「積極的平和主義」「集団的自衛権」という単語についてしばしば目にし、耳にする毎日です。テレビ報道の生ぬるさにもやきもきしています。いよいよ「戦争をする国づくり」の総仕上げがなされるのだという暗い予感があります。というのも積極的平和主義による平和が、今日の聖句の「世の支配者が与える平和」に思えてならないからです(27・30節)。
1992年のPKO協力法、1999年の国旗国歌法・周辺事態法、2001年のテロ特措法、2003年のイラク特措法、2007年の教育基本法改悪、2012年の特定秘密保護法など、平和憲法を骨抜きにする解釈改憲は確実に進んできました。日本バプテスト連盟もその時々に反対の声をあげてきました。政府は国内外の反対/慎重意見を無視しています。また自分たちが築き上げてきた国会の合意すら軽視しています。名古屋高裁のイラク自衛隊派遣違憲判決も無視しています。このように閣議決定のみによる九条の解釈改憲という荒業で自衛隊が海外で武力行使をする(=交戦権を用いて戦争をする)道を拓こうとする政府を前にして、わたしたちも「平和」について考えたいと思います。キリスト者にとって、キリストの言う「わたしの平和」が、議論の出発点です。キリストの平和は積極的平和主義とどこが違うのでしょうか。
キリストの平和とは、今ここにある平和のことです。27節に、イエスが「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と、弟子たちに約束しているからです。この弟子たちがイエスの昇天後、聖霊(イエスの霊/息吹)を受けてキリスト教会を設立したのでした。わたしたちの泉バプテスト教会も2000年続くキリスト教会の一つの支流です。その意味で、ここに聖霊が与えられ、ここに平和があります。地上には平和が無い状態がありえます。「中間の時代」にあっては、むしろ平和が無い場合の方が多いことでしょう。教会は、その世間の中で、キリストが再び戻ってくるまで(28節)、平和が実現している交わりを形作らなくてはなりません。「御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈っている通りです。しかも、聖霊を素直に受け入れていれば、「平和づくり」は何の力みもなくできるはずなのです。
毎週、礼拝ができるということは平和そのものです。「み名を崇めさせたまえ」という祈りの実現です。わたしの祖父は第二次大戦中伊豆の大島の牧師でしたが、ほどなく教会を閉じ故郷である飛騨高山に疎開しました。礼拝の自由がなかったのです。当時の特高警察は内心の自由を踏みにじり多くの牧師を逮捕し拷問をしたのでした。心の自由・思想信条の自由・信教の自由が保障されている度合いに、立憲民主主義の成熟度があらわれます。任意団体として好きな礼拝をするために集まれることは平和の具体的あらわれなのです(憲法20条)。
さらにわたしたちの礼拝を中心とした交わりの中身を見てみましょう。小さな交わりはキリストの平和の特徴です。20人いかないぐらいの礼拝です。貧しい群れです。牧師一人を養うことが難しいので幼稚園園長として働いています。初代バプテスト教会に倣ったら、それでいいのではないかと思います。兼職を前提にした教会形成は悪いことではありません。どんなに信者を増やそうとしても、人の心は自由なので計画通りにはいかないからです。人は聖霊に導かれなければイエスを主と告白できません。心の支配・操縦は不可能なのです。
古代の教会は信者の自宅で礼拝をしていました。家に集まれる数が平和な交わりの限度です。米国の千人規模の「メガチャーチ」は「株式会社に似ている」と当の米国の神学校からも批判されています。同じ礼拝を経験しても一人一人の顔を合わせた交わりが困難になるからです。ましてや何回も礼拝をし、拡大再生産を目指す伝道プログラムに追い立てられる時、交わりは希薄になります。また、それぞれにデスクを構えた「~主事」「~担当牧師」といった教役者の分業体制が仮に機能したとしても、職業然とした有り様がキリストの教会としてふさわしいかが問われています。南部バプテスト連盟の教会形成を日本でどこまで模範にできるのでしょうか。むしろ簡素に小さな群れが平たい形で集まり一つの礼拝をささげることに価値があります。その方が平和だからです。平和とは互いに知り合える距離に共存することです。一人の人が夕食の時に全員の足を洗うことができる規模が、平和の交わりの限度です。
わたしたちの礼拝に再び注目しましょう。さまざまな人が集まっていることに気づきます。平均年齢を調べたことがあります。1歳から84歳までの平均は36歳ぐらいでした。わたしたちの群れは、少人数ですが、年代別の均衡の良く取れた交わりです。10代までの人が6名、20-30代が3名、40-50代が3名、60代が3名、70-80代が2名、毎週来ている人だけでこのような分布です。犬も含めてこの多様性も平和の実現です。
さまざまな人が居て良いという寛容な雰囲気は平和そのものです。1歳の子どもが礼拝中によちよちと歩き回って年配の人に愛想を振りまいている図、また年配の人も思わず恵比須顔をして笑いのお返しをしている図は平和そのものです。この人たちは礼拝をしながら平和をつくっています。互いに寛容であるからです。お互いに力を受けているからです。聖霊は多様性を喜ぶ交わりをかたちづくります。イエスが創立した信頼のネットワークも、多様な人々の集まりだったことは、今までヨハネ福音書で確認してきた通りです。
わたしたちは、毎週行っている泉バプテスト教会の礼拝という現実から平和を学びます。それは貧しく小さいことであり、キリストを中心にして多様ないのちが集まって座ることです。この平和についての学びは、イエスが話した教えを思い出すことであり(説教)、イエスが行った愛を真似することであり(晩餐)、イエスがつくった信頼のネットワークを思い起こし継承することです(交わり)。あの時平和を形作ったイエスが、今わたしたちの教会に聖霊によって平和を与えてくださっていると確認することです。しかも、この振り返り行為そのものが、聖霊の導きによるものです(26・31節)。
聖霊によって与えられた平和は、この世が与える平和とは与え方が違います(27節)。この世が与える平和とはヨハネ福音書の著者の時代にあっては「ローマの平和」と呼ばれるものです。軍事的支配による積極的平和主義を古代の歴史家は褒め言葉として「Pax Romanaローマの平和」と呼びました。多くの国々を軍事併合して自らの属州とし、ゼネコンによって道路を整備し、銀行によって古代資本制を整備し、中央集権の巨大国家を造ったローマ帝国の支配を指す言葉です。ローマの平和においては、大きいこと・富んでいることや、共通言語を使うこと(ギリシャ語・ラテン語)、ローマ皇帝を礼拝することが求められました。軍隊はある種の平和を実現します。それは力を持つ者の利権のために、力を奪われた者を犠牲にしつつ、「犠牲のシステム」を維持するという平和です。
キリスト者たちはローマの平和を批判し、それに対置して「キリストの平和Pax Christi」という言葉をスローガンにしました(27節)。なぜなら、イエスが「世の支配者」と呼ばれるローマ帝国および帝国の手先/出先である属州ユダヤの権力者たちに処刑されたからです(30節)。29節の「事が起こった時」とは、イエスの逮捕の時点であると解します。〔エルサレム駐屯のローマ軍がイエスを殺したことは、沖縄の基地課題をわたしたちに突き付けています。〕 また、その十字架刑と復活と昇天を経て、イエスの霊(聖霊)が弟子たち一人一人に降り、キリストのからだをかたちづくる群れが起こり、ローマの平和に反対するキリストの平和を実現したからです。この意味で、ローマ皇帝はイエスをどうすることもできませんでした(30節)。ローマ軍さえも逆用して神の計画は進みました。犠牲はイエス・キリストだけで十分であり、誰をも犠牲にしない真の平和をつくるためにイエスの霊と永遠の命が配られ、弟子たちは教会づくりを命じられたのです。この世の支配者たちのようにではなく、群れのすべての人が給仕役となり足を洗い隣人に仕えるときに、愛の交わり・真の平和が実現します。晩餐はキリストの平和の実現です。
積極的平和主義とは、自衛隊も国際紛争に出かけて行って世界の平和を維持するために貢献すべきであるという考え方です。集団的自衛権の行使とは、日本と近い関係の国が攻撃されるとみなされる時に、自衛隊が戦闘に参加するということです。このことによって、得をするのは誰であり、損をするのは誰でしょうか。得をするのは武器を製造し売る人々であり、そのような大企業から多額の政治献金をもらっている大政党です。それは国際的な貿易網ですから日米だけの問題でもありません。原発産業と同じですし、軍産複合体は原発産業と同業者でもあります。この人たちは世界中に適度に戦争・紛争・テロを必要とする人々です。戦争を遂行するための資金調達として一国の経済があるのではなく、国際的な金儲け集団のために戦争があるのです。この類の国際的大企業が貧しい紛争地域の武装集団に武器を売る時不正がさらに増します。
損をする人はどのような人でしょうか。教育機会を奪われ騙されて殺し合いに仕向けられている貧しい人々や、地球の裏側まで行って殺される自衛官、その家族・友人です。下馬地域にも自衛官の方々が多く住んでいますから、決して他人事ではありません。「自衛隊は戦争をしない」ということを信じて入隊した人は約束違反を指摘できます。また、海外に住む日本人も損をします。実際にアフガン戦争・イラク戦争の自衛隊派兵によって、「戦争をしない平和な日本」のイメージが壊され、迷惑した人々もいます(中村哲医師など)。「紛争地域で商売をしている日本人の警護のために自衛隊を派遣する必要あり」と言われても、そもそもそこまでして金儲けする必要があるのかという問いに行きつきます。富んでいること・大きいこと・軍事的大国であることに、そこまでの価値があるのでしょうか。少子化がそんなに悪いのでしょうか。つつましく小国となり平和外交に尽くす「道義的な大国」(内村鑑三)になりたいものです。
平和の作り方についてキリストの教会は聖霊によって知恵を与えられています。貧しく小さくても良い・多様性を認める・キリストの周りに座る、これらが平和づくりの要点です。顔と顔とを合わせる交わり、さまざまな言葉や文化や身体特徴を持つ人々が居ても良い交わり、暴力を棄てて歌い合い・祈り合い・話し合い・助け合う交わりです。金儲けや大きく見せようとする見栄が無いところが大切です。神が偉大だからわたしたちは小さくて良いのです(28節)。
仮に個別的自衛権も認めないで自衛隊を災害救援隊に改組した場合に、丸腰となった国は領土問題をどう解決するのでしょうか。金儲け(所有欲)と大国主義と武力による威嚇(支配欲)を棄てて、膝を交えて座って話し合いをする、心を開いて徹底して話し合うのです。そうして柔軟な頭であらゆる妥協案を熟議することです。熟議の間に民間交流をし、国境をゆるやかにします。EUのように貨幣から統一し関税を失くしていってもよいでしょう。資源も含め互いに共有する/どちらも領有しない(南極)などの発案が出るかもしれません。両方の言語・歴史を併記して学ぶことも可能です(独仏)。
侵略されてもすぐに降伏すれば自衛戦争より被害が少ないものです。外国政府と今の政権とどちらがましか吟味して平和的に選び直せば良いだけのことです。「さあ、立て。ここから出かけよう」(31節)という励ましは、既存の袋小路からの脱出を促します。聖霊によって新しく生まれ変わりましょう。