押し付けることが拙い場合があります。ハラスメント被害者の相談などでも、被害者のしたいことを最大限尊重するということがあるのと同じです。イエスは弟子たちに対してそういうラビでした。弟子たちの持つ、イエスに対する愛情に付き合ってあげた結果が、二日間の滞在だったということです。

そうすると、15節の言葉も別の輝きを発します。イエスが病人を治すという場に居ないことは、あなたたち弟子にとって良かったということは、イエスと共に旅をする弟子たちとの信頼関係にとって良いという意味になるからです。イエスが弟子の言葉に付き合ってくれるということの結果として、ラザロと共に居ないということが起こったからです。それによってイエスと一緒に命からがら逃げて再び集まった弟子たちとの信頼関係は強くなったのです。

だからイエスはここで単なる意地悪をラザロらにしたのではありません。二者択一をしたのです。体は一つしかないので、こういった選びをどうしてもせざるを得ないことがあるのです。こうしてラザロは家族に看取られて死にます。イエスはそれを知りつつ、弟子との信頼を選びました。その決断にイエスは責任を負います。決して弟子たちのせいにしないからです。

11節で遠まわしに「わたしたちの友ラザロは眠っている」と語るイエスに、わたしは弟子たちへの優しさを感じます。そして14節で直截に「ラザロは死んだのだ」と告げられた時、イエスを引き留めた弟子たちは後悔の念に襲われたことでしょう。三人に悪かったと思ったことでしょう。それでも、イエスは「あなたたちのせいで死に目にあえなかった」とか「あなたたちのせいで治療ができなかった」とかは言いません。「あなたたちにとって良かった」とおっしゃり、そして「彼のところへ行こう」と促します。このようなラビ・イエスに感激してトマスは「彼と共に死ぬために、わたしたちもまた行こう」(16節、直訳)と言います。この「彼」をラザロと取るなら、ラザロに対する申し訳なさがトマスの言いたいことです。ラザロの死に責任を負いたいということです。この「彼」をイエスと取るなら、イエスの信実な態度への応答です。イエスが殺されることになるかもしれないけれども、そこに責任を負いたいということです。

「ディディモ」(16節)は固有名詞というよりは普通名詞で「双子」と訳されるべきでしょう。あだ名の由来は分かりません。伝説はトマスをイエスの双子の弟と伝えますが、それは難しい仮説です。そうではなく、この文脈であえて双子というあだ名を紹介していることに意味を見出すべきです。ラザロの死の姿にあやかりたい、自分の十字架を背負って殺されようとするイエスの姿にあやかりたい、トマスはその覚悟を持っていたと著者は言いたいのです(本田訳「そっくりさん」)。

本筋からは離れますが、このように無名の弟子が活躍するところにヨハネ福音書の味があります。十二弟子の中でも注目されない人や、女性弟子たちがしばしば登場します。ですから、これらの人々が「とんちんかんなことを言っている無理解な弟子」とはとらないように解釈します。今までもこれからもそれが解釈の方向性としてあることをお含みおきください。

ラザロが死んだと分かった時点でイエスの仕事は変わりました。病気の治療ではなく死者の蘇生が仕事となりました。それは償いです。自分の不作為のせいで死んだ友に対して、賠償をするために行かなくてはならなかったのです。イエスとトマスら一行はラザロ、マルタ、マリアへの償いの訪問をします。イエスには殺されない自信があったようです(9-10節)。「わたしの捕らえられる時はまだ来ていない」(7:30、8:30)と思っていたから、昼のうちに歩けば大丈夫と言ったのでしょう。そして、「今は昼である・まだ夜になっていない」という理解は、ユダがイエスを裏切るために夜出て行ったことに対応しているのでしょう(13:30)。他の弟子たちは身の危険を感じて冷や冷やしていたと思います。それでもしなくてはいけないことがあります。

面と向かって謝ること、そして死んだ友を蘇らせるために危険な場所に共に行くこと、イエス一行は新しい仕事のためにベタニア村に向かいます。なぜならその人の死に、一行は責任を負っているからです。すべきことをしなかったために友ラザロが死んだ、間接的に加害責任を負っています。「あなたの兄弟はどこにいるのか」という問いが、弟子たちにはありました。二種類の弟子たちがいても心は一つです。信頼を裏切った責任を、誠実な謝罪と賠償によって悔い改め、生き直すことがここでなされようとします。このような生き方は、「この世の光を見て」(9節)なされるものです。「この世の光」とは、イエス・キリストのことです(8:12)。弟子たちはイエスを見て、イエスの後ろに従って歩いています。この世における責任を負って生きています。信頼の回復のために共に歩むこと、そこに永遠の命が輝きます。

聖書は人間について二つのことを同時に語ります。性善説にも性悪説にも立っています。生まれながらにして神の似姿であり、神の子らであり、人権・良心を持っているとも言います(10:35)。その一方で、生まれながらにして罪人であり、自分の内に光を持っていない、不完全な人の子であるとも言います(11:10)。このことを今日の聖句に当てはめて言うならば、<神は人間の間違えに付き合うほどに人間を信頼しているけれども、人間はお互いの信頼すら破り合うほどに倒錯しているときがある>ということなのでしょう。そして内なる光を持っていないから、やはり外から照らしてもらうか、または外から内に入ってもらわなくては、信頼を回復する歩みへと悔い改めること・方向転換すること・生き直すことができないということです。「さあ、彼のところへ行こう」(15節)というイエスの呼びかけなしに、新しい歩み・信頼の回復という責任ある行為へと向かうことができないということです。

今日の小さな生き方の提案は、トマスのように生きることです。内なる光は持ち合わせていなくても、世の光であるイエスの振る舞いに感銘を受け、イエスと共に信頼の回復のためにベタニア村へ行くことです。

人間は間違えを認めたがらない動物です。卑怯なところがあります。素直に謝ること、そして損なった信頼を回復する責任を負うことにためらうものです。「相手にも非がある」「第三者も同じ悪いことをしている」という言い方を、国家レベルでも個人レベルでもしがちではないでしょうか。NHKの経営委員や大阪市長らの軍隊強制性奴隷についての言葉には、その類の罪があります。誠実な謝罪と賠償、ここにしか信頼回復の道はありません。

イエス・キリストが傍らにいれば、わたしたちは素直になれるのではないでしょうか。歴史的にはしばしばキリスト教の教えは逆方向に悪用されました。「イエスの赦しがあるからどんな悪事も許される」と胡座をかいて、キリスト者(特にプロテスタント)の権力者たちは多くの民を抑圧してきたのです。そうではない。むしろ逆です。親が子どもの不始末に付き合って謝罪する、その後ろ姿に謝罪と信頼回復を子どもはならうのです。弟子たちを咎めないキリストが弟子たちと共に謝る時、わたしたちも素直になれるのです。トマスは、ラザロ/イエスと共に死ぬ覚悟を言葉にすることで、この誠実な謝罪と賠償を表現しました。わたしたちも国家レベルでも個人レベルでも、信頼回復の道を歩みましょう。決して遅すぎることはないと聖書は励ましています。