光の子となるため ヨハネによる福音書12章27-36節 2014年4月13日礼拝説教

受難週となりました。教会暦によれば、今日が「棕櫚の主日」であり、今週の木曜日が「洗足の木曜日」、金曜日が「受難日」です。イエス・キリストが十字架で苦けたことを記念して、イースター前の一週間を受難週と呼び、教派・教会によっては特別な礼拝を週日に設けています。わたしたちの教会では特に平日には何も行いませんが、来週のイースターには恒例の卵を配りたいと考えていますし、午後には持ち寄りの愛餐会(昼食とお楽しみ)を予定しています。イースターは教会暦の中でも最も古く定められた祝祭日です。当然です。キリスト教の信仰の中心はイエス・キリストの十字架と復活にあるからです。今日は特に十字架の出来事に焦点を合わせて、今週の聖句を読み解いていきます。「光の子となる」とはどのようなことを意味するのでしょうか。

第一に、イエス・キリストの十字架というものは最大級の悲惨な死であり、暴力に満ちた虐殺であったということに着目しましょう。キリスト教主義の幼稚園のカリキュラムでも、十字架について真正面から取り上げているものはほとんどないでしょう。こどもたちに伝えることをためらうほどの暴力描写だからです。23節で自分の十字架を覚悟したかのように見えたイエスでさえ、今日の27節においては完全に取り乱して十字架で殺されたくないという本音を語ります。「心騒ぐ」というより、「精神(25節で「命」と訳されている語)が混乱している」という方が直訳調です(田川訳)。また、「父よ、わたしをこの時から救ってください」という祈願は、有名な「ゲツセマネの祈り」を下敷きにしていることは明らかです(マコ14:35-36)。ヨハネはマルコを知っています。

キリストの十字架は人間の罪を教えます。国家権力というものが個人を犠牲にしつつこの世の支配者たちの身を守ろうとするものであることが、すでに示されました(11:50)。「犠牲のシステム」は罪の仕組みです。イエスの死刑は冤罪でした。その際に、イエスが差別を受けているガリラヤ地方の人であることも、加味されています。被差別部落出身の石川一雄さんが冤罪を被ったことと似ています。差別は罪そのものです。兵士たちはイエスを侮辱し、彼に拷問をし、残虐な方法で彼を処刑しました。人格を踏みにじる言葉と行為による暴力は罪です。心を傷つけ、体に傷害を負わせ、命を奪う、たとえ国家の名においても(合法的であっても)このようなことは罪と言わなくてはいけません。

さらに、イエスの仲間たちの多くは、イエスの危機に彼を見棄てて逃げたのです。卑怯な自己保身も罪です。法に触れるわけではありませんが倫理的な意味で罪と言えます。イエスのしるしを見て信じた群衆は、権力者たちに扇動されてイエスを殺す世論を形成しました。この無責任な態度も倫理的には罪です。とある科学者を任意に祭り上げて、その直後、任意に同じ人を批判する、無責任な報道の姿勢に煽られる人々に似ています。

イエスの十字架は人間の罪を暴きます。被害者が加害者の残虐さを教えます。地面に流された被害者の血が叫んで加害者の罪を告発するのです。それは2000年経っても全然解消されない人間の性質です。わたしたちは未だに「暗闇の中を歩く者」(35節)です。イエスの十字架は現在のわたしたちの罪を告発しています。この意味でイエスは十字架につけられたままなのです。

ところが第二に、このイエスの十字架は神の性質そのものを現す出来事でもあります。28節にある「あなたの名を栄光化する(田川訳・RSV)」という言葉は、神が自分自身の性質を明らかにするという意味です。旧約聖書以来、「神の名」「主の栄光」という言葉は、神の臨在を婉曲に表現するものだからです。神がそこにいるということを言いたい時に、ユダヤ人は「神の栄光が現れた」と言います(エゼ1:28他)。また神を呼ぶ時に「ハ・シェム(その名)」と今でも言っています。教会でも主の祈りにおいて「御名を崇めさせたまえ」と言いますが、これも「神を崇めさせてください」いう意味の婉曲表現です。ちなみに29節の「雷」も、神顕現の際にしばしば登場するものです(出19:16)。

だから28節の「御名の栄光を現してください」というイエスの願いに対する神の答えは、「わたしは神の子を地上に送ることで彼の活動において自分自身を現した(1:18)。再び彼の十字架において自分自身を現そう」という意味です(28節)。もし神が地上に降りたったなら、イエスのように愛を語り・愛を行うであろうからです。イエスはサマリア人もギリシア人も差別なく交わりました。病人をいやし、飢えている者に食べ物を与え、酒宴には酒をふるまいました。さまざまな愛の教えを説き、愛の無いユダヤ人権力者たちを批判しました。これが「既に栄光を現した」ということです。

このイエスが十字架で殺される時、再び愛の神はその性質を明らかにします。十字架は人間の罪を教えるものですが、さらに十字架はその罪ある人間をすべて無条件に赦す神の愛を教えるものでもあるからです。このことを理解するためには過越祭というユダヤ人の祭について知る必要があります。過越祭はイエス一行が滞在中のエルサレムで行われている祭りです(1・12・20節)。

元々は遊牧民たちの習慣だった過越祭は、出エジプトという奴隷解放の出来事と結びついて神による救いを記念する祝祭に成長しました。今でもユダヤ人たちは各家庭で丁度今頃の季節、特別な食事と特別な式文を用いて過越祭を行なっています。元来は家内安全を祈るために、羊の群れの中の「長子」を犠牲にしてその血を柱と鴨居に塗りつけ、魔除けをするという趣旨の習慣だったと言われます。その風習が、奴隷だったイスラエルを支配するエジプト人家庭の長男のみを神が撃つ、その結果エジプトの王がイスラエルの退去を命ずるという物語と結びついて、出エジプトの記念祝祭となったのです。こういう現象を、「風習の歴史化」などと呼びます。土着の習慣を救いの歴史と結びつけるわけです。先週行った「進学・進級の祈り」も立派な歴史化です。

過越祭は、一匹の羊が犠牲となって全体の家を救うという趣旨と、その行為が大逆転とも言える贖い(奴隷を自由人にする買戻し行為)/救済/解放となるという趣旨が合わさった祭りです。ユダヤ人にとってそれはからだに染み付いた観念です。日本に長く住むと元日は休むものという観念が染み付くのと同じです。その過越祭という宗教伝統が基礎にあって、イエス・キリストの贖罪/救済/解放という建物が立ち上がります。十字架で殺された神の子イエスは、過越祭で犠牲とされる羊の「長子」なのだ、イエスは神の小羊なのだという信仰です。ユダヤ人でもなく、遊牧民でもない者たちは、聖書の世界に馴染むためには時折この類の知識を知っておくと便利です。

過越祭は、①一人の犠牲が全体を贖う、②神からのこの世の支配者への一撃という二つの趣旨を持ち、それはイエス・キリストの十字架に引き継がれます。それも一段上回ったかたちで引き継がれます。神の独り子の犠牲は時空を超えて全世界の人間を贖うと信じられるからです。十字架はすべての人間の罪を教えます。しかし同時に十字架は、すべての人間の罪を赦す贖いでもあります。もし、あのナザレのイエスを神の独り子であると信じ、ユダヤ人の伝統に基づいてイエスが過越祭の小羊と同じであると信じ、イエスの十字架を唯一無比の犠牲と信じるならば、わたしたちはすべての人間がすでに罪を赦された平等な人間であるということを知るのです。

それは神の本質を知るということです。神は愛です。わたしたちが生まれる前からわたしたちの全存在を丸ごと受け容れ、罪を無条件に赦す神は愛です。わたしたちが死にたいほどに失望するとき・疲れたとき、何かの犠牲のシステムに絡め取られているときにも、「あなたは死ぬ必要はない。生きなさい。わたしが決定的にただ一度犠牲となったのだから」と十字架から語りかける神は愛です。イエスの十字架において、神の本質が再び現れたのです。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)。これは十字架の意味を教えています(33節)。十字架で起こることは交換です。神の独り子が人の子として処刑されいのちを奪われる時、すべての人の子らが神の子らとしていのちを与えられます。イエスのいのちはすで全人類に与えられているのです。信仰とは、すでに与えられた神の子としてのいのちを、後で追認することです。2000年前にすでに無条件にふるまわれていた永遠の命を、振り返って「アーメン、ありがとう」と受け取ることです。

そしてわたしたちにとって信仰とは抽象的な観念に終わるものではありません。教理の善し悪しはただ生き方の善し悪しによって証明されます。正しい教え=正統(ortho-dox)か否かではなく、正しい実践(ortho-praxis)か否かが問われます。過越祭の第二の趣旨、「神からのこの世の支配者への一撃」というものをキリスト信者が実践しているか聖書を読む者は問われています。

「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される」(31節)とイエスは十字架の意味を説明しています。しかしあれから2000年経った今も権力を振るう者たちの暴力は後を断ちません。どのような意味で支配者は追放されたのでしょうか。わたしは、十字架においてより高い倫理というものでこの世は裁かれ、この世の支配者の生き方が否定されたと考えます。暴力に対して、イエスは非暴力貫きました。差別・侮辱に対して、イエスは相手への尊重を貫きました。呪いに対して祝福を返しました。下品な生き方が十字架において倫理的に否定され、追放される第一歩が始まったのです。

罪赦された罪人は、損得勘定で考えてずっと罪を重ね支配欲の赴くまま暴力的に生きるべきでしょうか。どうせ神がすでに赦しているなら、好き勝手な生き方・下品な生き方の方が楽だし得ではないでしょうか。それは誤解です。

このような誤解は、光を持っているのにも関わらず、その光を升の下に隠して、暗闇を歩くようなものです。35・36節の「光のあるうちに歩きなさい」の直訳は「あなたがたが光を持っているうちに歩きなさい」です。ここでのイメージは「闇夜に小さなランプを持って歩いている」というものです。「昼間、暗くならないうちに歩きなさい」ではありません。だから光の子とは、足元を照らす光であるイエスをしっかりと手に持ち、その光を信頼して、暗い夜道をしっかりと歩く人のことです(36節。1:5参照)。ランプは2000年前にすでにすべての人に手渡しされています。よみがえらされたイエスは永遠にいつもおられます(34節)。問題はわたしたちがこの光を信頼し光の導きを信じるかどうかなのです。

この世の支配者たちは倫理的にすでに十字架のイエスに敗れています。「闇は光に勝たなかった」のです(1:5口語訳他)。しかし、この世の支配者たちはいまだに力を奮っています。恐らくこの闇夜の状況は世界の終わりまで続くでしょう。義の太陽であるキリストが来るまで世界の完全な贖いは完成しません。「特定秘密保護法成立」「集団的自衛権行使を閣議決定で」「武器輸出三原則改悪」などを見るにつけ闇夜の深さを思います。夜明け前の闇です。

今日の小さな生き方の提案は、光の子となるということです。光に照らされ自分の罪を知って謙虚になり、光を手に与えられ赦しを知って堂々とし、光を信頼し光に導かれて闇夜を歩くことです。倫理的に優る仕方でこの世を裁く生き方へとわたしたちは招かれています。