心からの喜び ヨハネによる福音書16章16-24節 2014年7月20日礼拝説教

「世の終わりについての教え」を終末論eschatologyと呼びます。キリスト教の主流は、20世紀まで終末論をあまり積極的に語りませんでした。一部の熱狂主義的なキリスト教は、2000年の歴史の中で断続的に終末論を熱心に取り上げることがありました。しかしそれは決して主流とはなりませんでした。人々の不安を煽るために語られる終末論は、長続きするものではないからです。「すぐにもイエスが来る」という言葉は、今まであたったことがありません。破壊的カルトが悪用するような終末論(教祖が再臨のキリスト⇒世界の滅びは直ぐに来る⇒滅びる前に信者になれという言い方)は、キリスト教内部にも時々沸き起こり、また消えたのでした。

このような経緯の中、イエスは「あなたがたはしばらくするとわたしを見るようになる」(16節)という約束を、この2000年果たしていません。信者の中では終末論に対する真剣みが徐々に薄れてしまいました。むしろイエスの霊と共にいるという状態で十分ではないかという考え方が主流となりました。

かくして、20世紀に入るまで終末論はキリスト教信仰にとって「無くても構わない考え」「余分な教え」のように扱われるようになりました。19世紀に流行った考え方は、人類文明の進歩を無批判に肯定する思想です。マルクスの説く「共産主義」も、ダーウィンの説く「進化論」も同じ時代の考え方です。その時代の流行は「世界はだんだん良くなっていく」という思想です。「世界に終わりがある」という思想は完全にすたれたのです。

その後20世紀に入り人類は、二度の世界大戦において自動車・飛行機や原子力など最先端の技術をすべて軍事利用しながらの大量殺戮を、経験しました。さらに核武装競争(太平洋だけで1000回以上の核実験を前提にしたかたちでの)・原発産業による搾取(多数の過酷事故の存在を無視したかたちでの)という冷戦時代・米国支配体制(小規模紛争の連続を維持したかたちでの)に入ります。本当に人間社会はだんだん良くなるものなのだろうか。むしろ人間が世界をだめにしているのではないか。世界全体を覆う罪や不正義を前に、終末論に脚光が当たります。それはもはや、人を不安に駆り立て、人心を操作する類の終末論ではありません。絶望の時代に希望の光を与える類の終末論が、「戦争の世紀」である20世紀に復興したのでした。このような絶望的不正義には終わりがある方が良い、むしろそちらに希望があるということです。終末論は心からの喜びを与え、生きる勇気を与えるのです。

今日の聖句は、今申し上げたような希望の終末論を根拠づける内容です。この絶望の時代に生き抜くために、わたしたちは真にキリスト教的・聖書的な終末論を取り戻すべきです。アウシュヴィッツの強制収容所において、近視眼的な希望(○月○日に連合軍が来て解放されるなどの噂)により頼んだ人は、その日の到来と噂がデマだったことが分かった直後に、ばたばたと倒れたそうです。日付をつけない、息の長い希望を持ち続けることが、過酷な状況に生き延びる知恵です。あきらめないで生きるために、終末論が役立つのです。自分の人生に、また、悲惨な世界に対してがっかりし過ぎないで生きるために、しぶとく生き抜くために「世の終わりについての教え」が必要です。

16節は、十字架・復活・昇天によってイエスが見える姿でなくなることと、世の終わりにはイエスが見える姿で現れることを語っています。同じように22節も、十字架・復活・昇天の別離の悲しみと、世の終わりの再会の喜びを語っています。何度も申し上げている通り、わたしたちは「中間の時代」を生きています。その場合に重要なのは、ゴールから物事を考えるという考え方です。自分の救いも、世界の救いも道の途上にあるのです。一回目の主の来臨によって始まった贖いは、二回目の主の来臨によって完成します。一回目ばかりではなく、二回目を重視することが必要です。

そうすればわたしたちの信仰生活は未来志向となります。十字架の記念ばかりを語り、過去の贖いに感謝することばかりを唱えるときに、わたしたちの信仰生活が後ろ向きになることがあります。後ろ向きな生き方は中間の時代を意識して生きていない生活です。

過去の十字架のみに寄り頼む信仰は、三つの危険を持ちます。一つは一喜一憂してしまう危険です。元々が後ろ向きなので、今起こったことだけに目が向いて、未来を見て・目を上げ・胸を張って歩くことができなくなるのです。神が未来にどのような救いの計画を持っておられるのか、希望を持つことができなくなるのです。無力感、世界への絶望です。

たとえば、ここでイエスは十字架をもっぱら「悲しみ」と表現しています。十字架はこの世の支配者が喜ぶ、イエスに対する処刑であり、弟子たちにとっては泣いて悲嘆に暮れる事態です(20節)。十字架のみを強調することは、一種の敗北主義をもたらします。下を向いて祈ることに慣れている西方教会の悪い癖です。むしろ次に喜びがあるということを教会は語らなくてはいけません。仮に信者が十字架は勝利ですと言っても、この世の支配者にとっては何のことだかさっぱり分からないでしょう。世の終わりに敗北が勝利に逆転するということを伝えなくてはいけません。「悲しみは喜びに変わる」のです。悲しいことにも必ず終わりがあります。それを希望する根拠は終末論にあるのです。

一つ目に関連して二つ目の危険があります。苦しみそのものを美化してしまうことです。イエスの虐殺を模範とするときに、迫害されている状態に酔ってしまうことがあります。殉教の美化です。ヤスクニ思想にも似ています。

21節の「苦しみ」「苦痛」は信者への迫害の際に用いられる単語です。実際ここでは迫害が想定されています。しかし決して苦しみそのものは美化されていません。このたとえ自体の性差別性/男性視点の語り口には辟易しますが(陣痛経験の無い人の勝手な言い分のように読めます)、文脈上、悲しみが喜びへ・苦しみが喜びへ転換することのたとえであるのは間違いありません。苦しみも永続するものではありません。神は、わたしたちが苦しむことではなく、わたしたちが喜ぶことを望んでおられます。終末論は苦しみからの解放を希望し続ける精神をわたしたちに与えます。

三つ目の危険は、身の周りや世界で起こっていることに鈍感になってしまうことです。自分は過去の十字架の贖いで、過去のある時点で救いを体験していると思い込むことで、その他のことはどうでも良くなってしまうのです。いわゆる自己満足型・自己完結型の信仰生活です。世界からの逃避です。

たとえば弟子たちは「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」というイエスの言葉を理解しようとしません(16-19節の冗長な繰り返し)。この無理解な態度は、終末論に対する拒否の象徴です。「見ないで信じているのだからそれだけで良いでしょう。もう一度来られる主を見なくても十分信仰は成り立っています」という態度です。この態度は自らが行う不正義を是認し、世界で行われている不正義を黙認してしまうので問題です。

世の終わりが来ないということは、愛と正義の神の前で今までどのように生きたのかを説明する機会がないということです。その結果、驚くべき安易な生き方が促されます。「イエスの十字架によって罪が贖われているので、どのような悪事を行っても赦される、だから悪いことを行ってこの世で楽に生きるほうが得だ、だれもわたしを裁くものはいない」という不誠実な生き方です。

終末論を持たないことは、この世界の不正義に対して沈黙することをもたらします。また、結果としてこの世界の不正義を認めて補強することにもなります。わたしたちは一人残らず罪人なので、何らかのかたちで世界の不正義に加担しています。そのわたしたちが不正義に沈黙し不正義を補強することは誠実ではありません。終末論は誠実な生き方の根拠となります。

終末論はわたしたちの生き方を整えます。現実生活の悲しみと苦しみから逃げずに、そこからの解放を目指して、穏やかに毅然として胸を張って未来へと歩く姿勢を整えます。神の前に・隣人と共に・「わたしはある」という心持ちで誠実に前に歩くことができます。

わたしたちの前には十字架と復活のイエス・キリストがいます。ここには注意が必要です。聖霊への信仰はインマヌエルの神への信仰です。ですから、わたしたちはイエスを共に同じ方向に歩く方として考えがちです。終末の神への信仰は、イエスの歩く方向を逆方向に向き直します。イエスは未来の方角から・わたしたちの前方から歩いて来ています。わたしたちは前を向いて、おぼろげに見えるはるか向こうにイエスを中心とする信頼のネットワークの大群を望みみて、未来へと歩いて行きます。両者の出会う場所が世の終わりです。

先に召された人たちはイエスと共に主の食卓を囲んでいます。カナの結婚披露宴のような祝宴がそこでは持たれ、アブラハムやサラもハガルもイシュマエルも、マルタやマリアやラザロも、サマリア人女性弟子や目が見えなかったユダヤ人男性やギリシャ人の弟子たちも、アンデレやフィリポやトマスやイエスが愛した弟子も食卓につき、アッバのもと・「神の懐」にいます。わたしたちの教会の召天者たちもすでにその食卓を囲んでいます。その喜びの食卓に、わたしたちも合流します。ここに誰も奪えない喜びが完成します(22節)。

こうしてこの世界の不正義が愛の交わりである平等の食卓によって公正に裁かれます。すべての者は同じ杯と同じ食べ物を分かち合うからです。誰も先に満腹したり空腹を強いられたりしないからです。イエス自身がその人に必要な食べ物を割いて与えすべての者が満腹するからです(6:11以下)。

終末論について分かろうとしない者たちも、もはやその時には尋ねません(23節)。「アッバのもとに行く」とか、「しばらくすると見るようになる」とかいう言葉の意味は、世の終わりにイエスが来るということだとはっきり分かるからです。世の終わりにはハルマゲドンが来るのではありません。天変地異も戦争も世界中どこかで常に起こっていますから、それらは終末の前兆にもなりえません。またおどろおどろしい閻魔大王のような神が来るのでもありません。世の終わりには、福音書に示されるイエスが来るのだし、イエスを見るのです。飢えている者にパンを与え、世界で小さくされている人を弁護し、力を濫用している者に抗議をした、あのイエスに会うのです。その喜びに勝るものはありません。死ぬ前にどうしても会いたい人という存在がいます。終末論をもって生きるということは、それに似ています。イエスを見るという希望だからです。その希望・その喜びが、先ほど述べた生き方の整えの基盤となるものです。

今日の小さな生き方の提案は「より遠く・共に・前へ」ということです。わたしたちはイエスの名によって毎日何を祈るべきでしょうか(24節)。細かい祈りは個々人に委ねられています。教会としてどのような共通の祈りがあるでしょうか。ここに集められた者がみな手を携え・肩を組み、世の終わりの食卓を目指して共に前へ歩くことではないでしょうか。教会という集団には近視眼的細かな目標は合いません。むしろ大きく構えればより多くの人と仲間になれるものです。共に前を向いて世の終わりまでイエスを望む礼拝をし続けましょう。