わたしの友 ヨハネによる福音書15章11-17節 2014年6月29日礼拝説教

今日の話は先週の続きです。先週は弁護士としてのイエス・キリストという視点から、ぶどうの木のたとえを説明しました。実をつけない枝を切り落とそうとする農夫(神)に対して、必死に弁護活動をするぶどうの木がイエスです。そしてすべての枝をかばうためにぶどうの木は根元から切り倒されたのでした。これが十字架刑死の意味です。すべての枝が新しいぶどうの木に接木されることを願って、枝の代わりに・枝のために・枝のせいで、イエスは十字架で殺されました。農夫である神はイエスをよみがえらせ、新しいぶどうの木である復活のからだ・教会を、切り株から生やしました。わたしたちはこの復活のからだの内に居ることにより、わたしたちの内に復活のイエスの霊のからだを宿します。この交わりを断つことは誰にもできません。

今日の箇所は、さらに具体的に十字架刑死の意味を説明しています。イエス・キリストの十字架刑死は、友のために命を捨てるという行為です(13節)。ギリシャ語の前置詞ヒュペルは、「代わりに」「ために」「せいで」の意味を持ちます。キリストの十字架はそのすべての意味であてはまります。これ以上の大きな愛を誰も持つことはできません。今日は、ここで言う「友」とは何であるのかについて、深く・広く考えていきましょう。

友とは、主人と奴隷の関係に立たない人間たちのことです(15節)。支配と被支配の関係や上下関係に立たない関係、つまり対等の人間関係が友だち同士の関係です。多くの人権侵害の事象は、上下関係に基づく力の濫用によってなされ、また温存されます。都議会を見ても分かるように、性差別も男性優位の社会が続く限り温存されます。イエスは神の子です。上下で言えば、上の人です。その100%の神が、100%の人となりました。先生と生徒でもなく、主人と奴隷でもありません。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)とイエスは語ります。同じ人の子の高さです。

イエスが弟子たちと同じ高さになったこと・同時に弟子たちに同じ高さを要求すること、これが友人関係の模範です。足を洗うという場面では、相手の下に立つこと・仕えること・奴隷となることが勧められました。しかしそれでは不十分です。なぜかと言えば、それは差別を強化する言い方にもなりうるからです。「女性は黙って出産や育児(託児)、家事(食事や掃除)などの奉仕をしておけば良いし、男性に仕えれば良い、意思決定は男性のみ。なぜなら聖書に『仕えなさい』と書いてあるから」という論法が、都議会だけでなく教会でもまかり通り得るものです。

かつて志村教会で行われたドメスティック・バイオレンスについての学びで教えられたことがあります。それは「下手に出るコントロール」という言葉です。なぜ暴力をふるう夫や恋人から逃げないのか、関係を切れないのかという疑問に対する答えの一つです。暴力をふるうことは上手に出るコントロール=力の濫用として、分かりやすいものです。決して暴力や拘束は愛情表現ではありえません。ただしそれだけでは支配は完成しません。同じ暴力的人物がその後に猫なで声で優しくしてくることがあります。この計算づくの行為により愛情の錯覚が起こり、「わたししかこの人を愛せない」などの倒錯した感情が芽生えます。男女は対等でなくてよいという刷り込みが根っこにあります。

だから教会は、「人間は対等でなくてはならない」という言葉を発し続けるべきです。幼稚園の卒業式でもこの聖句から語りましたが、すべての人は対等の「神の似姿」です。同じ高さの敬意を払われ、適切な距離を保って尊重されるべき存在です。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)と言っている限りにおいて、すべての人は互いに対等の隣人として愛し合うべきなのです。友ということの第一の特徴は対等であるということです。

次に、友には隠し事がないという第二の特徴が挙げられます。「神から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから、あなたがたを友と呼ぶ」(15節)とあります。上下関係であれば、上司は部下にすべてを知らせる必要はありません。部下は逆にすべてを報告する義務を負っています。徹底した報告義務はカルト宗教のマインドコントロールの手法です。友人関係は、自発的にお互いがすべてを知らせる関係です。信頼している相手に自分のことを知ってほしいからです。そのような相手こそ友と言えます。

創世記18章16節以下には興味深い事例が載っています。今日の招きの聖句もその文脈の一句です。これは神がソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしていることを、アブラハムに知らせる場面です。神は自問自答します。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」(創18:17)。アブラハムは「神の友」というあだ名を持つ人物です(イザ41:8、代下20:7、ヤコ2:23)。友には隠し事をしないものです。特に重大なことについては、あえて打ち明けて助言を求めるものです。事実、この後アブラハムは神に直言して、「もし10人の正しい人がいれば町を滅ぼさない」という約束を神から引き出しています。神はアブラハムを友、すなわち対等な話し相手とみなしています。この旧約聖書の物語は、イエスとその弟子たちとの関係の類比です。

ここで勧められていることは、イエスのように心を開くことです。自分にとって大切なことがらを、誰か信頼できる人物に打ち明けるということです。最後の晩餐におけるイエスの場合は、自分が逮捕され殺されるという大切なことがらです。イエス自身心を騒がせ息を乱し混乱している時に、弟子たちに打ち明けたことが分かります(13:21、14:1)。そうすることによって隣人が友人になります。そして信頼のネットワークが広がっていくのです。対等に向き合って、心を開いて率直に語り合う人同士のことを友といいます。友となることがイエスの命じた行いである「互いに愛し合うこと」です(12・17節)。傲慢に相手を傷つける行為ではありません。卑下してじっと我慢をする行為でもありません。良い言葉・自分の大切にしている事柄を、素直に語り合うのです。

教会では何を話しても良いと勘違いする場合があります。特にバプテスト教会は話し合いを重んじますから、話し方や話し合いの作法について留意すべきです。心を開くということと、悪意までも露出するということは違います。むしろわたしたちは自分の弱さを素直に語るのです。それは良い言葉です。「これを話すと馬鹿にされるのではないか」と思って大事にしまっている事柄を、素直に語るのです。相手を傷つける言葉ではありません。弱さを語ることは愛し合うための土壌づくりとなります。わたしたちは強さや能力で連帯するのではなく、むしろ自分たちの弱さを分かち合って連帯するのです。

さて、ここまで友について考えてきました。同信の友同士ならばこれで良いでしょう。ただ少し疑問も湧いてきます。はたしてイエスとその弟子たちは、今申し上げたような友人関係に立っていたのでしょうか。対等でありかつ互いに心を開き合っていたのでしょうか。たとえばユダはイエスに心の内を明かしていたでしょうか。ペトロは自分の弱い部分をイエスに言っていたでしょうか。全然、できていないように見えます(神とアブラハムも)。

イエスが「友と呼ぶ」と言っているのは、きわめて一方的な言い方のように読めます。友に値しない者を、あえて友と呼んでいるように感じられるのです。たとえば、「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉や、「わたしがあなたがたを任命した」(16節)という言葉にも、同様に一方的な響きがあります。対等の友人ならば、友人を選び合うという状況にあるはずです。人間同士の友人関係と異なる次元の問題が、イエスと弟子たちに起こっています。「イエスの友となる」という出来事は、一方的な恵みによってのみ可能な出来事なのです。

イエスは自分を官憲に引き渡すユダに向かって、「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタ26:50)と言います。この場面、単純にユダはイエスの敵です。その敵に向かって「友よ」と一方的に語りかけています。また、イエスは自分を三度否定したペトロにも愛情深い眼差しを向けます(ルカ22:61)。これも一方的な赦しの眼差しです。敵に向かって「あなたはわたしの友である」と目で語りかけているのです。さらに十字架上で自分を殺している人々のために神に祈り、「彼らをお赦しください」と言うのです(ルカ23:34)。これも敵を友とする行為です。圧倒的「然り」、絶対的肯定です。

「あなたの敵を愛しなさい」(マタ5:44)とイエスは言われました。できっこない教えです。もしも相手を愛することができるのならば、その瞬間に相手は敵ではなくなってしまうからです。形容矛盾です。しかし、イエス自身はこの不可能な出来事を実行したのでした。自分の敵を友と呼び、敵にいのちを配るために十字架で殺され三日目によみがえらされたからです。

正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。善人のために死ぬ人はいるかもしれません。よく知っている友や家族のために死ぬ人は時々おります。身も知らぬ人のために死ぬ人はごくまれにいます。これが人間にとってなしうる最大の愛の行為です。しかし、敵のために死ぬ人は誰もいません(ロマ5:6以下)。イエス・キリスト以外にはそのような方はいません。これは神業です。

逆にそのような生き方および死に方はイエス・キリストだけで十分です。誰も他人/集団のために死ぬべきではないからです。命こそ宝です。沖縄の言葉で言えば「ヌチドゥタカラ」です。全世界を得ても自分の命を失うならば意味はありません(マタ16:26)。それほどに自分の命を大切にしなくてはいけません。イエス・キリストを最大・最後の犠牲と信じること。そのイエスの命を、痛みを覚えつつ食べること。誰も犠牲にしない交わりを作る決意をもって、復活のイエスの周りに集まり、聖霊によって散らされていくこと。これがキリスト教会の礼拝を中心とした交わりづくりです。

結局、「恵みのみ」「キリストのみ」(ルター)です。この点を大原則にする教会づくりが大切です。神の敵を一方的に友としてくださった恵みを喜ぶことが、教会の雰囲気となってほしいものです(11節)。12節のように「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスに言われても、イエスのようにできないということを出発点にしなくてはいけません。もしできるなら、神の子の犠牲は不要です。謙虚にできないことを認めるけれども、しかしイエスの霊を吸い込んでいる時にのみ、わたしたちは自分では気づかずに自発的に喜んで愛を行うことができるのです。友のために利他的に生きることができるのです。仕えるということは無意識に喜んでしないと意味がありません。

喜びが満ちている教会は互いに愛し合うことができている教会です。バプテストの教会は比較的明るく楽しい雰囲気を持っています。あまり気取らないので敷居が低いものです。しかし、注意が必要です。「恵みのみ」「キリストのみ」を忘れてはいけません。この喜びは値なくただで与えられたものです。人間的な交わりになってはいけません。今日の小さな生き方の提案は、素直に恵みを受け取るということです。人間の努力で愛し合うのではなく、神の業である十字架と復活、聖霊の降臨を受け入れ信じましょう。そうすれば神から愛されたように隣人を愛することができるようになります。