「イエス・キリストは世に憎まれた結果迫害され殺された、それと同じようにイエスの弟子たち・キリスト信者たちは世に憎まれ迫害される(18-20節)、信者たちは裁判にかけられ会堂から追放されるけれども、聖霊がその時には語るべき証言をさせる(15:26-16:4。マタイ10:16-25)」。キリスト信者は宿命的にこの世に憎まれ、世間と対峙せざるを得ないということが、全体の文脈です。世に憎まれるということは、現在の教会の有り方について示唆に富みます。なぜなら、誰も誰からも憎まれたくないからです。しかしながら、世に憎まれることは教会の本質的な特徴だとイエスが語っています。ここで言う「世」とは何か、「憎しみ」とは何かが問題です。今日は、このことについて掘り下げ深めていきましょう。
「憎む」というギリシャ語の単語ミセオーは広い意味を持ちます。「憎む」だけではなく「軽蔑する」という意味まで持ちます。ミセオーという訳語を選んだ著者の第一言語であるアラム語セナー(憎む)という単語は、しばしば異教徒に対して使われています。思想信条や文化の異なる相手への軽蔑・差別・憎悪が、この文脈の憎しみと同じものです。
イエスはこの類の軽蔑・差別・憎悪を受けています。今までヨハネ福音書を読んでいる中でも、イエスはガリラヤ出身者であるという門地による差別を受けています(7:52)。「あなたもガリラヤ出身者なのか」という差別発言の主は、祭司長たち(サドカイ派)やファリサイ派の権力者たちでした。彼らは中央意識からくる「田舎」への蔑視だけではなく、ガリラヤ地方特有の文化である「国際性」をも毛嫌いしています。
イエスはサマリア人の友でした(4章)。そのために、サマリア人を軽蔑・差別・憎悪しているユダヤ人からサマリア人と同一視され迫害されます。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」(8:48)。この差別発言もファリサイ派のユダヤ人たちによるもので(8:13)、彼らはイエスを憎むあまりに石を投げつけようとします。
イエスが死刑にされた裁判上の理由は、①自分を神と同じ存在とみなしたことと(5:18、19:7。15:23も参照)、②神殿冒涜です(2:13-22。マコ14:58も参照)。ユダヤ人はメシアを信じていましたが、人間が神になること/神が人間になることは信じられませんでした。イエスの信じる神は、イエス自身と一体化できる神です。「アッバ」と呼びかけることで一体になり、また一体となることで「アッバ」と呼ばせる聖霊の神です(ロマ8:15)。霊の神が信者に住まうので、「主の家」と呼ばれる神殿は不要となります。イエスにとっては、民族差別を垂れ流し、金持ちの金儲けの道具となっている、当時のエルサレム神殿は単なる「強盗の巣」です。もはや「主の家」ではありえません。むしろ一人ひとりが復活者を住まわせる「主の家」となるのです。このイエスの思想信条は、神殿貴族であったサドカイ派の祭司長たちに憎まれます。
こうして、「世」というものの正体も明らかになります。それは権力を握り、しかも力を濫用している暴力的な勢力のことです。具体的に言えば、属州ユダヤの自治を許されたユダヤ人権力者たちと、属州ユダヤを統治するローマ帝国です。この人たちは心が極めて狭く、他の考えを「異端」「異教」としかみなしません。この人たちは支配欲と所有欲をむき出しにして、自分たちが憎み軽蔑している者たちから搾り取ることを悪いとも思っていません。そして、自分たちにとって邪魔な存在を亡き者としようとします。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人権力者たちによる最高法院(71名)の秘密裁判と、属州ユダヤの総督ピラトの政治的打算に満ちた最終判決によって、イエスは死刑に処されました。これが、イエスに対する世の憎しみです。「自分たちを批判し、サマリア人とも徒党を組むガリラヤ出身者など、社会的に抹殺すれば良いだけのこと」と彼らは考え、実際に死刑に処したのでした。
イエスは同じことがあなたたちにも起こると最後の晩餐の場面で予告します。「世はあなたがたを憎む」(19節)。この言葉は初代教会が殉教者たちを記念するという趣旨でも主の晩餐を行っていたことと重なるものです。世に憎まれて殺されたイエスの死を記念しながら、同じように世に憎まれて殺された信者たちも記念されていたのです。マラナタ(主よ、来て!)は彼らの血の叫びです。
初代教会を迫害したのは、同じくユダヤ人社会で力を持っていた人たちとローマ帝国でした。ユダヤ人たちは草の根的にキリスト者を迫害し、ローマ人たちは組織的にキリスト者を迫害しました。今日はいくつかの聖書以外の同時代資料を紹介いたします。ユダヤ人の「ラビ文献」とローマ人行政官の「皇帝への手紙」です。
「十八祈祷文」というものがあります。現在もユダヤ教徒は一日三回唱える神賛美のお祈りです。いくつも古代写本があるのですが、その中の一つカイロで発見された十八祈祷文(後70-100年)の中に、次のような言葉があります。「ナザレ人たちと異端者たちは一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義人たちと共に書き入れられないように」(第十二祈祷)。ここでのナザレ人はキリスト者の意味であり、異端者の中の筆頭・典型と位置づけられています。タルムードという宗教文書によれば、第十二祈祷作成に肉屋のシモンという人物が関わっていました。言わば財界の圧力によって、毎日の祈りでキリスト者は呪われていきます。
他にも、「異端者が生命の危機に遭った時にも誰も助けてはいけない」や、「異端者の肉を食べることも売ることも禁ずる」、「異端者のパンはサマリア人のパンと同じ」、「サマリア人(=異端者)のパンを食べる者は豚肉を食べる者と同じ」というラビの言葉がタルムードにはあります。これがユダヤ人社会における厳しい迫害の実態です。差別されているサマリア人と同種類の人とみなされて、自治会館でもある会堂から追い出され、共同の礼拝も許されず、自由な商売もできずに、生命の危険にあっても保護されない。キリスト者になるということは、市民権が剥奪されるということでした。
属州ポントゥスの総督プリニウスは、キリスト者を処刑する裁判手続について皇帝に手紙を書きました(後111年)。それは次のような手順です。
①キリスト者であるかどうか確認する。②キリスト者であることを肯定した者に処刑の脅しをかけつつ、信仰を棄てるかどうか確認する。③キリスト者であることを否定した者には、ローマの神々と皇帝の胸像に礼拝 をするかどうか、お供えをし祈りキリストを誹謗中傷するかどうかを試す。④キリスト者であり続けることにこだわる者を死刑囚として連行する。⑤ただしローマ市民はローマへ送還し別途裁判を行う。
プリニウスは、二人の女性執事を拷問にかけてキリスト教信仰の内容や礼拝の実践について聞き出した結果、決まった日に二度集まって罪を告白し食事をする「堕落し常軌を逸した迷信」と断じています。ローマ皇帝を神の子として崇拝することをキリスト者が拒むことを軽蔑しています。そして彼は「組織的な結社を禁じる法令」を発布もし、その効果を自慢しています。信教の自由・結社の自由の侵害です。またこの属州では「キリスト者を特定する名簿」が作成され、社会が監視社会・密告社会になっていたことも書かれています。
イエスの予告通り、イエスを憎んだ世(ユダヤとローマの権力者たち)は、イエスの弟子たち・キリストの教会を草の根的にも、また国家的組織的にも迫害したのでした。これらの記述はヨハネ福音書に描かれていることがらとかなり正確に一致します。イエスの創った「信頼のネットワーク」はサマリア人を含むものであり、女性たちこそ活躍する交わりでした。そのために、ユダヤ人社会で力を濫用し、民族主義・女性憎悪・支配欲に駆られている人に憎まれたのでした。
また、イエスを神の子・平和の王と信じるキリストの教会は、ローマ皇帝を神の子と崇拝すること、忠誠を誓うこと、剣を取ることができませんでした。ローマ皇帝を拝まないことは懲役拒否も含むものだったのです。教会の中では世の秩序が逆転され、奴隷も自由人もなく、ギリシャ人もローマ人もユダヤ人もなく、男と女もなかったのです。神の子の周りでみんな平等に食事を取っていました。そのために、ローマ帝国の支配者層に憎まれ軽蔑され拷問を受け死刑に処されていったのでした。
この類の迫害は、弁解の余地のない加害者の罪です(22節)。信者から見ればまったく理由のない苦しみです(25節)。だからわたしたちは、このような「憎むべき破壊者」が立ってはならないところに立って(マコ13:14)力を濫用する加害行為を止めなくてはいけません。ヨハネ福音書・ラビ文献・プリニウスの手紙が語る状況に、日本社会が本格的に入る前に止めなくてはいけません。
マルチン=ニーメラーという牧師はナチス政権時代のドイツの人です。彼は次のような言葉を残しています。「ナチスがユダヤ人を迫害したとき、わたしは反対の声を上げなかった。ユダヤ人ではなかったからだ。共産主義者を迫害した時もそうだ。社会主義者を迫害した時もそうだ。ナチスが教会を迫害した時わたしは反対の声を上げた。牧師だからだ。しかしその時はすべてが遅かった。」
憲法9条の俳句の掲載がとある公民館で拒否されました。前にも日教組の大会の会場使用が拒否されたこともありました。表現の自由・結社の自由の侵害です。市民社会の萎縮が加速し、相互監視の密告社会が出来上がろうとしています。特定秘密保護法は理由も告げずに犯罪人をでっちあげることができるので、ブラックリストに従って多くの冤罪が生まれ、ますます萎縮効果が強まることが懸念されます。
その一方でヘイトスピーチが放置され人権侵害の表現が垂れ流しとされています。前にもチラシを配ることが住居侵入罪とされる、いわゆる「微罪逮捕」事件がありました。「デモはテロと同じ」「改憲もナチスの手口を見倣うべき」「結局は金目でしょ」「早く結婚しろ」「憲法解釈の重大な変更も閣議決定だけでできる」などの暴言が、傲慢な権力者たちから無反省に繰り返されています。
このような現象にわたしは「世の憎しみ」を見ます。特定の表現や集団を軽蔑・差別・迫害しても良いとする草の根的かつ組織的国家的罪を見ます。ニーメラーの言葉に学ぶならば、たった一人の朝鮮人や女性や避難者が迫害されている時に、反対の声を上げるべきなのです。これらの最も小さな人に行われている暴力は、すなわちキリストになされているのだし、キリストを迫害する者は結局キリストの弟子を迫害するからです。反対の声を上げることは、サマリア人と同一視されたキリストに従い、市民権を剥奪されたサマリア人と共に生きた教会の伝統につながる行為です。キリスト者としての証です(26-27節)。
今日の小さな生き方の提案は、差別事件に対してイエスのように「それは罪ですよ」と声を上げ続けることです(22節)。彼らはわたしたちの言葉を聞かないでしょう(20節)。ますます憎み迫害するかもしれません。それでもキリストの霊に導かれて、世の終わりまで世の罪を告発し続けましょう。同時に、「世の憎しみ」の対案として、食卓を中心にした「愛の交わり」を作りましょう。