ラザロ、出て来なさい ヨハネによる福音書11章38-44節 2014年3月9日礼拝説教

先週は信頼関係の回復のためには誠実な謝罪と賠償が必要であることを申し上げました。そしてイエスの涙は謝罪であり、ラザロをよみがえらせることが賠償であると言いました。今日はそのラザロの蘇生の場面です。

土下座して泣くマリアと、立ち尽くして泣くイエス。ここに信頼回復の道がありました。マリアは黙ってイエスをラザロの墓の前まで導きます。イエスはその間中、呼吸を荒げていたようです(38節)。心の動揺は収まっていません。

姉マルタは先回りして墓の前にいました。マルタはマリアがイエスを連れてくると信じていました。マルタとイエスの信頼も「対話努力」によって回復しつつありました。その経験を基にマルタは、マリアもイエスを信じ直そうと思ったに違いないと考えたのでしょう。そして確かにマリアも「共感」という方法で、信頼回復の道を歩みだしていました。

残るはイエスによる償いの行為だけです。ラザロをよみがえらせることによって、信頼のネットワークは回復されるはずです。ラザロの復活には奇跡的な治癒というだけではなく、信頼の回復という意味が込められているからです。治癒行為そのものよりも、人間関係の修復のための償いという意味合いが強いと、今までこの物語を解釈してきました。このような視点で読むと、今日の箇所は二か所ほど理解困難な部分があります。一つ目は40節のイエスのマルタへの言葉。もう一つは、42節後半のイエスの祈りの言葉です。

新共同訳は40節を、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と訳しています。このように訳すと、マルタの無理解が際立ち、イエスの言葉も意地悪な感じになります。27節で復活を信じたマルタが、次の瞬間に復活を信じないという図になるからです。先々週お伝えした通り、27節のマルタの信仰告白は「もう一度信じてみようかしら」程度の曖昧なものです。だから39節の「四日も経っているからもう臭います」というマルタの言葉は、そんなに問題ではありません。むしろ、そんなに問題ではない言葉に、厳しい応答をするイエスの方が大人げないように思えます。

新共同訳の立場は文の最後にある「言わなかったか」という否定疑問文を反語表現(強い肯定)と考え、肯定文に直した翻訳です。しかし繰り返し言っていますが、そもそもここは疑問文ではない翻訳が成り立ちます。「言わなかったか」ではなく「言わなかった」とも訳しえますし、今日はそのように考えます。なぜかと言えば、11章を振り返ると、「もし信じるならば神の栄光が見られる」とイエスはマルタに言っていないからです。「この病気は死に至るものではない。神の栄光のためである」という4節の言葉は、イエスが共に旅をしている弟子たちに言った言葉です。40節の言葉をわたしはイエスがマルタをかばう言葉と理解します。「四日も経って臭う」というマルタの言葉は、単に不信仰というばかりではなく、「さすがのイエスさまでも蘇生までできないのだから無理しなくても良い」という優しさでもありましょう。それに対して、イエスは「信じるならば神の栄光を見るというように他の人には言ったのだけれども、そう言えば、わたしはあなたには言わなかったね」と優しくかばったのです。

マルタとイエスは言葉を交わしあう中で信頼関係を修復してきています。ここもぎすぎすした対話を想定しない方が良いと考えます。たとえば、42節の「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」というイエスの祈りの言葉は、22節のマルタの言葉とそっくりです。イエスはわざとマルタの言葉を受け入れてなぞります。それが互いに尊重しているということの現れです。そう考えると、40節を厳しい叱責のようには解さない方が良いでしょう。とかく聖書編纂や聖書翻訳の歴史は、「無理解な女性弟子がいたのだ」ということを示そうとすることだったり、女性弟子の存在を無くそうとすることだったりの連続です。男性弟子の優位性を強める方向に警戒すべきです。

もう一つの問題はもう少し深刻です。42節後半のイエスの言葉は、奇跡によって信者を増やすことに批判的である福音書の全体からどのように理解すべきなのでしょうか。周りにいる群衆がイエスを信じるためにラザロを蘇生させるという奇跡を起こすのだ、とイエスは宣言しているのでしょうか。45節は、この奇跡を見た多くのユダヤ人がイエスを信じたと報じます。12:11を見ると、ラザロ蘇生事件はイエスの弟子が増える良いきっかけのように書かれているようにも読めます。さらに12:17-18で、この信じた人々がエルサレム入場の際に多くの群衆たちを呼び集める役割を果たしています。奇跡行為によって信者を増やすことがわたしたちの模範となるべきなのでしょうか。

そうではないでしょう。2:23のイエスの不信感こそが最重要の規範です。つまり、「奇跡を見て信じる者たちをイエスは信用しない」ということが基本です。ということは別の理由で42節のような言葉が発せられていると考える方が自然です。蘇生の奇跡を見て信じる人が増えたことは、表面的に弟子の数の急増がすばらしいということではありません。そうではなく、表面の現象の陰で神の計画がひそかに進んでいるということに意味があります。12:23でイエスは「人の子が栄光を受ける時がきた」と言います。ここで言う栄光とは、屈辱にまみれた十字架刑死のことです。

イエスの十字架刑死は祭司長たち・ファリサイ派の人々・権力者たちに扇動された多くの人々によってなされました。多くの人々というのはいったんイエスを信じた人々です。そのような人の方が、失望感が強く、かえって憎しむようになりやすいものです。ユダという裏切った弟子についても似たようなことが言えるでしょう。奇跡を行うイエスを信じる人々は、奇跡を行わないイエスに対して憎しみをぶつける人々でもあります。ラザロをよみがえらせることで、そのようなイエス殺害の加害者予備軍が大量に生み出されました。12:10はラザロ蘇生事件がイエスへの殺意を強める効果を持っていたことの証拠です。

イエスは十字架で殺されるために神がこの世界に派遣した神の子です。このことを認めたくない者たちが、まさにこのことの立証のために用いられます。ユダの裏切り、十二弟子たちの裏切り、ここで大量に発生した弟子たちの裏切り無しに十字架は起こりません。十字架が起こらなければ復活も起こりません。世界の贖いは起こりません。神の計画というものは人間の悪だくみをも利用しつつ進んでいくものなのです。

奇跡によって人気を得るためではなく、その後に十字架で殺されるために、イエスはラザロをよみがえらせます。この償いの行為は、これから起こる贖いの行為の前触れとなります。マルタ・マリア・ラザロに対する賠償は、全世界に対する贖罪の前触れです。そのためにイエスは神の懐から遣わされた神の子、世の罪を取り除く神の小羊なのです。

そう考えるとラザロの蘇生は、イエスの復活を指し示す前触れとして位置づけられます。イエスがここでしていることは、アッバと呼ばれる神がこれからしようとしていることです。ラザロが墓から出てきたことは、イエスがこれから行うことです。この両者を重ね合わせて読み直してみましょう。

墓穴には石のふたがされていました(38節)。ラザロの墓もイエスの墓も同じです。イエスは「その石をとりのけなさい」と言いました(39節)。イエスの墓穴のふたは神の命令を受けた天使たちがとりのけました(20:1)。イエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫びました(43節)。新約聖書の表現では、「イエスがよみがえった」という言い方はほとんどありません。そうではなく、「神によってイエスはよみがえらされた」と書かれます(ロマ4:24-25等)。この言い方が事態を正確に言い当てています。ラザロと同じように、イエスは神の呼びかけによってよみがえらされたのです。死人ラザロは死んだまま出て来ました(44節。なお39節も参照)。イエスは、十字架の傷のあるままによみがえらされました(20:27)。十字架につけられたままの姿で復活したのです。ラザロは巻かれていた布をほどかれました(44節)。同じようによみがえらされたイエスに巻かれていた亜麻布は墓穴に置かれていました(20:5)。

イエスはマルタ・マリア・ラザロとの関係修復のためにラザロをよみがえらせました。神はイエス自身との関係修復のためにイエスをよみがえらせました。かつて「これはわたしの愛する子」と呼んだ息子を、十字架で生贄とし見殺しにした行為。我が子が「どうしてわたしを見棄てたのか」と絶叫して恨みの声を上げて虐殺された時、神と神の子の信頼にもひびが入ったのです。それを修復するには、よみがえらせるしかありません。神は最も深いところに落ちていったイエスを、自らも最も低いところに赴き、「わたしの愛する子よ」と呼びかけ、「神の子」として改めて認めてよみがえらせたのでした。神の意志によって殺された独り子への償いを神は行いました。

死んだラザロ(および姉妹マルタ・マリア)と、彼の死の責任を負うイエスとの間の信頼がラザロの復活によって復活しました。同じように十字架で死んだイエスと、彼の死の責任を負うアッバなる神との間の信頼がイエスの復活によって復活しました。このような出来事に永遠のいのちが宿ります。

キリスト信仰の中心はイエスの十字架と復活にあります。ところが、実質的には十字架にばかり力点が置かれているようにも思えます。たとえば、<人間には罪があり神に反逆している、その罪の報酬は死である、本来は死ななくてはいけない人間だが、全世界の人間の代わりに神の子が十字架で殺された、この身代わりの死を信じるならば永遠の命が与えられる>という説明が多いように思います。復活は影が薄い、これは西方教会の特徴であり反省点です。

復活を神の償いとして捉え直してみてはどうでしょうか。人間の罪の問題を神の責任として考え直せないかということです。十字架の強調は人間側の罪の悔改めばかりを語ります。復活の強調は神の後悔・悔改め・賠償を語ります。「生まれながらにして罪人」と言われても反論したくなります。「ではどうして罪を犯す自由を人間に与えたのか」(創2章以下)。特に人間の残虐な行為(南京大虐殺など)、人間のむさぼりの行為・その結果としての大惨事(原発事故など)を前に、人間の罪と同時に神の「看過」「黙認」の責任も問いたくなります。バベルの塔の時に介入し人間の暴挙を中止させてくれた神が(創11章)、なぜ今回は見過ごしたのかという問いです。その問いは、イエスの「二日間の滞在」に対する恨みと似ています(6節)。神への不信感です。

ラザロとイエスをよみがえらせた復活の神は、自らの責任を認め悔い改める神です。そして不条理の苦しみで死んだ人を墓穴から呼び出す方です。そのようなかたちで地上に正義を行う神です。だからわたしたちはこの神に向かって、イエス・キリストの名前を通して、「わが神、どうしてわたしを見棄てたのか」と問うて良いのです。生きている間も、また死んだ後も嘆きの祈りを発してよいのです。その時神は言い訳をしません。「お前が罪人だからだ」「わたしの勝手だ」などと言わないのです。わたしたちを創った神はただ涙を流して、わたしたちの名前を呼んで、絶望の淵から引き上げてくださいます。「ラザロ、出て来なさい」。このいのちの神を信じて、破局の時代にあっても常に希望をもって歩んでいきましょう。